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2020-04

父の終戦記念日。

二十八年前の終戦記念日の朝、僕は東京西早稲田のアパートから成田空港を目指して靴を履こうとしていた。そこに横濱の実家の母から電話が鳴って、すぐ帰って来いという。

「え、今日から夏休みで今出かけるとこなんだけど…」
「とうさん、危篤よ」

さかのぼること三年半前、父は直腸癌の手術をした。
当初は早期発見とのことだったけれど、術後に先生から余命三ヶ月の宣告を受けた。

それから父の命は三年以上も永らえ、家族の緊張も和らいできた。
父はこのまま治ってしまうのではないだろうかとすら思い始めていた。

なかなか忙しい広告の仕事をしていたし、父のこともあったし、その三年間は長い休みを取ったことはなかったように思う。久しぶりに夏季休暇を申請して、その日からタイへ出かける予定になっていた。ギリギリまで仕事をして前の晩は準備で飛び回っていた。アパートに戻ったのは真夜中だった。今のように携帯電話もなかった頃なので、あと一分母の電話が遅ければ、連絡のつかいないまま僕はタイへ旅立っていただろう。仮にタイのホテルで捕まえられたとしても、お盆の繁忙期に帰国もできず、僕は人非人になっていたに違いない。


黙祷の時間ころに金沢区の病院に着くと、父方の親戚はおおかた集まっていた。母方の叔母も二人駆けつけてくれていた。暑い暑い日で、蝉時雨がうるさいほどだった。父の意識はなく、荒い息をしていた。今年亡くなった父の一番下の弟が、うわ言を発している父の口元に耳を近づけていた。ほとんど聞き取れない切れ切れのあえぎの中から、四男坊はかろうじて聞き取った、
「兄貴がね、もうレコードが止まった。って」という意味不明な言葉を皆に告げた。


危険な状態を脱した訳ではなかったものの、しばらく小康状態が続きそうだという医者の言葉に促されて、親族たちは夕闇にまぎれていったん三々五々引き上げていった。


その頃は仕事の忙しさを口実に、父のことは母に任せっきりにしていた。
海外へ飛び出そうとしていたことも含め、その罪滅ぼしの気持ちもあって、今晩は自分がここに泊まるからかあさんはゆっくり眠ってくれと母を実家に帰し、僕は父のベッドの隣にもうひとつベッドを置いてもらい隣に寝た。


長年会話のない、絶望的にはぐれた一人っ子と父親の関係だった。
こんな時、意識のない父親にどのように話しかけたものかうまく言葉も見つからなかった。
自分にはただ隣にいることしかできなかった。


夜中の三時頃、父の容態が急変した。

急いでナースコールをし、看護師は慌てて宿直の先生を呼んだ。
僕は急いでナースセンターの公衆電話から母に電話をした。

僕らには深夜の交通手段がない。
僕の車はあの時実家に置いてあったのだっけ。
母は車の運転ができない。
無線タクシーも捕まらない。

僕の実家は病院から車でものの十分ほどの距離なのに、さっきまで親族一同が集っていた病院に危篤状態の夫のために駆けつける術が母にはなかった。

「もうどうしようもないね。あなたに任せたから」

電話口の母が静かな口調で言った。
僕は意を決して父の病室に戻った。

たぶんその際の処置で結果が変わることはなかっただろう。でも、ドラマなんかでよく見る心臓にショックを与える大きな救命の機械が運ばれてきて、慣れない若い医師がその扱いに窮して、その修羅場で、父が最後の戦いをしているその現場で、家電で言うところの取扱説明書みたいなものと格闘している様は滑稽で悲しく、怒りがこみ上げてきた。


僕は自分でも驚くような大声をあげ、父親の足にすがりつき、
自分の口が勝手に 助けてください と発しているのが遠くで聞こえていた。




父が静かになってしばらくして、落ち着きを取り戻した若い医師が言った。

「朝までに病室を空けてください」

まったく想像もしていなかった言葉をぼーっと聞いていた。
もう怒りも絶望もなかった。
ただ白けたような虚無感だけが溢れてきた。


夜明け過ぎに、ドラマみたいに真っ白い朝もやに包まれた病院の裏口から、紹介された番号からやってきた見知らぬ葬儀屋さんと二人で父親を彼の車に乗せたところで、四年近く続いたその病院との付き合いが終わった。



終戦記念日は、だから、二十八年前から父の戦いが終わった日にもなった。
平成になってまもない終戦記念日だった。


今日は平成最後の終戦記念日だという。

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叔母からの手紙。

洋子叔母の手紙

十一月一日は初秋に満百歳で逝去した祖母(亡父の母親)の四十九日だった。
残念ながら諸事情により僕は東京青山にある星野家の菩提寺の納骨に参列できなかった。

数日前、その日に会えなかった亡父の妹、僕の叔母から分厚い封書が届いた。

叔母のご主人は数年前にALS 筋萎縮性側索硬化症という重い病に襲われた。

饒舌でビール党の叔父は、その凄まじいほどに進行の早い病のために、あれよと言う間に言葉が不自由になり、現在は頭と目と耳は確かだけれど、起き上がることも寝返りを打つことも言葉を発することも出来ない。

唯一動かせる足の指で特殊なパソコンに打ち込む言葉だけが、残された外界との意思の疎通方法だ。

長年俳句に親しんできた叔母に促されて、叔父は俳句に手を染めるようになった。この度届いた分厚い封書は、2013年7月から2015年10月にわたる叔父の俳句作品集だった。

俳句初心の叔父である。
その巧劣の問題ではない。

話すこととビールが何より大好きで、親族の集まりでは飲兵衛の先輩としていつも隣でご相伴した僕の叔父である。妻の(そして私の父の)実家のお茶屋や独立した子供達の自宅を設計した一級建築士の叔父である。突然想いもよらぬ残りの人生を生きざるを得なくなったひとりの男の叫びに突き上げるものを抑えきれなかった。

二年と少しの間に同人誌に掲載された叔父の膨大な俳句の中から、僕が徒然なるままに選んだ句と、ご友人、そして本人の短い文章と合わせてここに記す。

叔父はもう俳句の言葉でしかこの世の中と繋がることができない。それならば、少しでも多くの人たちに叔父の生きている証しを感じていただければと勝手に思った次第である。



呼吸器に 生かされてゐる 夜長かな

天高し 我は 丸太のやうなもの

秋深し 我が句打ち込む 足の指

手をつなぎ 歩きし日あり 十三夜



ジョンレノン 冬銀河より メッセージ

着ぶくれの 妻来てこころ あたたまる

麻痺の手に 主の御手重ねらる 聖夜



生きるための ときめき今も 春立てり

うららかや 笑顔素敵と 見舞はるる

春宵の ふと思ひゐる いのちかな

お見舞の 大きな籠の スイートピー

嗅覚を 失ひし 我春の霜

起き抜けの 新茶楽しむ 日々ありし

卯の花や 病得てより 年取らず

卯の花や 生きてゐるだけでいいと妻



梅雨しとど 山泣き海泣き 我も泣く

あぢさゐや 妻と旅せし 宝の日

打揚げ花火 腹に響くや 車椅子

娘二人の家を設計 百日紅

病床の 願ひは一つ 星飛べり



許されて するめをしやぶる 秋の宵

「あ」でも「う」でも声を出したき 夜長かな



私ごとで恐縮ではあるが、この句の作者 Aさんは、私の夫とは高校以来の親友である。一級建築士であるAさんは、現在難病のALSの闘病中。

毎日送られてくる『湧』への句稿を見ながら、夫は声をあげて泣くのである。声を出したくても、手足を動かしたくても、体中全ての筋肉が機能しない。この無念さを、悔しさを、親友として思うとき、止めどなく泣けてくるのだと思う。

微かに動くまぶたの瞬きで、文字盤を追い俳句を作り続けている。愛する家族や介護のスタッフに手篤く支えられて。

読み手である私たちは、Aさんの俳句から、感動や勇気をもらっている。


水たまり


手の動かば 本を読みたし 秋灯

連弾や 娘と孫や 木の実降る

鳳仙花 餓鬼大将と言はれし日

スカーフに 秋風を連れ 妻来たる

取つておきの 年酒を妻と 酌みし日よ


初夢や 建築語る 我のゐて


手をつなぎ 狭山丘陵 十九の春

早春や 一緒に生きる これからも

桜咲く 百歳の義母 祝ふごと

病得て 新茶楽しむ 時もなく

卯の花や 施設で暮らす 義母思ふ

小説に 読み耽りし 日桜桃忌



俳句を始めて二年弱になる。身動き出来ない私の体は、読むことも書くことも話すことも不可能。妻の読み聞かせが全てになった。歳時記を覚えることにも苦戦している。俳句が出来た時には何回も繰り返し覚え、唯一僅かに動く左足の親指で「伝の心」に打ち込む。俳句は昼も夜も一日中考えている。そしてなくてはならないものになった。



父の日や 向日葵抱へ 娘来る



妻が来る いつもの道の 秋日傘

盆祭り 大きくなれと ひよこ買ふ

秋時雨 義母の訃報に 祈りけり

穏やかに 百歳の母 逝きし秋

義母逝きて 思ひの募る 夜半の秋

妻のゐて生きる意欲の出づる秋

仲秋の 古曲に義母を 偲びけり

赤蜻蛉 出会いし人の 皆優し










路地裏の復権。

商店街側
 
小樽の駅前から札幌方面に少しだけ戻るような形で、アーケードのあるふたつの商店街を抜けると、みっつ目が花園銀座商店街です。その山側に小樽で一番大きな酒場街である花園エリアがあります。カスバのような飲み屋の迷宮で、商店街と垂直に交わるいくつもの小路にはそれぞれ名前が付いていて呑んべいを手招きしています。

小樽駅から歩いて約十分。花園銀座商店街がJRの高架と斜めに交わるところを右に入ると突然時代がかったゲートが現れます。その奥が嵐山新地。

真っ直ぐ進むとすぐ突き当たるので、そこは袋小路と思っている人も多いようです。いえいえとんでもない。

実はその先がL字のクランクのようになっていて、それまでと同様に両側に飲み屋が現れます。そのまま抜けると、小路は今度はだいぶ大きな逆のLの字になって嵐山通りという小路にぶつかり、嵐山新地はあっけなく終わってしまいます。

(残念ながら、嵐山通り側のゲートは今年の初夏だったか撤去されてしまいました。私には痛恨です/右下)
 
嵐山通り側

 
__新地とは?

① 新たに開いた土地。新しく居住地となって、人家の出来はじめた地。新開地。

② 新たに得た領地。新たに受けた知行。

③ 新開地に出来た遊里。大阪の曽根崎新地、江戸深川の新地。転じ遊里、遊郭。
 
※ 新地通い/遊里に通うこと。
※ 新地狂い/遊女に溺れて遊蕩すること   (以上、広辞苑より)

辞書で新地を引くとなかなかオトナな興味深い言葉が並びます。
私にはどちらかというと関西の響きに感じられます。
北海道では珍しいのではないかな。

 
忘れかけていたオトナの時空。
嵐山新地にはそんな風情の名残りがあります。
『新地通い』『新地狂い』
そうした言葉に眉をひそめないでください。

実際には安心安全健全な一角であっても、
地元の人間すら袋小路と思い込んでいる向こうに、
表通りにはない、裏通り独特の哀感が存在し、
そんな日常と非日常の狭間にこそ、大人が好奇心惹かれ、
後ろ髪引かれる盛り場のときめきがあるはずです。


 
  星の庵 風の色は嵐山新地の中ほどにあります。
  袋小路と思われているその先にあるので、なかなかふらり
  と偶然に立ち寄ってもらえません。

  店主はそこで毎晩お客さんを待っています。
  
 玄関

 
路地裏の復権。

かつてのにぎわいをよそに、残念ながら現在の嵐山新地は、全体としてはひっそりと静まり返っています。経済も観光も低迷している、こんなやるせない時代だからこそ、盛り場の、路地裏の復興が期待されます。

今回のプロジェクトはそんな嵐山新地を舞台に展開します(続く)。


このプロジェクトご興味を持っていただいた方__。
https://readyfor.jp/projects/kakurega

星の庵 風の色 移転に伴うクラウドファンディングによるご支援のお願い。

玄関

十二月の末(予定)をもって星の庵 風の色の現在の店舗での営業を終了する運びとなりました。わずか三年ではありますが、ご愛顧いただいた皆々様に感謝申し上げます。

傘と照明

風の色の入居した建物は五十年を超える時間を生きてきました。

雪2

激しい雨漏り、土台の脆弱化、何よりも屋根の雪の問題は、すでに通行する方を脅かすレベルにあり、この冬を乗り切ることは難しいとの判断が最大の理由です。今春、風の色と共に残っていた二階のスナックさんも営業を停止して、建物にしがみついているのはすでに僕だけになってしまいました。

kakurega.jpg

さて、半ばの志をどのように継続するかずっと思案しておりましたが、不思議なタイミングですぐはす向かいの空地の所有者の方との縁が芽生え、そこに限りなく私の意を汲んだささやかな小屋を建てる計画が持ち上がりました。

平面図

しかしながら、居抜き物件ならともかく、新築への入居となれば、いくら店子とはいえ、厨房設備等々をゼロから設えるには私の懐はあまりに非力です。されど、小樽の日常と非日常の狭間、少々非現実の匂いがする嵐山新地の魅惑から離れがたく、このまたとないチャンスを逃すのをもったいなく思っていました。

蔵戸

そんな折りも折り、とある友人からクラウドファンディング『READYFOR(レディフォー)』の紹介を受けました。私の想い、考え、計画を、皆さまにプレゼンテーションすることで、賛同していただける方からご支援を頂戴するシステムです。単に寄付を募るのではなく、こちらからも支援いただいた方へのささやかな御礼を返させていただく考え方です。このファンディングによって、厨房機器の導入敷設費用の一部をまかなうことが出来ないだろうか、と。

雪見障子

私の夢の実現は、小樽の未来へ繋がると信じています。
勝手を言えば、それぞれが自分の店として、創り、育てる気持ちで参加し、関わっていただけたらこれほどの歓びはありません。

書院

直接的なご支援はむずかしくても、以下のページにアクセスしてもらい、私の試みをまずは知ってもらい、シェア(できればコメントなど付けて)いただいたり、Twitter 等で拡散していただけたなら幸せです。

海賊

プロジェクトページのURLはこちらです:
https://readyfor.jp/projects/kakurega

公開期間は本日十月二十八日から十二月十六日までの五十日間です。
目標金額に届かなければ、それでジ・エンド。
オール・オア・ナッシングのシステムです。
詳細は以下をご参照くださいませ。

どうか応援のほど、よろしくお願い申し上げます!


星の庵 風の色
店主 星野 惠介 拝

逢わねばならぬ人に逢う__風の盆 2015


下線文Ryo.jpg

二十五年前の終戦記念日に父は危篤になった。

さかのぼること三年半前に大腸ガンの手術をしたのだけれど、早期発見で良かったと安堵していたはずなのに、術後余命三ヶ月と言われた。人工肛門になり不自由な思いをしながらも、三年が経過し、一時は自宅に戻っていた。さすがに周囲の人間の緊張感も緩んできた。このまま病は消失してしまう気さえしていた。

一九九〇年の八月十五日、東京のアパートで成田を目指して靴を履いている時に電話が鳴った。横濱の母からだった。今すぐ帰ってらっしゃい。え、これから成田だよ。

おとうさん、危篤よ。

誇張ではなく、あと一分電話が遅ければ僕は成田からアジアのとある国へ飛んでいただろう。携帯電話なんてない頃だ。現地に着いたが最後、連絡がついたとしても、盆の混雑で真っ当に戻れたかどうかすら定かではない。

僕は成田ではなく、横濱の病院を目指した。

暑い終戦の日だった。
僕が父の病院に着いたのは黙祷の時間を過ぎた頃だったと思う。
父方のほとんどの親族は僕より先に病院にいた。
緑が視野いっぱいに広がる病院の窓辺に蝉しぐれが降り注いでいた。

父の意識はなく、激しい息遣いだけが辺りに響いていた。
もう会話はできる状態ではない。
何時間かして唇が少し動いたので耳を近づけた。
父は言った。「レコードが止まった」。

夕方、意識は戻らないものの危篤状態を脱したので、医師の勧めにより親族はいったん解散ということになった。集まった親族はほとんどが都内からだった。

看病に疲れていた母に変わり、その晩は僕が父の部屋に泊まることになった。
長年絶望的に父とはぐれていた僕は、都内のアパートに住みながら、術後しばらくはともかく、後半は横濱の父を見舞うこともまばらだった。

終戦の日から日が変わった午前三時過ぎ、ふたたび危篤状態に襲われ、宿直の医師と看護師の措置も功を奏さず、父はあっけなく息をするのをやめてしまった。つい数時間前まで親族は一堂に会していたのに、一番父を顧みなかった僕がたった一人で父を見送った。

平成二年八月十六日のことだ。
平成二十一年に母を送り、同じ神奈川県三浦海岸の霊園に収めた。


サントリーの全身である壽屋に入社した父は、後のサントリーの広告黄金時代の礎を築いた、開高健さん、山口瞳さん、アンクルトリスの生みの親、柳原良平さんと同僚だった。

山口さんが父に宛てた数冊のサイン本はファンなら目も潰れそうな逸品で、山口さん自作の俳句が直筆でしたためられており、しかも柳原良平さんのイラストも記され、つまり二人がかりなのだ。


盆とはつまり、失った人たちがしばし帰ってくる日なのだという。
だからその道を見失わないように、灯篭を道標(みちしるべ)にしたりする。

その人たちと再会出来るということは、なし得なかった想いを遂げるチャンスなのだろうか。
父は享年六十三歳。僕はその時三十一歳。ただの一度もふたり酌み交わしたことはなかった。
人の親となり、父の年齢に近づくにつれ、あの人の無念にばかり想いがいっててしまう。年を重ねるにつけ、父親という孤独を、父親の寂寞を思わずにはいられない。


逢わねばならぬ人とは、やはり遅ればせの杯を掲げるべきなのだろう。

あのひとのこと。

僕が大学四年生か五年生の夏のこと。
もちろんまだ、横濱市民だったころ。

函館を訪れるたび、朝市でイカ徳利を売っていて、いきなりスペイン語で話しかけてきたりする名物おじさんの編笠屋さんに挨拶をするようになっていた。その日も「こっちへ来な」と言われて、彼の隣にぺたんと座らせてもらって、お茶などご馳走になりながら、彼と観光客との可笑しいやりとりをしばし楽しみ、自分だけちょっと別格みたいで得意な気分だった。

少しすると朝市全体がなんだか騒然としてきた。観光客のみならず、地元函館の人たちも突然右往左往し始めた。よくよく聞いてみると、高倉健さんが朝市で映画撮影をしているという。健さんをひと目見ようとする人たちが「あっちにいた」「いやこっちだ」と色めき立っていた。

僕も映画ファンであり、数年前に観た、同じ北海道を舞台にした名作『幸福の黄色いハンカチ』の “あの” 健さんをこの目で見たい気持ちは山々だったけど、元来がひねくれ者なので、どうせ行っても黒山の人だかり、群衆の中のその他大勢のひとりなんて面白くないし、第一それは健さんの撮影の邪魔になるだけじゃないか、とハスに構えて、編笠屋さんの隣にいる幸運の方を選んでそこを動かなかった。内心はちょっと残念だったのだけれど。

その晩同じ民宿に泊まっていた三重県からの女の子と、宿の夕食の後、散歩に出た。
元町界隈の観光名所、ハリストス正教会あたりを裏手に入り、昼間の観光客はここから逆に海の方を眺めることなんてしないだろうと、やっぱりひねくれ者ぶりを発揮していた。

その時、街灯もほとんどない暗い夜道を、向こうから見覚えのある顔が歩いてきた。
大人がふたり、子供がふたり。高倉健さんと田中邦衛さん。北の国からの純くん(吉岡秀隆さん)と同じドラマでいい味出していた少年だった。その他には誰もおらず、どこからどう見てもプライベートな時間を散歩に興じていたのだ。あちらは人から見つめられることに慣れている人たちだったから、他に誰もいない夜道で四人と二人が遭遇しただけのことなのに、なんとなくお互いが会釈し合うような感じになった。

僕らの表情から察したらしく、「(健さんと)写真撮ってやろうか」と切り出したのは田中邦衛さんだった。僕は「いえ、そ、そんな田中さんも一緒に」てなことを言った気もするが、「いいんだよ」と言って田中邦衛さんは僕のカメラをひょいと奪い取り、ご覧の一枚になった。

健さん函館


その時、函館で撮影していたのは、敬愛する山口瞳さん原作、降旗康男監督の『居酒屋兆治』(1983年11月公開)だったことを後から知り、もちろん映画館に足を運んだ。

1983年秋は、卒業論文に倉本聰さんと山田太一さんをモチーフにしたテレビドラマ論『悪人のいない風景』を書いていた頃に重なる。大学で最初に知り合った男が北海道の中湧別町(当時の実家は遠軽)の出身で、一年生の夏休みから僕は彼の実家を拠点にさせてもらい、何度も何度も北海道を旅していた。

翌1984年春に入社した広告代理店での僕の初仕事は、これも同じ1983年に放送されていた倉本聰さん脚本のテレビドラマ『昨日、悲別で』の主役 天宮良さんの男性用化粧品CMへの起用だった。その縁で倉本聰さんにはサントリーオールドのCMに出演していただくことになり、以降、公私ともに北海道(特に富良野)との縁も深まったことが、1992年の僕の北海道移住に大きな影響を与えたと言わざるを得ない。


倉本聰脚本、高倉健主演の『駅STATION』は1981年公開。増毛や雄冬を訪ねたっけ。
『網走番外地』に始まり、『幸福の黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』『鉄道員』…僕らは北海道に立つ高倉健をたくさん目撃してきた。



さきほど高倉健さんの訃報に触れ、この写真のことを思い出して、クローゼットをひっくり返した。
この後、田中邦衛さんにも一緒の写真に収まってもらったのだけど、どうしても見つからない。
この時一緒にいた人たちは、高倉健さんの訃報をどう受け止めているのだろう。

健さんは風呂上がりの石鹸の香りがしたのを覚えている。


合掌。

リンダの夜。


その人は昨晩突然現れて、
一本の薔薇を差し出し、
「これ、ピエールに」と言った。

リンダ1

小樽 嵐山新地『星の庵 風の色』の前身、札幌 狸小路『もっきりバル 風の色』の立ち飲みカウンターの王様だったピエールこと故 矢萩 肇は、その後現れたカウンターの独り客に次々と店でしか通じないフランス名前を命名した。

カトリーヌしかり、セバスチャンしかり。

先月、風の色のその後を知らず、めったに訪れることない小樽にたまたま飲みに来ていたセバスチャンと、花園銀座商店街でばったりと偶然の再会を果たした。その時、セバの苗字を初めて知った。

「これ、ピエールに」

昨晩突然現れて、一輪の薔薇を差し出しながら開口一番そういった彼女は、「もっきりバル 風の色」に何度となく訪れ、ピエールと交流していたことが続く会話で判明した。

自分よりもずっと年下のピエールが自分の話を優しく聞いてくれたので、私はピエールが大好きだった、と。

もっきりバルの店主だったホシノが、小樽でふたたび風の色をやっていることを最近突き止めたので、ホシノなら何かしらその空間にピエールの痕跡を残しているに違いないと確信して、ピエールの話がしたくて札幌からやってきたのだという。

この女性は、狸小路のピエールのカウンターの仲間入りがしたくて、みずからリンダと名乗ったらしい。

リンダ2

リンダは、大江戸セット等いくつかの星の庵の品書きを日本酒中心に楽しんでくれた。少し前からやっていた星の庵の常連さんに、自分が注文した風呂でいただく湯豆腐をおすそ分けしたりと、すぐに新生風の色に馴染んでくれたようだった。

座った席の背後の額にピエールの遺影が収まっていることを知ると、奴に向かって杯を掲げる仕草をしていた。

そうしてしばらくして、独り言みたいに言った。
「やっぱり星野さん…思った通りだった」

今日のためにリンダは小樽にホテルをとってあるからと、終電に乗るために慌てて店を出た常連さんを尻目に、ゆったりと星の庵の時間を楽しんでいるようだった。

「今日の最後に、ピエールの思い出に」

そう言ってリンダは、奴の好きだった白ワインと奴の商っていたマルシェ・ド・ピエール(究極のドライフルーツ!)を注文した。

「今日は来て良かった。
 ピエールにも逢えたし。
 また来るね」

そう言って日付も変わる頃、美味しいウイスキーが飲みたいという彼女は、僕が教えたご近所の正統派バーに向かった。

ピエールによる命名ではなく、自ら付けたリンダという名前はフランス名ではないと思うけど、いまだにリンダが何さんなのか、風の色の店主は知らずにいる。

金曜の君。

星の庵のお客様の中でもとりわけ “粋” を解する方だとお慕い申し上げている。
金曜日に着付けの会があるとかで、お仲間と夕食をとったその後にふらりとお一人でおみえになる。

何度目かにいらしたとき、着こなしが素敵なのでそれを伝え、僕も和服が大好きですとお話ししたら、その次に訪ねてくださった時に、

「主人は着なくなったから」

と丹前や長襦袢、兵児帯までも含めた藍の着物と浴衣をくださった。モンゴルの話が弾んだことがあって、その次にはモンゴルの酒器を譲ってくだっさった。

寺山着物

ここで口にした炭仕込みの桐箱でいただく焼き海苔を気に入って、父の実家である、渋谷区広尾は星野園の海苔を十帖も買ってくださった。

最後にいらしたのは小樽からようやく雪がなくなった頃と記憶しているので、おそらく七、八ヶ月ぶりだろう。扉が開いて黒いショールと薄紫の着物が目に飛び込んできた。

八月の小樽堺町 浴衣風鈴まつりのコンテストで優勝したことを報告したりしているうちに話が弾んだ。

母親の料理や漬け物の味を次の世代に伝えることについて。冬至にかぼちゃを食べ、柚子湯に入る等の日本の習慣、歳時記について。

今のお嫁さんや若い人はそういうことに興味がないよね。これじゃおふくろの味や日本の習慣は途絶えちゃう、と。そんな日本の歳時記の話から、酒器の話題へ。

瀬戸ぐい呑み

写真の漆器をお見せして、その作家であり、二十六年にわたる不思議なご縁の輪島の瀬戸國勝さんが、毎年一月の札幌の百貨店、丸井今井恒例「加賀老舗展」と同時開催で長年個展を開いていることをお伝えした。

金曜の君は「加賀老舗展」には欠かさず足を運んでいらっしゃるということで、今度の正月には金曜の君と瀬戸さんが札幌で顔をあわせることになるかもしれない。

星の庵訪問にたいそう時間が空いたのは、身体の塩梅があちこちよろしくなかったからだそうで、とりわけ心臓に問題があるのだという。

大事にしてくださいね!
僕は思わず声が大きくなった。
この人が大好きなのだ。

「今日はいいものを見せてもらったわ。今度来るときは私の漬けた漬け物を分けてあげる。それとさっき話した、それは素晴らしい櫻の絵が表裏に描いてある、京都のぐい飲みも見せてあげるね」

ありがとうございます。
でもそれより僕はこの人の心臓が気にかかった。

「母も姉も心臓が悪くて、二人とも同じ六十七歳で心臓で亡くなったの。だからずっと気に病んできた。六十七歳が怖かった。でも、私は二人の年を超えたからもう大丈夫」

嵐山新地の裏小路に出ながら振り返りつつそう言って、金曜の君は今宵の満月みたいににっこりと微笑んだ。

九月の花。

一月は逝(い)く
二月は逃(に)げる
三月は去(さ)る

毎年明けた当初は時間の早さに驚き、
これらの言葉をとても意識していた。

四月以降の比喩を知らないだけかもしれないけど、
九月も終わろうとしてる今日、見送る言葉を知らない。


Out of sight, out of mind.
去る者は日々に疎し


死んだ人がやがて忘れ去られるように、
誰かの中の僕が日増しに存在を失くしていく。
親しかった人が僕の中で小さくなっていく。




九月の花

ちなみにこの花は、
特殊な加工で枯れることはない。
それはいいことですか?


久しぶりに歌の詞でも書くかな。

追悼のかなしみとおかしみについて。

追悼行灯

先日、僕を開店に遅刻させた映画『エリザベスタウン』(2005年/米)を検索したら、あまりにも酷評が多かった。その意味も分かる気がするけれど、僕はあえて名作とは言わないが、快作と信じている。

過酷過ぎる現実を真っ向から見すえて描くのに、ファンタジーやメルヘンの衣を着せた手法を選ぶのを僕は好きだけれど、日本人には受け入れられにくいのも知っている。〝現実としてあり得ない設定〟や〝常識を超えた展開〟を、〝軽薄でリアリティに乏しいレベルの低いもの〟として厳しく断罪するするタイプの人たちだ。

この作品に関して、そのように切り捨てる人ばかりなのは正直残念だ。

病気や入院を経験したことがない人間ほど、一見深刻ではない病に冒された人の見えない苦しみを見落として、優しく接することが出来ないのにどこか似ている。

犬を飼ったことがない人が、愛犬を見送った人が親兄弟を失ったのと同じ悲しみに暮れているのを、いつまでも何を大袈裟なと吐き捨てるのにも似ている。そんな気がする。

悲しみが深過ぎるからこそ、笑いに転嫁(昇華?)するしかないぎりぎりの表現を僕はこの作品に感じた。物語の、起きる事件の設定を、漫画的にすることでしか救えない、掬い上げられない逆説的な真実を感じた。

救いようのない仕事上の大失態を演じた主人公が、自ら命を絶とうとしているところへ、さらに追い討ちをかけるように実父の訃報が舞い込んで来る。家族から遠く離れた自らの故郷で逝った父親の葬儀に参列するために、父の遺志であった、火葬して海に散骨して欲しいという願いを叶えるために、どん底の長男は父親の故郷を目指す。

そこで出逢った父親を愛した故郷の人たちと、旅の途中にめぐり逢ったひとりの女性との交流、そして、これまで垣間みたこともなかった母親の父に対する想い、それら様々なエピソードが重なり合い連なって、父の遺骨を抱いて自分の町へ帰る旅であるラストへと向かって行く。

実体験を自ら脚本化した監督(「ヴァニラ・スカイ」のキャメロン・クロウ)のこの作品を、多くの人が感情移入過多のウェット過ぎる作品であり演出であると酷評していた。
でも、僕はしきりに想い出していた。

追悼母の書

認知症を患い、いきなり横須賀の精神科からひとり息子の住む北海道小樽の施設に移送され、世話をしてくれる施設の人以外、誰ひとりとして自分を知る人の居ない土地で急逝、荼毘に付された母。その母を「手荷物」として飛行機に乗り、四十九日に父の眠る神奈川県の霊園に納骨するまでの一週間、友人にも親戚にもホテルの部屋にも母を放置出来ずに、毎日抱きかかえたまま、人に会い、仕事をこなし、酒を飲み、歌を歌った日々を。

そんな体験だって人様からすれば滑稽に映っただろう。なにを愚かなことを、親の死を遊ぶのか。もっと正しく適切な方法があったはず。故人を冒涜していないか。そんな風に感じる人が多かったと思う。でも僕は大真面目だった。考え抜いたけれど、そうするしか方法を思いつかなかった。


納骨の前日、三浦海岸の霊園に近い三崎の港に宿をとった。
夕刻、その宿に首都圏に住む、母と交流のあった僕の友人たちが七、八人集まってくれた。僕はようやく荷物を解いて、古びた旅館の宴会場の床の間に母を坐らせた。床の間の祭壇に収まった母に、連中は献杯し、宴に興じてくれた。

納骨当日は親族の時間であろうからと、前日の旅館の夜を、大真面目に非公式の弔いの場へと昇華させてくれた奴らに見合う感謝の言葉を僕は持ち得ない。僕がこの映画にとてつもなく惹かれるのは、あの日三崎の旅館で経験した、哀しみと至福が同時に在る不思議な瞬間を想い出させてくれたからだと思う。

【参考Blog】
http://d.hatena.ne.jp/mike-cat/20051201

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