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2020-04

父の終戦記念日。

二十八年前の終戦記念日の朝、僕は東京西早稲田のアパートから成田空港を目指して靴を履こうとしていた。そこに横濱の実家の母から電話が鳴って、すぐ帰って来いという。

「え、今日から夏休みで今出かけるとこなんだけど…」
「とうさん、危篤よ」

さかのぼること三年半前、父は直腸癌の手術をした。
当初は早期発見とのことだったけれど、術後に先生から余命三ヶ月の宣告を受けた。

それから父の命は三年以上も永らえ、家族の緊張も和らいできた。
父はこのまま治ってしまうのではないだろうかとすら思い始めていた。

なかなか忙しい広告の仕事をしていたし、父のこともあったし、その三年間は長い休みを取ったことはなかったように思う。久しぶりに夏季休暇を申請して、その日からタイへ出かける予定になっていた。ギリギリまで仕事をして前の晩は準備で飛び回っていた。アパートに戻ったのは真夜中だった。今のように携帯電話もなかった頃なので、あと一分母の電話が遅ければ、連絡のつかいないまま僕はタイへ旅立っていただろう。仮にタイのホテルで捕まえられたとしても、お盆の繁忙期に帰国もできず、僕は人非人になっていたに違いない。


黙祷の時間ころに金沢区の病院に着くと、父方の親戚はおおかた集まっていた。母方の叔母も二人駆けつけてくれていた。暑い暑い日で、蝉時雨がうるさいほどだった。父の意識はなく、荒い息をしていた。今年亡くなった父の一番下の弟が、うわ言を発している父の口元に耳を近づけていた。ほとんど聞き取れない切れ切れのあえぎの中から、四男坊はかろうじて聞き取った、
「兄貴がね、もうレコードが止まった。って」という意味不明な言葉を皆に告げた。


危険な状態を脱した訳ではなかったものの、しばらく小康状態が続きそうだという医者の言葉に促されて、親族たちは夕闇にまぎれていったん三々五々引き上げていった。


その頃は仕事の忙しさを口実に、父のことは母に任せっきりにしていた。
海外へ飛び出そうとしていたことも含め、その罪滅ぼしの気持ちもあって、今晩は自分がここに泊まるからかあさんはゆっくり眠ってくれと母を実家に帰し、僕は父のベッドの隣にもうひとつベッドを置いてもらい隣に寝た。


長年会話のない、絶望的にはぐれた一人っ子と父親の関係だった。
こんな時、意識のない父親にどのように話しかけたものかうまく言葉も見つからなかった。
自分にはただ隣にいることしかできなかった。


夜中の三時頃、父の容態が急変した。

急いでナースコールをし、看護師は慌てて宿直の先生を呼んだ。
僕は急いでナースセンターの公衆電話から母に電話をした。

僕らには深夜の交通手段がない。
僕の車はあの時実家に置いてあったのだっけ。
母は車の運転ができない。
無線タクシーも捕まらない。

僕の実家は病院から車でものの十分ほどの距離なのに、さっきまで親族一同が集っていた病院に危篤状態の夫のために駆けつける術が母にはなかった。

「もうどうしようもないね。あなたに任せたから」

電話口の母が静かな口調で言った。
僕は意を決して父の病室に戻った。

たぶんその際の処置で結果が変わることはなかっただろう。でも、ドラマなんかでよく見る心臓にショックを与える大きな救命の機械が運ばれてきて、慣れない若い医師がその扱いに窮して、その修羅場で、父が最後の戦いをしているその現場で、家電で言うところの取扱説明書みたいなものと格闘している様は滑稽で悲しく、怒りがこみ上げてきた。


僕は自分でも驚くような大声をあげ、父親の足にすがりつき、
自分の口が勝手に 助けてください と発しているのが遠くで聞こえていた。




父が静かになってしばらくして、落ち着きを取り戻した若い医師が言った。

「朝までに病室を空けてください」

まったく想像もしていなかった言葉をぼーっと聞いていた。
もう怒りも絶望もなかった。
ただ白けたような虚無感だけが溢れてきた。


夜明け過ぎに、ドラマみたいに真っ白い朝もやに包まれた病院の裏口から、紹介された番号からやってきた見知らぬ葬儀屋さんと二人で父親を彼の車に乗せたところで、四年近く続いたその病院との付き合いが終わった。



終戦記念日は、だから、二十八年前から父の戦いが終わった日にもなった。
平成になってまもない終戦記念日だった。


今日は平成最後の終戦記念日だという。

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前略、母上殿6

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僕の今回の帰省は11月7日から、今日で19日目になってしまった。

9月13日から精神科に入院した母を、認知症の患者の施設であるグループホームに連れて行くための旅だ。旅好きの僕の、人生で最もつらい旅になった。

病院内での転倒、骨折などのアクシデントもあり、日程は二転三転。先週末の段階で、ようやくXデイは滞在20日目である明日、26日月曜日に決定した。

思いがけない長い滞在の間に、今年はお酉様が二回やって来た。
11日の日曜日と23日の金曜日。母のケアや引っ越しの準備の合間を縫って、一の酉は浅草に、二の酉は横浜の金比羅さまに足を運んだ。三社祭りや朝顔市、ほおづき市、羽子板市など、道民になってから足が遠のいていた大好きな祭りや市だけれど、これまで酉の市で、僕はよい正月を迎えるための縁起物である熊手を買ったことがなかった。幸福をかき集める熊手…。

商談成立のたびに、そこここで湧き上がる一本締めの嬌声の渦と人波に包まれて、僕は今年初めて横浜でお酉様の熊手を手に入れた。

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両親は東京生まれ。僕は父の転勤中に神戸に生まれ、横浜で育った。
小学校も中学校も高校も横浜市立の学校に通った。
18年前に父が亡くなり、僕は15年前に北海道小樽に移り住んだ。3年前、横浜の一軒家をたたんだ母は、横須賀のマンションに住み替えた。今回その横須賀のマンションも手放すことに決まってその準備を始め、3年間思い続けていた気持ちが一気に吹き上がってきた。

これでもう、ほんとうに、横浜と、縁が切れてしまう。

滞在二回目の酉の市に気づく前に、僕は横浜の野毛界隈を歩いていた。

音楽通りから、母校にして、日本で一番古いガス灯のある本町小学校を抜けて坂を昇ると紅葉坂。その奥に3つから住んでいた花咲団地がある。現在そこに立つと、鼻先にランドマークタワーがそびえている。紅葉坂からかもん山公園。県立音楽堂。青少年センター。伊勢山皇大神宮。このあたりが野毛山の幼稚園に通った道。

僕の生涯ナンバーワンの餃子とレバニラ炒めがあるのは野毛の「萬里」。
現在この店で中華鍋をふっているのは、吉田中学のときの僕の次の野球部のキャプテン川淵だ。11月8日の晩に、僕の最も敬愛するアーティスト長谷川きよしの、40周年コンサートがあったのは、同じく野毛の老舗ライブハウス「ドルフィー」。

大好きなホッピーのバー「ホッピー仙人」のある都橋商店街からソープランド街を抜けると伊勢佐木町。伊勢佐木町の商店街には、僕が最初に訪れた百貨店である野澤屋(現マツザカヤ)と最初に訪れた書店である有隣堂がある。さかのぼること35年前に、野球部の練習の帰りにホットアップルパイをかじりながら歩いていて警察に補導されたマクドナルドがあるのも伊勢佐木町だ。その商店街を抜けてすぐの長者町に、登校時なぜかタイムカードを押すシステムだった吉田中学がある。これが僕の通学路だ。

そうこうそぞろ歩きしているうち、熊手を持って歩いている人たちがいるのに気づいた。僕はその人たちの流れを逆流してみた。

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大の男が4人掛かりでかついで帰るような熊手もあって目を見はった。でも僕の場合、母と一緒に小樽まで連れて帰らなくてはならないので、手に入れたのはほんとうにささやかなものだった。

酉の市の熊手にそれをお願いしていいのか定かではないが、明日の母と僕の旅のお守りになってくれるといいのだけれど…


真夜中のタクシー。

三月三十一日、すすきの午前三時。
年度末のあれこれ、人の去就などあって、風の色のボスと二人で、風の色の来し方行く末を肴に、久しぶりにゆっくりと語り合った。

ふと思い出して、そんな時間にある人の携帯電話を鳴らした。

その人は、ボクが横浜から北海道に移り住んで来て、最初にじっくり仕事をしたグラフィックデザイナーである。正確には「だった」。彼と、以前にも書いたあるカメラマンとのチームで、なかなか良い仕事だってしたのだ。

ボクがこちらに来た14年前、当時たずさわった雑誌の入稿(印刷所に原稿を納める行程のこと)はまだ完全版下で、写植屋さんの出番もあった。徐々にデータ入稿に移行していく過程で、アナログに頼る職種は淘汰されていった。写植屋という職人は、その筆頭。コンピュータの普及で業界には「自称デザイナー」が蔓延、写植職人は出番を失い、美しき分業は壊れていった。

1ミリの間に正しく何本直線を引けるか、きちんと烏口を操れるか。
なんてことが、これも本来職人であるべきデザイナーの基本だった。でもそんなことは、今は機械(コンピュータ)が勝手にやってくれる。そいつを操れば、とりあえず「デザインらしき」は、ちょちょいのちょい。なのだ。でも、当たり前のことだけど、コンピュータはあくまで道具であって。デザインするのはデザイナーであり、その磨き上げられた美的センスにほかならない。ここに、大いなる誤解が生じた。

新天地北海道で、僭越ながら非力なデザイナーが先行して目に飛び込んできた中で、そのデザイナーは基本のしっかりした、信頼に足る人物であり、職人だった。アーティストというタイプではなかったけれど。しかし彼は、時代の波に上手に乗ることができなかった。コンピュータの導入もさることながら、現場仕事の大半を任せていた、たったひとりの従業員が多くの顧客を引き連れて去っていったタイミングも相まって、あれよあれよという間に廃業に追い込まれた。

その深夜、ボクは何年ぶりかに彼と再会した。
彼の運転で小樽まで帰った。普通友人のクルマなら助手席に乗るけれど、僕らは後部座席に座った。彼の現職がタクシードライバーだから。

札幌で酒を飲んで、終電に乗りそびれてタクシーで帰宅する時、たいていはボクはすぐに眠りこけてしまい、現地間際に運転手さんに起こされるのが常なのだが、昨日は違った。途中でボスが降車して、彼と二人きりになり、目的に到着してもなお、ボクらは話し続けた。客の少なかったこの晩、小樽までの「大口」を得たおかげで、彼はこのまま帰還できるという。
「助かったよ」
と七歳年上の元デザイナーが言った。

かつてバリバリと仕事を共にした仲間を呼び出して「乗る」ことに、ボクはかなり抵抗があった。でも深夜の店で風の色のボスは、
「それは違う。今彼はその仕事をプロとしてやっているんだから」
と言い、その言葉にボクも納得して携帯を鳴らしたのだった。

かつての仕事の話はあまりせずに、主にそれぞれの近況の話をした。いやな話は避けたつもりが、気がつくと、なかなか思うようにいかないそれぞれの人生の話になってしまう。唯一二人そろって盛り上がった話題は、さきのWBCの王さんはじめ日本選手の働きについてだった。

タクシーの後部座席で、夜がしらじらと明けてきた。
サッカーよりも野球が好きな昭和の人がここにもいた。

三月は、去る。


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