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2006-03

サクラサク?

サクラサク


たしかにボクは櫻に対してかなり執着がある。
サクラという文字だって、桜ではいけない。
かつて寅さんが言っていた、
「二階の女は気にかかる(貝×2+女+木)」
でないと、あの妖しさ哀しさは表せないと思ってる。

東京の花が満開だという便りを聞いて以来、小樽在住のボクの目は空ろになり、心ここにあらずの瞬間が少なからずある。この感情は何だろう。おそらく、口惜しさが一番近い。

かつてのハマッ子が、北海道には「時差」があって、東京の開花から一ヶ月以上経たないと櫻前線は到着しないことを身体で理解できるまで何年もかかった。だからこの話題は極力避けようと思っていた。でも巷の話題は必然的に開花、櫻、花見が増えて来て、心の休まる間がない。

いつか履歴書を書いていて、ボクの人生には「西」と「櫻」がつきまとっているのだと分かった。

兵庫県西宮市生まれ(両親は東京)。
数年後、横浜市西区花咲町の“花咲”団地に引越(最寄り駅はJRと東急東横線の櫻木町)。中学三年のとき、横浜市金沢区西柴に自宅新築。書道家の母の雅号は西風(せいふう)。かつての母の実家は東京の櫻新町。母の出た女学校の名称が櫻町。私の出身は横浜市立櫻ヶ丘高等学校。就職後、大学時代に果たせなかったアパート独り住まいは新宿区西早稲田。二つ目のアパートの最寄り駅は、西武新宿線の沼袋と西武池袋線の櫻台。14年前、突如移り住んだ北海道小樽の海と山を見おろす高台の町・望洋台の隣町が小樽市櫻。5年前に立ち上げた法人「風の色」は札幌市中央区北3条西20丁目…。まだあったっけ?

だから、ボクの履歴書に目をやると、パッと花開くように櫻が浮かび上がり、華やかな(西の)風が吹く。


ヨノナカニ タエテ 櫻ノ ナカリセバ
ハルノ ココロハ ノドケカラマシ

昔の人は凄い。




(面白がって読んでもらえたのなら…)
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終了目前「北海道を味わいつくす!」


久しぶりに、また自分の宣伝です。
昨年12月1日スタートの期間限定ホームページ、
“JAL SKI 2006” が間もなく三月いっぱいで終了します。
http://www.jal.co.jp/jalski/

その中で僕が企画・取材・執筆をさせてもらっていたコーナー、
「北海道を味わいつくす!」も当然終わっちゃうのです。
まだご覧になっていない方、
一度見たきりでその後覗いてみていなかった方、
最後のチャンスです! 一週間を切りましたよ。
いや、もう見たって、
内容は5回ほど更新されているのですからね!
バックナンバーが増殖しているのですよ。
 
単なる札幌小樽ガイドというよりも、
12の素晴らしい店や人や作品との出逢いを綴る気持ちで書きました。自信を持ってお奨めします。
出力して、永久保存しよう!(押し付けがましいですね)
ぜひ(終了までにもう一回くらい書きそうですが…)。

JALさん、頑張って!

樽。

樽1


小樽の町、午前一時の路上。
ふらふらと花園。
カスバのように軒をつらねる飲み屋。
金曜日とはいえ、でも、開いている店は少ない。

こういう時に、
待っていてくれたかのように、
静かに迎え入れてくれる店はありがたい。
呑んべえや旅する人はいつもわがままで、
自分の気の向いたときだけふらり訪れるくせに、
相手にはいつまでも変わらず、同じようにいてほしい、
と切に願っている。
というより、いつまでも変わらずにいてくれる、
と、勝手に思い込んでいる。

「樽」は客をそんな気にさせる、
小樽には数少ない飲み屋だ。
「飲み屋」としか言い表せない酒場、
あ、「酒場」もいいかもね。
最初に僕を「樽」に連れて来てくれたのは、
小樽の写真家、志佐公道さんだった。

今宵の連れは、
昨年から北海道に進出してきた、
日本No.1のロケ・コーディネイトカンパニー、
ヘブンリーバレーの代表・ミツハシさん。
札幌フィルムコミッションのイノウエックス氏。
お二人は、小樽フィルムコミッション主催のセミナーの講師として、
後志エリアのフィルムコミッション担当者たちの前でしゃべって来た。
余市で開催されたそのセミナーの帰りに小樽に立ち寄ったという訳。
さっきまで、
先日の風の色の郵政公社CMロケで自宅玄関前を撮影に提供してくれた、
小樽のロケーションコーディネイター、ツヨシ君と、
小樽フィルムコミッションのワタナベさんも一緒だった。
というよりも、
その4人が小樽で飲んでいるのを聞きつけて、
札幌で仕事を終えた小樽在住の僕が乱入した、
という方が正しい。

午前二時にもなると、かなり僕らもよどんでいたけれど、
お連れした二人とも「樽」の雰囲気を気に入ってくれたようだ。

なぜか「かまくら」と命名された、
ほっけの粕漬け?を焼いたのは絶品でしたぜ。
ホヤの塩辛、タコ刺しもいただいたのは午前二時半頃?

端正な顔立ちの店主はこの場所で「樽」を39年営業しているというが、
(どんな業態の店でも、主を迷わず「マスター」と呼ぶ北海道式を、
 どうも今でもあまり好きになれない)
意外なことに小樽の人でも、北海道の人でもない。

「40年も前に小樽にやって来て、ずっと居続けているあたりに、
 なんか物語があるんでしょうね」と僕が言うと、
「ふふ、逃げて来たんですよ」と真偽の分からない言葉を返した。
僕だってもちろん詮索するつもりなんかない単なる軽口だったから、午前三時からの話題はいつのまにか映画のことに移っていった。

ジャン・ギャバンは素晴らしい!
ということで、僕とご主人は盛り上がって、
「望郷(ペペル・モコ)」もいいが「ヘッドライト」は切なくて秀逸だったと僕が話すと、その年でアレを見ているのか! と妙に感心され、喜んでいただいて、フランソワーズ・アルヌールがどうとか、しばしフランス映画の題名や俳優名があれこれ飛び交った。
と思ったら、その少し後にはクロサワ映画を支えたのはミフネという不世出の役者である、とご主人が拳をふりかざさんばかりに力説した。僕の方は、重厚で深遠なテーマの作品群もよろしいが、「椿三十郎」のような、“ 痛快娯楽時代劇 ” はクロサワの真骨頂 … 云々。そこでまたご主人が、はっし!と手を叩き、そうなんだ!  でも、あの時の伊藤雄之介の「馬の方が僕よりも丸顔」という台詞は最高 … 

尽きることない話題に果てることのない夜は、
更けていくというよりも明けてゆく?

樽2

昭和の子、野球の子。


こう見えて僕は、野球少年だった。
団地の広場でも、小学校のグラウンドでも、いつでも野球、野球。
なかなかレベルの高い横浜地区にいて、
こう見えて僕は、野球部ではキャプテンなんか勤めていたのだ。
(中学のときだけど)
横浜スタジアムが昔、その前身の「平和球場」だった頃、
夏の大会でその土を踏んだこともある。
横浜スタジアムが立派な「横浜スタジアム」になった時には、
第一号のアルバイトとして青いスタジアムジャンパーで働いた。

亡くなった父も野球好きで、筋金入りの巨人ファンで、
わが家の新聞は、ずっと、読売と報知だった。
かなり幼い頃から(横浜スタジアムができる以前)、
川崎球場へ、よく「巨人?大洋戦」に連れて行かれた。
ときには、ドームになる前の後楽園にも行った。
ビールを飲みながら観戦している父の横で、
僕はかなり幼い頃から、
けっこう親爺臭いヤジを客席から飛ばしていた。
必然、かなり幼い頃から、なんの検証もなく、
巨人ファンということになっていた。
(まだ、横浜がホームの球団もなかった)

イチロー(一浪)して入った大学には、
当時四年生の岡田さん(→阪神→阪神監督)がいて、
最初に味わった早慶戦を制して、いきなり母校が優勝した。
まだ新宿コマ劇場前の噴水は埋め立てられておらず、
優勝パレードの果てにそこを中心に繰り広げられる狂乱にも参加した。
恐ろしい数の学友が暴徒化して、電信柱に登り、
噴水に頭から飛び込んで額から血を流し、
「これはある出身代議士さんからの差し入れです!」
と、突然登場した背広の紳士が運び来んだ一斗樽の日本酒に、
おびただしい数の学生が群がり、
手にした紙コップを二の腕まで突っ込んで酒を酌んでは、
雄叫びをあげながら一気のみをし、
残り少なくなった樽を頭からかぶるようにして酒を浴びる奴がおり、
ディスコに逃げ込めば、踊っている奴らはすべて、
紙の角帽をかぶった学友であり、なぜか皆、全身びしょ濡れだった。

いつも野球があった。

それがいつからだろう。
つきものが落ちたように、ぷっつりと野球に興味がなくなった。
ごひいき球団、なんてのもなくなってしまった。
ペナントレースや日本シリーズの話題に花が咲いている職場でも、
まったく首をつっこまない男になっていた。

平成に入って、あきらかに野球は肩身の狭い存在になっていた。
野球よりサッカーが好き、と表明した方が平成には似合った。
僕の野球離れは、そうしたことを意識した訳では全然なかったけれど…。


このところ、しきりに「昭和」が脚光を浴びている。
少し前から「昭和レトロ」が飲食店の趣向であったり、
イベントやテーマパークの演出などにも導入されたりして、
そのことには少なからず関心を抱いていた。
というより、明らかに僕の琴線に触れてくる。

ささやかに骨董を集めるのも、
銭湯や市場や路地裏が好きなのも、
単に古いモノが好き、ということを超えて、
その頃にしかなかった大切な何か、を感じるからだろう。
失われつつある、精神的な何かをいつくしむからだろう。

そこに「ALWAYS 三丁目の夕日」が登場した。
日本の映画賞を総なめにした。
その時代を生きて来た人たちにも、知らない人たちからも、
圧倒的な共感を得たことは、
あの頃の生活や、
モノはなかったけれど、
そこに存在していた家族のつながり、なさけ、
そんなものたちの価値や必要性を、
平成の時代が強い「危機感」と共に感じさせているからに違いない。

演出家・久世 光彦さん、
作曲家・宮川 泰さんの死去は、
あらためて昭和の終焉、もう帰れないあの時代を浮き彫りにした。

その一方で、

昭和と平成の二人の天才、孤高の人が、
日本中を「野球」で感動させた。
自分自身の技と精神性をとことんまで突き詰めてきた二人。
天才は天才の心を知る。
そんな凡人には計り知れない境地が、
想像を超えた感動を生み出した、ということもあると思う。
けれども、天才王が巨人の王でなくなり、監督としても追われ、
福岡のチームの指揮官になってからは、
ファンと居酒屋で酒を飲むような気安さを見せるようになった。
王さんの長女ですら、
「東京時代の父は、同席した知らない人と口をきくなんて、とても考えられませんでした。福岡に行って、父は明らかに変わりました」
それには「神様が降りて来た」印象すら感じた。
そのおだやかさは、孤独と重圧の先に見えてきた境地なのだろう。現役時代あまりにも偉大すぎる境地に到達してしまったがゆえに、選手との距離が、ギャップが大きすぎて、監督としての王貞治は、必ずしも評価されるものではなかった。それどころか、低迷を続けたダイエーと王に向かって生卵が投げつけられるという屈辱すら味わった。


日本も世界をものぼり詰めてしまったイチローの孤独にも、
「苦しみをも分かち合える仲間」「心通じ合い共に戦う同士」
が必要だったに違いない。
少々強引に引きつけていえば、
天才の乾き、にも昭和的な何かが求められていたのだ。

天才には無縁と思われながら、
実はひたすら流され続けてきたのは、
「汗」だと思う。

今回のWBCの顛末でイチローは、
これまでの「イチロー像」を完全に覆して、
喜怒哀楽を露(あらわ)にし、
率先して大声を出し、自らが先頭に走り続け、
チームのみならず、国民までを牽引してしまった。
天才の汗に、天才も人間の感情をもった人であったことに、
誰もが心を打たれた。
仲間を賛美するイチローの姿からは、
心を許した家族の中にいる安らぎと強さのようなものを感じた。


大人も子供も「汗」を疎ましく思い、
楽してどうにかしてやろう、
と多くの人間が考えているのが平成という気がしてならない。
ライブドアの問題はその一番分かりやすい象徴だ。
実業より虚業。
実態よりも外見を取り繕う経営者はもちろん、
老若男女、小学生までが株を云々している貧相さ。
敗戦から奇跡的な復興を遂げた日本の底力は、
モノづくりではなかったか。
そこで流された汗ではなかったか。

神様から人間に降りて来た昭和の天才・王貞治と、
仲間を家族を求めた平成の天才・鈴木一郎が、
満を持した素晴らしいタイミングで出逢った至福。
そこに今回の栄光があった。
「尊敬する王さんに、恥をかかせるわけにはいかない」
なんとかチルドレンという、ヘドが出そうな言葉が蔓延しているが、
今回の日本チームは、師であり父である王をたてて、なにが何でも男にしてやる、という息子たち=選手の思いがある時ひとつになった賜物だ。


街頭のテレビに人が群がり、
日本の戦士の一挙手一投足に息をのんで応援する光景は、
まさに昭和のそれだった。
やっぱり日本人、こんなに野球が好きだったんじゃない!
やっぱり俺、こんなに野球で興奮するんじゃない!

ここでまた日本的に「王ジャパングッズ」
(この「◯◯ジャパン」という言い方も大嫌い!)
が爆発的に売れているそうだ。
そのことは、まあ、ともかく、
「野球をやってみたい」「僕も世界一になりたい!」
という子供たちが増えていることには希望を感じる。
でも、
栄光や感動は、そして、天才の成り立ちにすら、
ひた向きな努力と流し続けられる汗なくしてはありえない。
そこの部分だけは見失わないで欲しいと心から願う。
そしてそれが、
今回の日本の野球が美しかったことを解く、
もうひとつのキーワード、
「品格」ということとも関連していると思うのだ。

王さん率いる日本代表チームの働きは、
だから底知れぬほど大きい。
本当にありがとう、そしてお疲れさまでした!

出番です2

雪の配達


北海道では、郵便屋さんが雪の中をバイクで配達しています。
道民になりたての頃、非常に驚き、かつ、
感動したのを覚えています。
急坂の多い小樽の町を、小さな路地を、大活躍しているのですから。
移住当初は、まだクルマもスパイクOKで、
バイクも確かスパイクタイヤだったと思います。
現在はバイクもスタッドレス。ときにチェーンをはかせます。

今回風の色がお手伝いした日本郵政公社のCM撮影では、
地元郵便局のご協力で撮影用に登場した軽自動車とバイクの運転を、
なぜか私めが担当しました。ちょっと誇らしい…。
内緒ですが。

出番です。


雪原ポスト


雪原にたたずむ、移動ポストの勇姿。
ロケ本番でのひとコマ。

移動ポスト2

ポスト2

しばらく事務所の前に置いていたら、通行人が首をかしげていた。
近所の人は、こんな場所にポストなんてあったっけ、と。
ただの通りすがりも、その不自然さにそっと触ってみたりしていた。

しっかりしまって帰りましょう。

ポスト3

移動ポスト1


ポスト1


風の色のササキヒサシは怪力である。
重たい丸ポストを引っこ抜いてしまった。

実はこのポスト、繊維強化プラスチック・FRP(グラスファイバーなどの骨材をプラスチックの中にいれて強度を向上させた材料)で作られている。札幌の骨董店の店頭に並んでいたのを借りてきた。
来週の日本郵政公社のCM撮影で、「雪原の中にポツンと立っている昔ながらの丸ポスト」というシーンに使用するのだ。

私のやげん堀ファミリー。


やげんファミリー


TPOに応じて、やげん堀六段活用。
唯一、京都祇園からやってきた、本家 原了郭の「黒七味」が。
関西の七味は青のりの香りが前にたって好きになれないのだが、
黒七味だけは別物。複雑にしてすっきりとした辛みは凄いのひと言。
すすきのの「鮨処 うえの」では、
この黒七味を白身の握りの隠し味として、素敵に使いこなしている。

やげん堀でなけりゃ!

やげん堀


常日頃からバッグに忍ばせている三種の神器がある。
折りたたみの箸。
やげん堀の七味唐辛子。
やげん堀のサンショウ。

こいつがあれば、
突然焼き鳥屋に入っても、
急にうなぎを食べることになっても、
通りすがりの櫻に思いあまって花見の野宴をはじめても、
香り高い、みやびな時間にありつくことができる。

ただ、自分の箸を取り出すのは酒席が多く、
当然入店時と退店時では脳味噌の状況が変化しており、
これまでに3本も飲み屋でなくしている。
(お気に入りの紫檀の継ぎ箸は12,000円もしたのだけれど、これをなくしたのが口惜しくて、またまったく同じものを購入。それも再びなくして、これはいかんと廉価な、でも桐の鞘が素敵な竹の箸に変えたのだが、昨年末、蕎麦屋酒中に紛失。以降、箸の持ち歩きは自粛している)

カプサイシンダイエットとかいって、
一時期、女子高生が「マイ七味」持参なんて騒いでいた頃、
「あれのマネですか?」なんて言う愚か者がいたけれど、
軽々15年以上も携行し続けている僕と一緒にしてもらっては困る。

道民は七味唐辛子を使わない。
ほとんどの道民は一味しか使わない。
水を向けても、
七味唐辛子の素晴らしさを知ろうともしない人は多い。
この辺の文化的ギャップがあるために、
僕は完全に道産子にはなりきらずに、
(なろうと思ってなれるものでもないし、誰も望んではいないだろうが)
双方の良さを身につけたバイリンガル的存在になりたいと思っている。

横浜から小樽に移り住んでから、
やげん堀の入手は、帰省時以外では、
百貨店の江戸物産の催しのときに限られる。
毎年2回は札幌の百貨店に現れる、やげん堀の山口さんとは、
だから、お互い顔を認知し合うようになって、
かれこれ14年ほどになる。
僕の七味唐辛子の「七つの味」の配分は、
僕の希望を伝えて、山口さんがブレンドしてくれる。
これが絶妙。星野オリジナルブレンドだと、人に言いふらす所以だ。
「辛味を強めにして、サンショウも多め、あと、うーん、
 麻の実も好きだから…」
ここで気をつけなくてはいけないのは、
勢い余ってあれもこれも多めに、とリクエストしてしまうと、
ぐるりと回って元の配分に戻ってしまうことですね。

いつもお客とお店側の立場でしばし立ち話、
という程度の交流だったのだけれど、
先の吉實さんとの蕎麦包丁のやりとりがあった、
同じ催事に山口さんもいらしており、
今回は少し山口さんのプロフィール情報が詳細になった。
かつて、さるレコード会社で洋楽の宣伝を担当、
誰でも知ってる大物アーティスト来日のケアなどの仕事をしていたが、
36歳から突然やげん堀の「布教」役に応募して、以来22年。
とてもそんな年齢には見受けられなかったのだけれど。

次回の催しでは、少しゆっくり話しましょう、ということになった。
22年来の札幌小樽通いで、
すっかりこの町の事情に詳しくなったという山口さん。

「ホシノさん、札幌小樽はまかしといて。
 こんどあなたの知らない、いい店に連れて行ってあげますよ」


※ やげん堀のパンフレットから
「薬研掘は、今から三百余年前「寛永二年」、
初代からし屋徳右衛門が江戸両国薬研掘において漢方薬からヒントを得て七味唐辛子を売り出しました。その独特の香味と程よい辛味が江戸っ子の嗜好に叶い「薬研掘の七味唐辛子」として、江戸名物の一つとなり、土地の名がそのまま唐辛子の代名詞となり現在にいたっています。

当店の七味は、香りよい黒胡麻、陳皮(ちんぴ/みかんの皮)、厳選された最高級の唐辛子二種(生と焼)、粉山椒、けしの実、麻の実と七種の材料がバランスよく調合されています。

唐辛子にはコレステロールを分解し、血行を良くし食欲増進、発汗作用があり、又良質のリノール酸を豊富に含む黒胡麻等、江戸の漢方から生まれた優れた食品です。浅草本店では、お客様のお好みに合わせて調合もいたしております。

  やげん堀 七味唐辛子本舗  合資会社 中島小店

わたしの蕎麦包丁3

包丁3


(「わたしの蕎麦包丁2」からのつづき)

当時僕が雑誌に連載していた、食べ物屋の道具をめぐるエッセイみたいなページの「蕎麦包丁の回」を、吉澤さんに見せた。
この連載では、見開き2ページにどーんと道具の切り抜き写真を配して、そのまわりに文章が流し込まれている。現在進行中のホームページ企画
“JAL SKI 2006”『北海道を味わいつくす!』
http://www.jal.co.jp/jalski/ でもご一緒した、札幌の本田写真事務所の本田 匡さんと組んだ初期の仕事だ。
そのページで取り上げていた包丁は、蕎麦職人界のカリスマ的巨匠が自ら考案した逸品で、彼のお弟子さんたちは皆使っている。購入すると1丁20万円以上はする代物だ。吉澤さんはそのページを、あたかも本物の包丁を目利きするような塩梅で、上下左右さまざまな角度から検証していた。
そしてひと言、
「これよりもいいのを作ろうな」
と吉澤さん。

僕は、かのコピーライター氏が編集長に言っていた「いずれ人間国宝」という言葉を思い出していた。モノの本によれば、
【 いわゆる「人間国宝」とは、重要無形 文化財指定の技術等の保持者として認定された者を指す 】
ということで、『吉實』は、正確には「東京都江東区重要無形文化財指定店」であり、長男操さんの父上は、その「保持者」なのだ。
そんな人が言う、「これよりいい」とはどういうことを指すのか。
そういう人に、オーダーメードすると、どういうことになるのか。
これはもう、わくわくを超えて足が震えた。
だいたい、職人さんに直接モノづくりをお願いするなんて、もちろん初めてのことだ。それもこんな凄い人に。「おいくらですか?」なんて聞いていいものか。ど素人の分際でこんなビッグマンにずうずうしくお願いしておきながら、「お手柔らかにお願いします」とか言うのか?
吉澤さんとの間には、結局「いくらでお願いします」という会話はなく、「雑誌の写真の包丁は20万円以上もするらしく、そこまではとても」という、僕の「気持ち」だけは表明しておいた。

約束通り「文通」した、緊張の一年が過ぎた。

同じ百貨店の同じ催事の場で「贈呈式」が行われた。
何重にも新聞紙を巻き付け、ていねいに包装された「それ」を順繰りとひも解いてゆくと、中から雅な一丁の包丁が現れた。その美しさに僕は息をのんだ。もう、細かいこと(?)はどうでもよくなった。
そこへあっさりと、
「◯万円でいいかい?」
と吉澤さん。

僕は、拍子抜けとかいうよりも、猛烈に感動した。ものの値段はあってないようなものかもしれないが、どう考えても、そんな金額ですむ訳がない。あまりにも高い極みの世界にいる方が、恐れを知らないど素人に対して、もはや苦笑失笑で、まあ頑張れよ、とエールをくださったのだと都合良く解釈した。ありがたかった。
そういえば、当初価格を抑えるために、握り手の部分はそのままにしておくから、後から自分で布を巻くなりして使うといい、と吉澤さんは言っていた。それが仕上がりを見ると、鋼の握り部分をきちんと木で覆った柄が作られ、さらにそこにひも状になった籐がていねいに巻き付けられていた。半端じゃない素晴らしい仕上げだ。さすがにそれは言わなければと、「その分だけは追加ですから払います」伝えると、
「そうか、そう言ってたっけ。うーん…」
と長い沈黙。
これで一気に値段は跳ね上がってしまうかもしれない!
吉澤さんは目が疲れた時にするように、左手の人差し指と親指で、目と目の間の鼻の付け根あたりをもみながら、きっと頭の中はぐるぐるしているのだろう。再び僕も緊張に包まれた。
そして、ようやく言った。
「じゃあね、あと5千円ちょうだい」


最後に吉澤さんは、真新しい包丁に僕の名を入れてくれた。
まず畳の上にあぐらをかくような形で、その左足の親指等で包丁の柄の部分を固定する。左手には小さな釘状のもの。右手には小さな金槌。左手のとんがった物の先を包丁のある面にあてながら、反対側の頭の部分を右手の鎚で、こんこんと叩く。これで「ほし野」を刻印してゆくのだ。究極の職人芸に圧倒されて、思わず、
「凄いっすね。どうしてそんなこと出来るんすか !?」
と僕は幼稚な感嘆の言葉を吐いた。
それに対する吉澤さんの返事は、これまで様々な取材をしたなかでも、三本の指に入る印象的なフレーズだった。普通なら、たいしたことないよ、とか謙遜するようなことを言いそうな場面だ。

「そうだよね。
 職人って不思議だよね。
 左手でこう、ガイドしながら名前を打ち込むんだけど、
 俺だって日常生活では当然左手で字なんて書けないよね。
 でもこの字の形は左手が作っている訳だ。
 何度も何度もやってるうちに、
 手が覚えて自然とできるようになる。
 それが職人なんだよね」

(つづく)

わたしの蕎麦包丁2

hotyo7.jpg

  
(「わたしの蕎麦包丁」からのつづき)

96年の春だったと思う。
札幌の百貨店の江戸物産展で、
僕は短く刈りこんだ髪で包丁を研いでいる強面の兄さんに話しかけた。
ショーケースには、出刃やら柳刃やら、たくさんの包丁が並んでいる。

「あのお、こちらでは蕎麦の包丁とかは扱ってないんですか」
「もちろん扱ってるよ。でも、催事には持って来ないなあ。というより、蕎麦包丁なんかの場合、基本的には職人さんと相談しながら、あつらえる訳なんだけど…」
「ボク、蕎麦包丁が欲しいんです」
「そう。おたくは蕎麦屋さんなの?」
「あ、いえ、ただ趣味でやってるんですけど」
「そうか。うーん、作ってあげたいんだけど、
 こう見えて俺も結構忙しいんだよね」

とまあ、そんな会話があったんだけど、この人のしゃべり方や面構えが、あまりにも格好よくて、その後会期中に何回か顔を見に行った。

東京亀戸の料理庖丁「吉實(よしさね/登録商標)」の吉澤 操さんは、先代からもう二十年以上にわたって札幌の催事にやって来ているという。こちらで購入した包丁に限って、幾ばくかを支払うと名人芸で研いでくれる。中には随分と年季が入った、刃もすり減って、かなり小さくなった包丁を持ってくる人がいて、それを見て、

「おう、これは親父の包丁だね。うん、しっかり使い込んでくれてる。ね(と、たかって来たその他の方々に向かい)、これは二十年以上前に、僕の親父が売った包丁なんですよ。ホントの鋼(はがね)を使っていると、ここまで使い続けることができるんです。よく女の人はステンレスと比べて、ステンレスは錆びないし安いのに、おじさんのは高いから、なんて平気で言うんだよね。靴とかには何万円もかけるくせにさ。でもその靴は20年も履けないでしょ。で、ステンレスの包丁を持ってくる人もいる。切れなくなったから研いでって。言っとくけど、ウチはステンレスは売ってないし、ステンレスってのは研げないんだからね」

こうした口上に、通りすがりの人も足を止める。

たまたま吉澤さんと食いもの屋の話になって、
その頃取材した、札幌のおでん屋「一平」のことを言ったら、
(この日記の昨年12月 8日「屋台のジョン・レノン」、
  今年の1月17日「おでんの一平と瀬戸 國勝」参照)

「なんだ、一平の谷木さん知ってるんだ」と吉澤さん。
「そうか…」と何やら思案げな面持ち。
どうやら吉澤さんと谷木さんは相当の仲良しらしい。
札幌の神輿担ぎである一平の谷木さんが、毎年浅草の三社祭の神輿を担いでいるというのは、いつかご本人から聞いたことがあった。でも、三社の神輿は一般の人は担ぐことができない。谷木さんは、吉澤さんの計らいで三社が担げるのだとこの時知った。その神輿を担ぐために谷木さんは、年が明けると身体を鍛え始める。そんな道産子には珍しい男っぽい谷木さんに僕は惚れていたのだが…。
同類の匂いがして惹かれた吉澤さんが、まさか、直接谷木さんとつながっていたとは!

しばしの沈黙の後、吉澤さんがぼそりと言った。
「包丁、作ってみようか」
「え?」
「ホシノさん、僕と文通しましょう。
ライターという仕事柄、ホシノさんはいろんな職人と会うでしょう。 
蕎麦職人と会ったら、まあ、中にはいやがる人もいるだろうけど、その人の包丁を触らせてもらうんです。重さ、バランス、刃渡り…。
頼んでOKなら、使いやすそうな包丁を、紙にこう、輪郭をなぞらせてもらうといい。それを僕と時間をかけて手紙でやりとりしながら、ホシノさんに合った包丁に仕上げて行きましょう。
東京と北海道で文通する訳ですよ」

僕は有頂天になった。
これから一年かけて吉澤さんと「文通」。
僕の、僕のためだけの、蕎麦包丁をあつらえる!

それからしばらくして、当時勤めていた札幌の出版社の編集長からこんなことを言われた。

「ホシノさん。私の知り合いの札幌のコピーライターなんだけど、この人のお友達に東京の包丁職人さんがいてね、その職人さんがこう言ってたんだって。
『この前の札幌の物産展でおかしな奴がいてね。
 素人なんだけど、蕎麦包丁を作りたいって言うんだ。 
 あんまり熱心なんで、つい引き受けちゃったよ』
 で、そのコピーライターの曰く、
『●●ちゃん(女性編集長の名前)、分かる?
 その人(吉澤さん)はさ、いずれ人間国宝になるような人な訳。客はみんな一流料理人ばかりで、ど素人の包丁なんて、普段はつくらないんだって!』
 あなた、いつか包丁がどうとかっていってたけど、これってあなたの事?」
 
私が死ぬほど赤面したのは言うまでもない。
(つづく)

わたしの蕎麦包丁4

おとうと清


そんなこんなの経緯があった(「わたしの蕎麦包丁1~3」参照)おかげで、一年越し、感動のあつらえ蕎麦包丁の引き渡しから間もなく、当時の私の雇い主であったヘンシューチョー、その友人のコピーライター氏、そして、そのまた友人だった包丁職人・吉澤 操さんと一杯やる機会に恵まれた。1997年の春だったと思う。

その晩に連れて行ってもらった、すすきのでも大函店に属するその和食屋では、何人もの板さんが吉澤さんの包丁を使っているという。
普通の感覚では、作った側からみて、使ってくれている側が所謂「お得意様」である訳なのだが、このときの印象は逆だった。
事前に「吉澤来訪」が伝えられていたらしいその店に僕らが入店する際、板さんたちがずらりと整列してお出迎え、吉澤さんに最敬礼したのだ。
「いつも使わせていただいております!」
吉澤さん自身は「ども」って感じで、もちろん威張った風でもなく、とりたててへりくだった様子でもなく、つまりは自然体のまま奥へ。
でも僕だけは、今回の「神をも怖れぬ」自分の所業に対し、赤面する思いを新たにしながら、行列の最後尾にいたのだった。

その夜の最後の店で、僕は巨匠と歌など一緒に唄っていたように思う。喜びと緊張と好奇心で、僕はけっこう酔っぱらってしまっていたのではなかったっけ。


毎年2月の雪まつりと6月の北海道神宮祭の前後、札幌の百貨店の江戸老舗物産展に登場する吉澤さん。僕もその後は、毎回吉澤さんに会いに行った。その際には、蕎麦包丁を里帰りさせて研いでもらった。
ただ、2年前に右手指を骨折して以来、ちょうど同じ頃ばたばたと忙しくしていたこともあって、七夕的再会がすれ違いになっていた。しかも、気がつけば、百貨店の催し自体のスケジュールが以前と変わっていた。6月の催事がなくなり、2月の催事が3月に変更になっていたことをようやく把握したのは、去る1月に輪島の漆器作家の瀬戸 國勝さんと、吉澤さんの仲良しである、おでんの一平の谷木さんのところにお邪魔した時だ。
実に男っぽい、料理人である谷木さん。人生一回りの年配の職人仲間たち。強面の吉澤さんのことを、これもゴツくて繊細な谷木さんが「ミサオちゃん」と名前で呼ぶのを聞いていると、なんだかその仲良し加減が素敵でうらやましい。


久々の吉澤さんとの再会を思い描いて、僕が今年の江戸老舗にぎわい展を訪れたのは、最終日の前日3月7日の夕方だった。
そこには吉澤 操さんの代わりに、僕も一度お逢いしたことのある弟の清さんがいた。

「兄貴はね、明日から大分なんで、さっき東京に帰っちゃったんだ。で、俺がピンチヒッターで来たって訳」

いやあ、吉澤 操、相変わらず忙しいんだなあ。
蕎麦包丁に加えて、柳刃(刺身包丁)と菜ッ切りが増えていた、吉實ファミリー3本セットを抱えて、銃刀法違反で捕まりはしないかとびくびく小樽から訪れたのだったのだが…。
蕎麦包丁は時間と道具の関係で研ぐのはむずかしい、ということで、残りの2本を翌日までの預かりで清さんにお願いした。
清さんは、兄・操さんとはまた違うタイプの職人さんで、ちょいと遊び人風の軽やかさが親しみやすい。

「今日はさ、もう仕事する気なくなっちゃったからさ、うん、明日昼までに間違いなく仕上げておくから」

清さんがここに来たののは、今日の昼からでしたよね(笑)。

わたしの蕎麦包丁1

 
hotyo3.jpg

三十歳の頃、
木曽路の開田高原というところでキャンプをしたことがある。
まだ、道民になる以前のことだ。
大学を五年で卒業する直前、
卒論提出の日にひょんなことから仲良くなり、
一緒に酒を飲んだ勢いでそのままヨーロッパの長旅を共にした学友が、
地元に帰って名古屋で就職していた。
春先まだ厳しく冷え来むキャンプの夜にひとり酒を飲みながら、
ここなら両者の中間?(横浜と名古屋)地点あたりだろうということで、
翌日電話して、名古屋の友人を呼び寄せた。

一人旅をしていると妙にテンションが高くなることがある。
そんなわがままを受け入れて、
即日素直にやって来てくれる友人は得がたいが、
あの日のテンションは蕎麦打ちが原因である。

開田高原あたりは蕎麦の里で、バイクを飛ばしていると、
その頃はまだ珍しかった蕎麦打ちの教室を見つけた。
飛び込みで初めて体験してみたのだが、
まず、「蕎麦を打つ」行為が激しく楽しく感じられた。
次に「自分で打った蕎麦」が感動的にうまかった。

その後、休日の手慰みに蕎麦を打ってみるのだが、
実に無惨だった。
開田高原では、マンツーマン付きっきり、
手取り足取りに教えられた訳で、
冷静に考えれば、とうてい「自分で打った」とは言いがたかった。
落ち込んだ。へこんだ。
でも、そのうち忘れてしまった。

それから数年。
僕は北海道民になっていた。
雑誌の取材で蕎麦職人に会う機会が幾度かあり、
それが日本一の蕎麦生産地に今住んでいるという実感に拍車をかけ、
再び僕の中に蕎麦打ちへの思いがむくむく湧き上がった。
通信教育で蕎麦打ちの指導を受けたりしながら、
間に合わせの道具で修業は再開されたのだけれど、
今ひとつ上達しないのは「道具」のせいだ、と都合良く結論した。

そうだ、蕎麦包丁を手に入れよう。
マイ包丁ならずんずん上達するに違いない。

それからは、モノの本を頻繁にひも解いてみた。
札幌の有名刃物店を覗いてもみた。
蕎麦打ちの何たるかもよく分かっちゃいないのに、
いまひとつピンとくる包丁に出逢えずにいた。
そんなとき、札幌の百貨店で江戸の物産展に足を運んだ。
老舗の食べ物に混ざって、職人さんの実演販売がいくつか。

そこで「吉實」の吉澤操さんに逢った。
(つづく)

アロエの花。

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「はれるや」で、
写真を撮ってもいいですか?
と僕が切り出した後で、
最初からいた常連らしきおばちゃんが、

「お兄さん、写真ならこれ撮るといいよ。
 この花。いいっしょ。
 アロエのさ、花が咲くのはとても珍しいんだから」

という訳で、花のことは何も分からないのだけれど、
そのように聞いた、アロエの花であります。
何となく、ありがたい気がする訳で…。

20060307225303.jpg

はれるや2

20060307224601.jpg

(「はれるや!」からの続き)

二人目のばあちゃんが扉をあけた時、
店のばあちゃんは、
「あーら、どこのお嬢さんかと思ったら!」
と喚声とも言うべき大声で迎え入れた。
杖をついた二人目のばあちゃんは80代半ばくらいだろうか。
注文する様子もなく、
おもむろに「今、市場で買った」という、
紅白の饅頭を手提げ袋から取り出し、
店のばあちゃんに手渡した。
ばあちゃんはそいつをいくつかに切り分けると、
僕の横に座った最後に入って来たばあちゃんにも手渡す。

「いやいや、あたしご飯食べて来たから!」

食堂の会話とは思えない。

「○◯さんと市場でばったり会っちゃったから、
 きっとあたしもここへ来るだろうって話してると思って、
 来ないと心配するだろうから、食事終わったばかりなのに来たよ」

彼女たちは毎日ここへ来ているのだろう。
必ずしも売り上げに協力している訳でもないらしい。
そんなことを僕が尋ねると、

「そう、いつでも話し相手がいることがね、
 私たち年寄りには一番大事なの。
 ここに来たら、必ず誰かお友達がいるからねえ、
 たまり場みたいなところなのよ、ここは」

と口々にそういった意味のことを話してくれた。

20060307224642.jpg

「はれるや」はばあちゃんの代になって27年経つという。
その前に3年やっていた人がいて、
創業者は10年間営業していた。
だから、ばあちゃんで三代目。
つまり、この名前で40年営業していることになる。

「この店を始めた人はクリスチャンだったんだって。
 だからヘブライ語で神様を讃える、
 ハレルヤという名前を付けたらしいの。
 私がこの店を引き継いだ時、あんたはクリスチャンじゃないんだから、
 名前を変えるべきだって人がいたけど、
 せっかく永く続いて来たんだから、ねえ」

絵に描いたような大衆食堂の、その店の看板ばあちゃんから、
ヘブライ語なんてコトバを聞こうとは思ってもみなかったけれど、
まさに、これぞ小さな旅の醍醐味。
再び訪れるべき場所がまた増えてしまった。
仕事の途中でなければ、コップ酒で乾杯!
と行きたかったよなあ…。

♪ ハーレッルッヤッ! 

20060307224706.jpg

(※「独り言」.mac版では、もっとたくさんの写真をご覧になれます。
 http://web.mac.com/keisy/iWeb/kazenoiro-tsuushin/
 また、ずっと休んでいた私個人のホームページ『鬱蒼庵日記」
 http://www.ne.jp/asahi/star/field/
 の「駅前食堂」コーナーに近々「はれるや」を登場させる予定です。
 乞う、ご期待!)

はれるや!

20060307100357.jpg

ずうっとしたいと思っていて、ながいことできずにいたこと。
クロスカントリースキーは先月ようやく手に入れて、
下駄履きのように自宅から装着して目前の風景の中で楽しんでいる。
もうひとつしそびれていたのは、
「はれるや」ののれんをくぐることだった。

大衆食堂に惹かれるのは、銭湯が好きなことや、
そば屋酒に首ったけなことと根底でつながっている。
それは、
限りなく日常に近いところを徘徊する、
あるいは日常と非日常の狭間をゆく、
小さな小さな旅だということだ。
遠くに行かなくても、自分の町でもいい。
大勢よりはひとりで、
表通りよりも裏路地を歩く。
20060307100426.jpg

「はれるや」には小樽に越して来て以来、
思い続けながら、なぜか入る機会を逸していた。
看板とのれんのインパクトが凄過ぎる。
「はれるや」という店名が食堂を超越している。
これはもう、味に期待する次元とは異なっている。

初めての「はれるや」には、厨房のおばあちゃんと、
二人の客がいた。
サラリーマン風が定食にありついて、
食べ終わり、お勘定して出てゆくまで、
店のばあちゃんと、お客のおばちゃんは、
一刻も休まず話し続けていた。
客のおばちゃんは常連らしく、
食べ終わったのか、これからなのか、
とにかく会話が途切れる間がない。

店の作りと品書き、値段体系は、
僕がうっすらと勝手に定義している、
愛すべき「大衆食堂」そのものだ。
じっくり悩んだ挙げ句に注文したメンチカレーが、
僕の目の前に出された頃までには、
常連らしきばあちゃんがさらに二人増えていた。
(つづく)

20060307100523.jpg

埋まった。

assetsuki1.jpg

日本郵政省の仕事のロケ地探しで、
地元小樽の坂と郵便ポスト、それから並木(林)をリサーチしていた。
昨日のことだ。
坂には事欠かない町だけれど、
絵コンテに見合う並木が探し出せずにいた。
むろん別班も稼働していて、ほかのエリアを走り回っていたのだが、
少々焦って迷い込んだ場所は、かなり雪深いところだった。
僕はハイエースの四駆ワゴンで動いていたのだが、
このクルマ、かなり自重がある。
ちょっと素敵な白樺の並木を山道に見つけて気を良くし、
写真に収めて引き返しかけたが、欲が出た。
もういっちょ針葉樹の並木がないものかとその先の坂を登り始めた時、
タイヤがズブズブいい出して、これはマズい、
とバックした途端、ハマった。

車両は助手席側に大きく傾き、タイヤが空転。
即クルマを降りて、
付近に落ちていた太い枝やらをタイヤにかませて再スタートを切ったが、
タイヤはますます空回りをして、さらに左後方をえぐって行った。
情けないことに僕は、スタックからの復旧道具「ヘルパー」や、
スコップのひとつも積んでいなかった。
タイヤのまわりの雪を地道にかき出してはみたが、
手袋すら携行していなかったので、
手がかじかんで(北海道では「しばれる」という)、
いくらも続けることができない。

かなり粘った挙げ句、
小樽在住のロケコーディネイター仲間に携帯でSOSを求めた。
ほどなく彼がスコップや牽引ワイヤーやロープなどを持って現場に。
地獄に仏だ。
ただし、彼もクルマで入れば一蓮托生は明らかなので、
山道に入る手前でクルマを降り、
かなりの距離を歩いてやって来てくれた。
けれども、
彼が持参したヘルパーをタイヤにかませて様々脱出を試みるも、
徒労だった。もはや、これまでか…。

最後の手段。夕方に顔を出す予定だった、
小樽市役所内にあるフィルムコミッションの担当者を通じて、
とうとう、スキー場などでよく見る圧雪車の出動となった。
すっかりイチ大事だ。
情けないやら、恥ずかしいやら。

僕と僕のハイエースを救出してくれた圧雪車は、
想像を遥かに超えて大きかった。
実に頼もしかった。
反省した。

考えてみると、移住後14年、
雪道にスタックしたのは、今回が初めてだった。

ここのところ、何かにつけて、
「あ、これ使える」「ブログネタだ!」
と思ってしまう自分がいる。
浅ましいもので、
今日くらい取り乱すほど途方に暮れたのは久しぶりだったけれど、
その一方で、
山の雪道に沈没しかけたわがハイエースや、
そこに登場してくれた仲間、
そして、
圧雪車による壮大な救出場面をドキュメントしたい気持ちが、
激しく頭をもたげた。
でも、さすがに余りにも不遜でカメラは取り出せなかったので、
さきほど改めて詰所に御礼に伺った折り、
雪原に大きな身体を休めていた昨日の圧雪車の勇姿を、
失礼してパチリ。

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