2012-05

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。

至福の蔵。

6ツの蔵

夕張郡栗山町の小林酒造直営の酒亭(札幌市中央区南2条西4丁目)がなぜ『七番蔵』というのか。
冒頭の写真はそれを説明している。

一番蔵

創業百三十年を越える造り酒屋の、明治大正昭和の酒蔵が一番蔵から六番蔵まで。その酒屋が札幌に七番目の蔵を開きました。四代目からお声がかかって、二〇〇三年に開業した酒亭を『七番蔵』、そう名付けた。

逆打ち

この週末、十四、十五日はその小林酒造の恒例酒蔵まつりが開かれた。二日間で二万六千人を超える人々が訪れたというだけあって、僕と相棒が訪ねた土曜日の昼もたいそうな混雑だった。その割には栗山を代表する風景であるところの、この蔵の連なりを愛でている人は意外に少ない。だから初めて訪れる相棒を入場前にまずここに連れて来た。

にぎわい

試飲の大将

始まってまだ二時間と少しなのに会場はごった返していた。

精志さん2

いつもの試飲コーナーに専務取締役の小林精志さんがいた。常に最前線で汗をかきながら、日本酒の素晴らしさ、自分たちが作った酒の素晴らしさをひとりでも多くの人に手渡しで伝えたい。その情熱は半端ではない。目が合うと、てんてこ舞いの状況にもかかわらず、「ああ、ホシノさんだぁ! 滅茶苦茶お世話になってる人なんですよぉ!」と誰にともなく叫んでくれた。

酒林

仕込み水

蔵の中

ひとしきり相棒と試飲をし、出店をひやかし、蔵の中をめぐってから、僕らは四代目へ挨拶に敷地内にある本家にお邪魔する。これは前述のご縁あればこその僕にとっては身に余る光栄で、一般の方には立ち入り禁止と表示されている、祭りの喧噪から逃れた重要文化財指定の建物なのだ。ファンの方々、申し訳ありません。

外観

四代目夫人に客間に通され、囲炉裏端の席に促されると、四代目と専務のご母堂である三代目夫人が膳を持って来てくださる。さすがに相棒もそうはない展開にかしこまり、少々緊張の面持ちだ。昨春はあの震災があり、三代目が逝去され、祭りを開催すべきかの葛藤があったそうだけれど、敢えて開催した昨年の祭りは過去最高の動員となり、被災地への義援金も集まった。先般、先代の一周忌がとり行われたばかりと伺った。

かしこまる

十七、八年に渡ってお邪魔している僕も三代目夫人にお酌していただくなんて初めてのことだ。
相棒はなんて幸運な奴だろう。僕はひそかに美しい先代夫人の大ファンなのだ。

大女将お酌

しかもだ! おっかけ現れた四代目社長、小林米孝さんにも、さらに四代目夫人にも! 
しばし四代目とわれわれのなれそめ、というか取材での出逢いから七番蔵に至る想い出話に花が咲いた。

四代目

若女将お酌

眼のつぶれそうな僥倖。至福のときが流れて行く。

歴代
(凄い! 三代目と四代目の両夫人におもてなしいただくなんて!)

彰トイレ

甘えついでに若女将に館内を案内していただく。僕が事前に吹聴していた中でも、なによりTOTOやINAX 等、専門家が拝見しに来るという凄い手洗いに度肝を抜かれている相棒。

小用

ステンドグラスも大変な価値らしい。

大用

相棒は僕の想像以上にこの展開に感動し、いたく興味をそそられ、知的興奮状態にあった。

正面

すっかり無粋に長居させていただいた僕らは四代目夫妻、三代目夫人に暇乞いをして、改めて祭り会場へ戻る。北の錦ファンのみなさま、大女将も四代目も、出来ればみなさんに見ていただきたいのだけど、とおっしゃっていました。ほんとうにごめんなさい。

試飲2

さらに試飲、購入をしていたところに顔見知り数名に遭遇。

外飲み

今度は彼女らの陣取った席に導かれた。

精志さん3

そこに専務取締役、小林精志さんが登場。

集合

北の錦ファン、栗山ファンの常連さんはみんな精志さんが大好きだ。

暮れ色

いたれりつくせりの蔵の時。絞り立ての酒に、人の縁に酔いしれる。
名残惜しいけれど、もうそろそろおしまいのバスの時間だから。















亀と七番蔵。

亀ちらし

昨晩、7年ぶりの再演というTPSの芝居『亀、もしくは…』に足を運んだ。
初演から17年。そのつど配役を新たにする変遷を僕もたどって来た。
なぜなら、1995年の札幌マリアテアトロでの初演から長く出演していた山野久治と僕は二十数年前の東京広告屋時代に知り合い、制作会社を経由して、山野をロケーションコーディネイターとして、倉本聰さん出演のサントリー・オールドのCMシリーズ、倉本演出の北海道拓殖銀行のCMシリーズが生まれた。

僕が北海道に移り住んで来たばかりの頃、ちょうど『亀…』の作・演出・主演である斉藤歩の演出作品である『ドレッサー』(1994)に山野が主役で出演していた。札幌西武赤れんがホールで、ロケコーディネイターではない、俳優・山野久治と初めて出逢った。

そんな縁で、『ドレッサー』で金色に染めていた髪がまだその名残りをとどめていた斉藤歩を伴って、小樽の拙宅に山野が酒を飲みに来て泊まっていったりした。

もともと失業状態で北海道に渡った僕は、当時の山野のロケサービス会社で現場仕事を手伝って急場をしのいだし、その後も失業する度に山野に助けられた。札幌初演の 1995年に、函館公演を同行取材したり、富良野公演のスタッフ出演者の宿舎でもあった、かの「くまげら」に深夜乱入したり、別の失業時(1997)には、『亀』の道内巡業にスタッフキャストの運転手として雇われたこともある。だから『亀』には格別の思い入れがある。

2003年は面白い年だった。
山野とロケーションサービスと広告映像の企画制作会社『風の色』を立ち上げて三年目。夕張郡栗山の造り酒屋・小林酒造直営の酒亭『七番蔵』の創業に関わらせてもらった。
はじめてCMの制作ではなくCM出演の機会があった。

七番蔵看板

さかのぼること8年前、雑誌に小林酒造の取材記事を書いた。現在の四代目、当時の小林常務が僕の文章を気に入ってくれて意気投合。造り酒屋として、いずれ蔵の酒を直送で飲ませる店を構える時には手伝って欲しい、と。で、2003年秋にそれが実現した。

栗山に明治・大正・昭和の赤れんがや札幌軟石づくりの蔵の連なりが有名な風景を生み出している小林酒造。それぞれが一番蔵、二番蔵…と六つの蔵からなる蔵群れ だ。その小林酒造が、札幌に七番目の蔵を開きました。だから、七番蔵。社長となっていた四代目と酒亭に名前を付けるところから共同作業させてもらった。そしてその屋号は書道家である僕の母による。創業リーフレット、創業ちらし。そして、店の品書は今でも手がけさせてもらっている。

その2003年の暮れ、TPSでは何回目かの『亀』の再演中で、風の色の代表山野も出演していた。それならいっそ、ということになり、その年の風の色の忘年会は、まずは夕方に『亀』を鑑賞、そのまま『七番蔵』に移動して出演を終えたばかりの俳優たちも交えて杯を傾けるという趣向となった。

山野と僕と若者と、たった三人の風の色主催の宴は、だからロケや映像制作の関係者にとどまらず、四代目小林社長、僕のCM出演のクライアント(北海道銀行の宣伝担当が三人も!)、俳優や音響照明や衣装、美術さんら演劇界隈の人々…という多岐にわたる出席者による幸せな時間になった。

2005年に『亀』は原作の国ハンガリーへ渡った。
2009年の二度目のハンガリー公演『冬のバイエル』(斉藤歩作・演出) には僕も足を運んだ。

七番通し

そして幸せな忘年会から8年と少しの昨晩。17年目の亀と再会した足で、七番蔵へ。

ジョン・レノンと北温泉。

tenguyu4.jpg

20年数年前、まだ都内のアパートに住む横浜人だった頃。

翌日に予定のない男同士で金曜日の酒を飲みながら、このままお互い浮いた出来事が起きなければ、イブは温泉もいいだろうという話になった。その年も確かクリスマスは週末だったのである。

同じ広告代理店のメディア担当の後輩キタゴーとむなしく盛り上がりながら、長身で色男のくせに多分予定のないであろうテラオにも電話をして クリスマス仲間を増員した。大学の同期生だったテラオは、在学当時は鴻上尚史主宰の第三舞台(同じ頃同じ大学にいたのです)で芝居をしており、化粧して六本木を歩いているようなとっぽい男だった。12月23日の晩はそうして過ごした。

前の晩からの流れでその年のイブは、かつて僕が三年間住んでおり、その後世襲でキタゴーが住むことになった西早稲田の6畳ひと間のアパートの部屋で目覚めた。

待ち合わせの駅に向かう直前、テラオから急きょ参加出来ないと連絡があった。午前中に行った医者で痛風が判明して、温泉どころではなくなったという。

完全に露天風呂モードに入っていた僕とキタゴーは、もう飲めない身体になったと嘆くテラオの深刻さを理解しようともせず、また、20年後に自分にも降りかかる災厄とも知る由もなく、医者に行くのが来週だったと思えば、 今晩だけ飲んだって態勢に影響はなかろうと引き止めた。
だって、どうせ昨日まで飲んでたんでしょ、と。
しかし日頃のテラオらしくなく、その日の決意は固かった。

東京から列車とバスを乗り継いで4、5時間。築百年を越える那須の「北温泉旅館」のクリスマスイブは、 だから、結局、また男二人だけになった。

渋い客室での夕食や、プールほども広い露天風呂に浮かれながら、否応なく晩酌のペースは早まる。
夕方から降り続いていた雨。予感はあった。

ありったけ持ってきてかけ続けていた、古今東西クリスマスゆかりの名曲ばかりの音楽テープ(カセット!)の中に、かの山下達郎の名曲はあったかどうか…。 その晩その曲の歌詞通りに、雨は夜更け過ぎに雪へと変わり、男二人の温泉のイブは最高潮に達した。

そうだ。テラオを悔しがらせてやろう。

客室のテレビでやっていたのは何の映画だったか…。
とにかく、同じ文学部演劇専攻だったテラオが、その晩観ていないはずはないクリスマス作品だった。その映画のエンドロールが終わるか終わらないかのタイミングで、テラオの自宅に電話をかけた。

「もしもし…」

テラオの声だ。その瞬間、僕ら二人は 、
「メリークリスマス!」 と叫ぶと同時に音楽スタート!
曲はジョン・レノンの「Happy Christmas〜戦争は終わった」。
全一曲を無言で再生して、そのまま電話を切った。


翌朝、二日酔いの視野に入ってきたのは予想外に積もった大雪。
まだ、早朝である。 大変だ。こいつは早いとこ、露天に直行だ。
本州の人間、街場の人間は、ホワイトクリスマスにめっぽう弱い。

そのとき、僕らはわが目を疑った。
築百年のきしんだ扉を開けて、突然テラオが現れた。

ジョンの歌声が効きすぎて、テラオは未明ハンドルを握った。
明け方、まさかの大雪に行く手を阻まれ、北温泉に続く峠の道でクルマを乗り捨て、それでもヒッチハイクと徒歩でたどり着いたのだ。

肩に雪を積もらせ、白い息を吐きながらテラオが言った。

「メリークリスマス!」


ジョン・レノンとおでん。

ジョンレノン

1980年の12月8日は31年前ということになる。
その日、第二外国語のフランス語の教室では、誰もがジョン・レノンの訃報を口にしていた。 授業が終わって追悼ということになり、僕とテラオは大学の近所のおでん屋台に座っていた。

大根、ちくわぶ、コップ酒。 東京、師走のすきま風。
トランジスタラジオからジョンの歌声が流れ続けていた。

それから毎年12月8日はテラオと一杯やるのが決めごとになった。 就職後も、毎度場所は変われど、なんやかやと長く続けた。
ただし、19年前に僕が突然道産子に転身して以降の12月8日は、電話口で「シワス!(仲間内の12月の挨拶)」と叫ぶかファクシミリでの交流に留まっている。

道産子3年目晩秋。
札幌の素敵なおでん屋を雑誌取材する機会があった。
おでんからの連想ゲームで1980年12月8日の屋台のことにも触れた。 その原稿を「だから今年の12月8日はこの店に来よう」と締めた。

16年前の12月8日。僕は実践して「一平」のカウンターにいた。
少し酔いが廻ってきたころ店の電話が鳴った。店主の谷木さんが「ホシノ君に」と受話器を手渡してくれる。 え? ひとり戯れに立ち寄っただけなので誰も知らないはず…。

テラオからだった。

「あいつのことだからいるに違いない」
記事を読んだ東京のテラオが、 誌面で紹介した番号にかけてきたのだった。 電話の向こうから懐かしい声。

「やっぱりな。シワッス!」

今宵一平に行きたいけれど、財布に千円しか入ってない。
(2011年12月8日)

「大衆酒場もーり」その後。

もーり店主


昨年12月9日付けのブログに、神奈川県の横須賀中央にある「大衆酒場もーり」の廃業について記した。 http://kazenoiro.asablo.jp/blog/2011/12/09/6237672

横須賀のマンションに独り住まいしていた亡母が2007年盆に発病したおり、小樽から出向いて病院をあたり、嫌がる母に診察を受けさせ、あれよの入院の挙げ句に今度は退院を迫る病院との交渉を続け、小樽市の施設を探し…。11月末の退院と小樽への移送、その後の役所の膨大な手続きから、2008年3月末にマンション売却が整うまでの約7ヶ月、僕は小樽と横須賀を20往復した。

病院のほど近くに「もーり」という大衆酒場があった。
朝9時から午後11時まで年中無休で営業しているその店に、僕は何度通ったことだろう。なんせどんな時間帯に病院に出向いても、通り道のその店は常に営業しているのだ。

つらい宣告を受けた直後も、言葉少ななスキンヘッドの店主との静かな交流が僕をどれだけ支えてくれたことか。

朝に昼に夕に、僕はもーりののれんをくぐった。

すべてが一段落して店主に暇乞いしたとき、
「あんたのことは間違いなく忘れないから…」
と言ってくれたのが嬉しくて、昨年11月に沿線三浦海岸の両親の墓参りの帰りに久々に立ち寄ったらもーりはなくなっていた。

冒頭のブログとフェイスブックで「消息をご存知の方がいれば」と呼びかけたところ、クリスマスイブに店主にごく近しい方から連絡をいただいた。今日まで報告出来なかったのは、ブログ等にどこまで書いていいか、その方を通じご本人の了承を得るのに時間がかかったからだ。昨晩遅く一番新しいメールをいただいた。

店主は健在だった。

年中無休、午前9時から午後11時までの営業をかたくなに貫いて40年近く、気力と体力のバランスが崩れ始めていた昨春、あの天災が起きた。深く関わっていた地元の祭りも中止になって、張りつめた糸が切れたように、先代と合わせると70年続いたもーりの歴史にピリオドを打った。昨年5月9日だったという。

消息を教えてくれた人が僕の書いたことを伝えようとすると、店主はすぐに僕との経緯を話し始めたという。僕には再会したい気持ちが強かったけれど、そうした思いを最大限に感謝してくれた上で、店主と客の関係で終わりましょう、と伝えて来た。

残念さよりも、最悪の事態まで想像したけど元気でいてくれたこと、約束通り僕のことを覚えていてくれたこと、これぞ飲食業のプロという言葉への敬意が軽く勝って、それ以上のお願いはしなかった。

だから、僕の中でもーりは永遠になった。


馬さんの九月。

IMG_6852.jpg

去年の冬から夏にかけては、ほぼ毎月のように馬さんを訪ねていたのだけれど、いろいろあってずいぶんとご無沙汰してしまった。

久しぶりの「馬さんの店」では、いつものお姉さんが中華街ではあまり見かけないような優しい笑顔で迎えてくれた。
「おじいちゃん、外にいましたか?」

朝粥をとおもっていたのに、思いのほかホテルを出るのが遅くなって昼時に重なってしまった。いつもなら表で馬さんが外交している時間なのだが、姿が見えなかったので入口脇の独りがけの席に座り、青島ビールと砂肝の冷皿を注文。

IMG_6864.jpg

飲まないつもりが、紹興酒に突入すべきか迷っているところに馬さんが入って来た。僕が先に気づいて、すぐ直後に馬さんも。
「どゔぁえぎゅあ!」みたいな意味不明の大声を馬さんが上げたので店員さんも満員のお客さんも一斉に入口で固まっている馬さんに目をやった。僕の背中の厨房からは従業員さんの笑い声が聞こえる。
「ホシノセンセイ!」
馬さんのいつもを超えたオーバーアクションに僕は早々に嬉しくなる。ならばと冷たいネギそばでさっと締めて表の馬さんに表敬だ。

IMG_6874.jpg

「ハチジュウハッサイ、アメリカウマレ!」
相変わらず馬さんの名調子だ。道行く人に大きな声で話しかける。
僕が食べ終わって出て来ると、馬さんは急に真面目な顔になって例によって革の鞄の中から自分宛にきた便りを見せる。

たしか以前にも見せてもらった、札幌の女性からのファンレターみたいなものの続編を僕に示す。流暢に日本語を話す人ばかりの中華街に何十年もいるのに、馬さんはほとんど日本語を話せない。片言をつなぎ合わせると…。以前店に来たこの人はよく手紙や写真を送ってくれたのに、最近自分が2通返信したのに音信不通だ。娘さんが身体が弱いと言っていただけに心配だ。

IMG_6879.jpg

そうしてバッグの中からさらに紙とボールペンを取り出すと、何やらしたため始めた。馬さんはまず僕への敬意を書き表し、次にその方の携帯電話番号と札幌の住所をすらすらと書き写した。

自分は日本語があまり話せない。でもとても心配なので、僕から連絡して様子を確かめ、自分が心配し、平安を祈っていることを伝えて欲しいと言うのだ。なんとかたのむよ、と。

IMG_6884.jpg

僕は何回も馬さんの「片言」に泣かされて来た。
たいてい、笑顔がふと真顔になった瞬間に、言語も国籍も超えた馬さん語とも言うべきひとことが発せられるのである。

最初に僕が馬さんにやられたのは、初めて口をきいた時、帰り際の道端の見送りの際だった。いつも変わらない満面の笑みがふっと真顔になった時に一回、また笑顔に戻ってもう一回、同じ言葉を言った。

「イノリ  イツモ シアワセ」

馬さんの言葉はみんな覚えている。
その次に訪ねた時にはこう言った。

「ワタシ 朝モイノル 昼モイノル 夜モイノル
 イツモイノル ダカラシアワセ アナタトワタシ トモダチ」

近況を聞かれ、とてもよくないという話をしたときだった。
そんなことを口に出していはいけない。シアワセが逃げる。
そういった意味だったのだろうか。


ふと心配になって、さっき馬さんにこう聞いた。
「馬さんは? 健康? 悪いところない?」
馬さんは、最近毎朝1時間半体操をしていると言った。
「毎日健康、今日モ健康、元気。デモ年寄リ明日ワカラナイ」

馬さんらしからぬ表現だな、と思って不安が増した。
しつこく聞こうとすると、 突然シャツを脱ぎ始めた。
快晴の日曜日、観光客でごった返す中華街の午後一時にだ。

IMG_6885.jpg

IMG_6887.jpg

胸板をたたき、どうだ! と言わんばかりにこう言った。
「ハチジュウハッサイ、アメリカウマレ!」

僕は今回も1本取られた気分になって、札幌の人には連絡してみましょう。10月の頭にまた来る予定だから報告しますと言って別れた。

馬手紙





雨上がりのママ。

雨上がり1

台風の雨上がりに記憶が空を飛んで金井のママを思い出した。

水商売の女性をママと呼ぶのに長年抵抗があった僕が、大学5年の時にアルバイトをした、その喫茶店の雇い主の金井のママが、ママと呼んだ最初で最後のママだ。

ブランカは新橋駅の烏森口から徒歩5、6分の雑居ビルの地下にあった。サラリーマン相手のランチ中心のなんてことない喫茶店。しいて特色と言えば、テレビゲームのポーカーが三台ほど。僕も冷やし中華やピラフを作らされてランチに出していた。後に一世を風靡する第三舞台で芝居をしていた大学の同級生Tが長年勤めていたのだが、もう一人の女性従業員キリコちゃんといろいろあったりで、とりあえず僕がしばらく働くことになった。

いまだに年齢はよくしらない。おそらくは10歳ほど年上の加藤登紀子似の独身のママは、だから決して美人ではないのだけれど、江戸っ子の気っ風の良さでえらく人気があった。酔っぱらうともうハチャメチャで、小さな額でも一万円札で支払い、おつりはすべてハンドバッグにそのままジャラッと押し込んで、また次の支払いは一万円!

「え〜い!」と叫んでビルの二階の飲み屋から階段を飛び降りて足を骨折したり、ある晩は佐藤蛾次郎さん経営のスナックのトイレで鍵を閉め忘れ、用を足しているままのの体勢で後ろ向きに店内に転がり出て来たりと武勇伝は数しれない。

当時、ランチの食材をブランカに卸している築地の食料品会社の社長 と、虎ノ門の焼鳥屋のリー・バン・クリーフ似の社長の双方からプロポーズされており、ある晩僕が帰った後に、片方の相手が庖丁を持って押し入る刃傷沙汰があったりで、ほんの小さな店なのにドラマチックな日々だった。

僕の存在と僕の歌を妙に気に入ってくれたママが、
「ギターっていくらするの? これでギター買って来て。店に置いとたらいつでもホシノ君の歌聴けるもんね」
と、ある日突然、いきなり1万円札を5枚も10枚も差し出した。 僕は半分だけ預かって神田でギターを買った。それからというもの、店じまいの準備がひとしきりすると、「ホシノ君、ねえ、歌って」なんてことがたびたびあった。それは、たいていママがちょっとまいっている時に違いなかった。

すし屋のカウンターの『お好み』って奴も 、そこで物怖じしない間合いも、みんなこのママに教わった。僕が店を辞めることをとても残念がってくれて、その最後の日は、築地の寿司屋に始まり、ピアノにジャズボーカルの生演奏のナイトクラブ等々を散々豪遊、なぜだかみんなで号泣した果ての史上最大の大盤振る舞いの締めは、赤坂東急ホテルのスイートルームにママとキリコちゃんと僕の後釜の男子と4人飛び込みで泊まっちゃった!! 

それはそれは不思議な一時期だった。


学生なのに不相応な高給をいただいていた僕は、そのギャランティで、ハタチの夏に衝撃的に出逢った北海道に、初めて、車で、一人旅することになった。これから小樽行きのフェリー乗船のため、新潟に向かうというその晩、僕は挨拶にブランカに立ち寄った。

夏の終わりの、台風の影響の雨が降り続く晩だったのを覚えている。

一ヶ月強の旅を終えて、僕は真っすぐブランカに報告に来た。

平日の昼間だったのに、店の行灯が落ちている。
扉のガラス越しに覗くと、イスもテーブルもぐしゃぐしゃにされている。強盗? これじゃ全く様子が分からない。

僕は雑居ビルの二階の印刷屋さんに駆け上った。
ここの社長はブランカの常連なのだけれど、印刷屋は世を忍ぶ仮の姿、某有名暴力団の幹部とは誰もが知っていた。いつぞやもブランカで声を潜めた「打ち合わせ」をしており、おそるおそる注文に近づくと、どう考えてもぶっそうな言葉が飛び交っていた。

この社長にも 僕は妙に気に入られた。突然「兄さん、どっちがいい?」と尋ねられてエレッセのポロシャツをもらったりした。当時、渋谷のライブハウスで歌っていた僕のステージに、場違いな服装の舎弟風の若者数名と足を運んでくれたりもした。でも、帰り際の社長に挨拶に駆け寄ると、「いやあ、ホシノさん、おれは演歌しかわかんねえんだ、ごめんよ」 と坊主頭をかきながら苦笑していた。

その社長が僕に言った。
「ポーカーゲームのことを誰かがたれ込みやがって、ガサ入れがあったんだ。今ママは留置場だ。気心の知れたデカに頼んで、早く出してもらうように手配してるから安心していいよ」

僕の後釜の自衛隊出の若者はビビって使い物にならなかったのに、印刷屋の社長はほれぼれするほど頼もしかった 。しばらくしてママは、社長の計らいで、予定よりも早く娑婆に出て来た。

ママは釈放される時に、警察官から「また帰って来いよ」と声がかかる天性の人気者だった。若干現金を賭けるとはいえ、もともとポーカーゲームもサラリーマンのお楽しみ程度で悪どいほどのものではなく、警察はルート解明をしたかったらしい。何より、通報があったので調べざるを得なかった。ママがルートを話さなかった というより、月に一度だけ風のように現れてはすぐ消えるゲーム屋の 素性を本当に知らなかったので拘留は思ったより長引いた。その通報の主は…例のママを思う人ではないかとの見方が濃厚だった。

社長に連れられて店に戻って来た日も、ぐずぐずした雨の日だった。
僕とキリコちゃんは店で出迎えた。さすがのママも、いきなり警官が何人も乗り込んで来た瞬間を思い出すのは恐怖で、留置場で店を畳む決意をしたんだと語った。


あれからかれこれ30年に近い。
一昨年、僕の母が亡くなったときには香典を送って来た。
僕が北海道に移り住んでからはずっと疎遠になっていたけれど、連絡先を調べて僕もママ に電話をした。

ママは母と何度か電話でしゃべったことがあり、とても印象に残っているからと言ってくれた。ママ自身もずっと母上と二人暮らしで、その母上が亡くなってからはあまり出歩かなくなってしまったと言う。

あの頃は楽しかったね、と電話口の声がふるえる。

『またホシノ君の歌が聴きたいな。
 でもあたしもおばあちゃんになっちゃったから。
 母が亡くなってから鬱みたいになっちゃってね。
  だいぶよくなったからさ、もう少し元気になったらまた逢おうね。
 今お付き合いしてる人にもときどきホシノ君の話をするの。
 みんなで赤坂東急のスイートに泊まったことなんかも言っちゃうん
 だ。あんな素敵な日々があったなんて夢みたいだね』

ママ、僕もそう思うよ。逢いたいね。
台風が来て、嫌な雨が降って、だから今日も思い出していたよ。
あの頃までもそれ以降も、ママと呼んでいるのは貴女だけです。
仕事部屋に今でもママのギターが置いてあるよ。


心の被爆。

IMG_5473.jpg

21年前の8月15日朝、東京のアパートの玄関で靴をはいた所に電話が鳴った。盆休みをタイで過ごすために成田に向かう折りも折り。
今すぐ帰れと横濱の母。たった今旅立つんだからと不機嫌に僕。
珍しく母が強い語気で言った。「お父さん危篤だから」

横濱市金沢区の病院に駆けつけると、ほとんどの親戚が集まっていた。蝉時雨がうるさくて、それはそれは暑い日だった。

父は激しく肩で息をしていたが、もう意識はなかった。
直腸がんの手術をした父は 三ヶ月の宣告を受けたけれど、それから人工肛門の世話になりながら三年三ヶ月が経過していた。その夏、病状はそれなりに安定しており、歳月が緊張感を緩めさせ、危うく僕は人非人になるところだった。

もうだいぶ前から口からの飲食は許されず、胸に刺した管からの栄養だけで父は生きていた。それでもうだるような暑さの中、「乾き」を癒すための一日に数個のダイヤ アイスだけが、口に含むことの出来るすべてだった。

数日前に見舞った時、父は孫娘のような看護婦に懇願した。
「お願いだから、もうちょっと氷を、一個でもいいから…」
あの誇り高き男の媚びるような口調を生まれて初めて聞いた。
人間が口からものを取り込んで、お尻から排泄出来ることはなんと幸せなことだったのか。初めて知った。

海軍兵学校出の父は終戦記念日に意識不明のまま小康状態となり、一両日中は大丈夫であろうということで親戚は解散した。一番父を顧みなかった僕は、看病疲れの母を家に帰し、はじめて父の病室の隣のベッドに泊まることにした。

その未明に父は息を引き取り、僕ひとりだけが看取った。


今春、一年早い父の二十三回忌と認知症で亡くなった母の三回忌の法要を霊園のある神奈川県三浦海岸で営んだ。まだ原子力発電所の問題がこれほどまでになるとは誰もが思っていなかった。それでも地震や津波のショック、余震の恐怖から母のすぐ上の姉は法事を欠席したし、その後の放射能の行方や計画停電は、法要の実施そのものを思い悩ませるほどに重大事だった。

原子爆弾を二度も経験した日本で、終戦と盆が重なっていることの意味をこれまであまり考えたことがなかった。けれども終戦の日に父の危篤が重なり、翌日が命日になってその意味は否応なく深まった。

盆を故郷で過ごすことの意味。離ればなれの血族たちが、散財や渋滞を覚悟で一年に一度だけ同じ時間を過ごす意味。二十年前に北海道に移り住むまで、「故郷」とか「帰省」の意味すら分からなかった。北海道で初めて勤めた会社の初めての暮れ、上司に『ホシノくんは田舎に帰らないの?』と聞かれてようやく少しだけ実感が湧いたっけ…。


ヒロシマ、ナガサキにフクシマが加わったことで、 その惨状を「二度目の敗戦」と呼ぶ人がいる。身内の新盆に故郷 に帰りたくとも、その大切な土地に足を踏み入れることを許されない人たちがいる。 直接的な放射能汚染の恐怖はもちろん、さらに人災で故郷を喪失した人たち、直接被災していなくとも日本が、世界が受けた精神的な傷を、作家の五木寛之氏が “心の被爆” と呼んでいるのを聴いた。


北海道に移り住んだことで、残して来た土地、生まれ育った横濱は改めて「故郷」として僕の中に明確に存在するようになった。でも、一人っ子だった僕が両親を失ってみると実家=故郷という概念も焼失してしまい、ふたたび帰る場所をなくしてしまった感も強い。

ただ毎年のように見慣れていた横濱開港記念の祭り、何万発も打ち上げられる鎌倉や隅田川の花火の絢爛を恋しく思う気持ちが年々深まる一方で、小樽潮まつりは言うにおよばず、わずか1500発の地元朝里の花火をいじらしくやるせなく愛でるようになった自分がいる。


横濱も小樽も、日本中世界中の人々のそれぞれの故郷も、大切な人たちとの記憶と共に末永くあり続けて欲しいと願うのが、盆。





落日の ホテル ノイシュロス 小樽。

IMG_5733.jpg

夕餉の食卓に着いた瞬間、
思いもよらぬ落日の絢爛が記憶を呼び起こす。

IMG_5754.jpg

古今亭八朝夫人、乃理子さん。
小樽の木地挽きもの職人、土門収さん。
小樽運河保存運動の峯山冨美さん。
おでん小春の小野寺晴子さん。

IMG_5773.jpg

それから、母を大切にしてくれた さとうえみさん。
この一年にお別れした交流のあった大好きな人たち。

あ、憧憬だけだったけれど、原田芳雄さん。
今春、母の三回忌。来夏、父の二十三回忌。

IMG_5800.jpg

絶景のホテル ノイシュロス 小樽。
僕はおだやかな気持ちで新盆の彼らを迎えた。




NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

カレンダー

04 | 2012/05 | 06
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

ダイジェスト

あずましき国の予告編みたいなものです。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

♪BGM

©Plug-in by PRSU

各種ランキング

http:/www.bloog.jp/search/rank.cgi?mode=r_link&id=2813 人気blogランキングへ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

風の色通信

あずましき国のミラーサイト「センムの独り言」by.macも要チェックです。

プロフィール

azumashikikuni

フリーエリア

無料ホームページ ブログ(blog)

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

FC2ブログランキング

FC2 Blog Ranking

全記事(数)表示

全タイトルを表示