千里の道も…
串かつとか串揚げというのは北海道ではあまりみかけないのだけれど、初めてこちらにお邪魔した13、4年前、やはり北海道では珍しいあじフライに出逢って感動した。しかもうまい。安い。創業52年。札幌の「串かつ 千里」である。
10年以上も前に取材でお邪魔したことがあるのだけど、先週、懐かしくあじフライをいただきつつ雑誌オトンの取材をお願いしようと思ってのれんをくぐったら、その瞬間に三代目から「お久しぶりです!」の声がかかって、またしても感動した。昨日はその取材本番日だった。
千里では、ボクのお目当てのあじフライが、思わず泣けちゃうポテトサラダと、もっと泣けちゃう、燕尾服のように皮を切り出したリンゴの付け合わせも正しく560円。店名に冠した串かつが340円。魅惑のコップ酒250円! 哀愁の湯とうふ、な、なんと180円で、もう書きながらすでに胸が熱くなってくる!! 刺身盛り合わせなんかもあって、これが一番高い酒肴で770円。
店の一角にある、開店当初から使い続けている(つまり52年生)、他よりふた回りくらい小ぶりの木の椅子、テーブルのスペースが雅で、この場所を自分の指定席と決めている常連客も多いという。
味の名店百戦錬磨の相棒カメラマン本田氏も、初めての千里に感動しきり。そして一日千秋、千里の道を舞い戻って再会を果たした僕。かくして愛に満ちた大衆呑み屋の名店は、取材に邁進する僕らの幸せを一気に加速してしまうのでした。
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きんき雀躍!!
最初に北海道できんきを食べたのは「函館赤ちょうちん」という函館の炉端焼き屋さんで、もう四半世紀前くらいになる。
白身がほろりと大きくほぐれて、めっぽう脂がのっている。フジイセンセイと仲間うちから呼ばれている同級生の旅の相棒があまりにも感動した面持ちで、
「ホシィ(彼はボクをそう呼ぶ)、こ、これは、うますぎる。奇跡だ。な、何倍でも酒が飲めてしまうぞ!」と、狂ったように生ジョッキを次から次へと空にしていた。確かにあのときほどビールを胃に流し込んだことはもうないかもしれない。まだ、日本酒や焼酎を痛飲することはあまりしていなかった頃だ。
きんきは塩焼きも煮付けもいいが、鍋もいい。ただし、値が張る魚だから、安価な居酒屋でも「時価」と品書きに書いてあるのをたびたび見かける。今に続く長い付き合いになった、良心的な函館赤ちょうちんでも、それ以降はなかなか口にできないくらいなんだから(旅人の非日常と住み人の日常の違いもあるかな。当時ボクは東京の大学に通う、横浜人だった)。
昨日、雑誌オトンの取材で訪れたすすきのの居酒屋「花ぐるま」では、みそ仕立ての出汁にきんきが一匹そのままと白菜や椎茸やたくさんの野菜が添えられて2、3人前。これで2,600円は、え? という感じだ。へたしたらスーパーや市場の小売価格よりも安い。また昨日のは格別な大物だった。
取材終了後、Hカメラマンとご相伴。
あ、きちんとお支払いしましたので、悪しからず。
味? うふ…
そうですね、たとえば10日間くらい海外に出かけて、現地食に飽いた人が口にしたとしたら、少しうるうるしてしまうかも。想像するに、すしや刺身とは、また別の日本的感動があるように思うのでした。
オトン第三号とおでんの「小春」
大人の男のおやぢのための新札幌情報誌「O'tone(オトン)」創刊第三号が、4月5日発売に向けて始動している。
写真は先日行われた巻頭特集担当者会議。
編集者、構成担当、デザイナー、カメラマン、ライターたちが企画内容と作業分担について話し合っている様子。ちなみに写真手前に、ボクとカメラマンが隠れています。
この翌々日の2月22日、オトンの特集取材の依頼で、ボクは札幌のおでんの名店「小春」を創業して58年になる、86歳の現役女将を「口説いて」いた。
小春は大女将とその嫁、そして孫娘の女性三代が切り盛りしているのだが、何を決めるのでも、まずは大女将のご意見が絶対の様子だ。
「もうあたしは年だからいいわよ。取材なら○◯さん(お嫁さんの名前)にした方がいいって。そうして。ありがたいことだし、●●さん(紹介者)のお役には立ちたいけど、あたしはもう、こんなに髪も白いし…」
大女将は、写真嫌いで有名で、最近は特に取材も写真にもガードが固い。
勝手ながら、ボクたちの企画では大女将の写真の扱いとてもが重要なのだった。肝といってもいい。しかしながら案の定、ボクの申し入れはまったくもって難航していた。
行き詰まっていた交渉の袋小路にいたボクは、先ほどの大女将の言葉を受けて、その白髪がとても美しいです、とかえした。本当にそうなのだ。
「あんたはさっきからみてると、
いい面構えをしてるねえ。
やっぱり男はあんたみたいにガシっとしてないとね。
ほんとに必ず人にいい印象を与えると思うよ。
感じがいい。その目元も口元も、笑顔もいい。
うんうん、いい男だ」
と言われた。
うれしかった。
おでんやのカウンターの中から、半世紀以上にもわたって気の遠くなるような数の酒場の人間模様を見続けてきた大女将にそういわれるのは、なんだかとてもうれしかった。すすきののおねえさまからお愛想言われるのとは次元が違うのだ。
「後ろからとかそんな失礼なことは言わないけどね、なんか下向いてるとかさ、あんあり顔が目立たないように撮ってよね」
しばしの沈黙の後、ようやくお許しが出た。
余韻に浸る。
ライブハウス一匹長屋を後にする。
うちに帰ることのできる終バスまで40分位あった。
ちょっとだけ余韻を味わうため、三十分一本勝負!
と思って飛び込みで初めて入った店の対応がちょっとひどくて、だから多くは書きませんが、いらっしゃいも言われないし、注文もとらない、とっても出てこない。職人も「接客」してくれる職人のご子息と思われる数人の小学生も全員金髪で、ヘアカラーにあんまり偏見はないつもりだけど、ここは飲食店だし…ボクの注文にはどうやら手を付けてなかったので、お断りして何も口にせず退散した。
バスまで後20分。
こうなると、このまま帰っては長谷川きよしに申し訳が立たない。
絶対に裏切らない、というか、必ず嬉しくなって帰れる店、と思って「樽」に立ち寄った。
「樽」は今年創業から40年目に突入する中嶋さんの店だ。
この店は小樽の写真家、志佐公道さんに紹介してもらった。
いま、独りでふらりと立ち寄るのに、小樽でこの店をしのぐ酒場をボクは知らない。
中嶋さんは東京生まれの東京育ちで、でも、小樽商科大学にはいるために小樽に来て奥さんと知り合い、小樽と奥さんに惚れ込み、間もなく50年になるという。
「ね、いいよね星野さん、北海道」
北海道の、小樽の、移住者の、人生の大先輩がそう言って笑った。
「今晩 “長谷川きよし帰り” のお客さんは星野さんで三人目だよ。この女性もそう。囲碁の達人!」「おばさんですけど」「いやー、うちで一番若い女性のお客さんは50歳くらいだから」ってな感じで導入もスムーズ。ああ、新規開拓なんて欲を出さず、最初から樽にくれば良かった。
話は、長く続くもの、変わらないもののすばらしさ、メジャーとマイナーとは何かから、上司も先生も先輩も親も叱らない時代だとか、それがいまの日本を等々、だからこんな時代に落語という芸の持つ意味は! の話に至ったあたりで、小樽のそば屋酒の名店「薮半」のそばと落語の会「そばらく」で、もう何十年も高座をつとめている小樽のスーパーアマチュア噺家めいちょうさんが偶然にも樽のれんをくぐってさらに高揚感は増していく…
終バスなんてどこへやら…
長谷川きよし in 小樽
昨晩、実に久しぶりに、
歌を聴いて、不覚にも涙を流してしまった。
「あなたに一番影響を与えた音楽アーティストは?」
といった質問を受けた場合、ビートルズとかボブ・ディランなどと答えた方が、サマになっているような感じがある。でも、ボクにとってはだんぜん長谷川きよしであり、布施明であり、井上陽水なのである。
長谷川きよしの「別れのサンバ」は1969年。ボクは10歳だった。
それからずっと聴き続けている。
間違いなくコンサートにもっとも足を運んでいるアーティストだ。
ある時はソロコンサート、ある時は加藤登紀子さんとのデュエット、ある時はダウンタウンブギウギバンド、またある時は中年御三家(永六輔、小沢昭一、野坂昭如)とのジョイント、そしてサンデー・サンバ・セッション。
でも、北海道に移り住んでからは、小樽のライブハウス「一匹長屋」で2004年に一度お目見えしたのみ。最近は毎年来樽しているようだけど、去年、一昨年は時間が合わなかった。
彼は、拳を突き上げ、何かを声高にメッセージするタイプの歌い手ではない。
どちらかといえば、男と女の愛の歌を切々と深く、でも、どこかに軽やかさを失わない歌声で聴かせてくれる。
昨晩も同様でほとんどがボクの知っているレパートリーの中から歌っていた。
その彼が、特にコメントはせずに、静かな反戦の歌を三曲続けて歌った。
どれも知っている曲だったけれど、これまで、特にボクの青年期は平和すぎて、どこか対岸の火事、六日のアヤメという印象が強い楽曲だったのだ。
ところが時代はめぐり、その歌詞とメロディはもの凄い力でボクの奥の方に突き刺さってきた。特に、谷川俊太郎の詩、武満徹の曲による「死んだ男の残したものは」では体が震えた。もう一曲の「悲しい兵隊」もそうだけれど、どちらもまったく勇ましい反戦歌ではないのだけれど…。
ラストはあのエディット・ピアフの「愛の讃歌」。
誰もが知っているシャンソンの名曲を、あの甘い甘い日本語訳ではなく、原詩に限りなく近い、なんとも苦しく切ない、お前のためなら盗みも殺しでもしようという激しい言葉が添えられており、これも胸を打った。
そして、アンコール。
浪人中だから、19歳頃かなあ。
新宿のライブハウス「ロフト」でオールナイトで行われた「サンデー・サンバ・セッション」。会場中が狂ったように一緒に歌ったスローサンバの名曲「愛の終わりのサンバ~時の貝殻」!
ボクも実はギター少年で、大学の学園祭に出演したり、オーディションを受けて渋谷のライブハウスで歌っていた時期がちょこっとあるんだけど、この曲はずっと歌い続けていますよ、きよしさん。
その歌を、約30年ぶりに当のご本人と合唱してしまった!
小樽のおじさん、おばさんも、みんな知ってるんだものびっくりだよ。
ライブハウスは出演者との距離がいろいろな意味で近い。
唯一手元になかったCDを購入して、ジャケットにサインしてもらい、握手をし、初めて言葉を交わした。彼のホームページに書き込みをしたことがあるのだけど、軽い自己紹介をしただけで、彼がそれを読んでいてボクを認知していてくれたことが分かった。
あの超絶的なテクニックで歌いながらギターを弾く彼の手は、思いのほか小さかった。
小樽雪あかりの路~みのかさやの想ひ出3
10年ほど前、ボクは広地さんの「みのかさや」を取材させてもらった。
当時、雑誌に連載していた「とはずがたり」という、飲食にまつわる道具を見開きいっぱいの大きな写真で紹介しながら、その道具のこと、使う人のこと、その店のこと、そこから自由に飛躍したボクの想いなどを綴った文章で構成したベージだった。
その時のページには、みのかさやの七輪と、広地さんの表情、広地さんが「モロモロ新路」と名付けた件の小路の写真が掲載された。
その回の文章を書くため、そして、先月の日記にも書いた輪島の漆器作家・瀬戸國勝さんとの再会を果たすために、ボクは能登半島に旅をした。能登一帯、とくに珠洲市は、七輪の原材料である珪藻土の埋蔵量が日本最大と聞いたからだ。
出来上がった雑誌を手渡しすると、広地さんはたいそう喜んで言った。
「そんなに七輪がすきだったら、どれか一個あげるよ。今度車で取りにおいで」
ボクは舞い上がった。取材がきっかけでお付き合いが深まる。それはこの仕事をしていて、至福の喜びである。
札幌を中心に全道へ出かける仕事をしている関係上、地元とはいえ、お膝元の小樽に飲みに出る機会はそう多くない。その後、なかなか「みのかさや」ののれんをくぐれずにいた。
しばらくして、「とはずがたり」を連載していた出版社から電話をもらった。
それは、広地 聴寿さんの訃報だった。
広地さんの身内の方から、ボクに伝えて欲しい、という連絡があった、という。
電話をもらったのは広地さんの通夜の日だった。僕はとるものもとりあえず参列した。
すべての通夜の次第の最後に、喪主が故人の経歴を述べる北海道特有の場面。その晩、その役を務められたのは、広地さんのご長男だった。
誕生から学歴、職歴の話があり、奥様とのなれそめがあり、店の話と続いた。
それからご長男は父親が七輪が好きだった話を披露してから、何かの文章を読み始めた。
「…今では焼肉屋が林立する小樽も、当初界隈には今はなき朝鮮焼肉の店が二軒あったきりというから、現存する小樽の焼肉屋では最も古い店となる。
最近でこそ炭火や七輪の存在が見直されつつある。が、日本の近代化と共にかえって割高で不便な道具として片隅に追いやられてしまったかつての庶民のカマド七輪が、この店では40年近くにわたって絶品の肉の享受に欠かせぬひと役を買ってきたのである」
しばらくして僕は仰天して目を見開いた。
それは僕が書いた「とはずがたり」みのかさやの巻。
「栓の木のカウンターの各席に組み込まれた七輪のひとつを拝見すると、マルコシという刻印。丸越産業は石川県和倉、この七輪も能登の産だった。
主人の広地 聴寿さんは一貫してこのメーカーの七輪を使用しているが、質の良い七輪は珪藻土に厚みがあり、炭が長持ちするとのこと。毎日使用していると口が広がって火力が落ち、従って炭が余計に必要で、商売用には寿命となる。こちらでは一年が目安とか。
採掘した珪藻土のブロックから直接ノミで削り出され、あるいは一旦砕いてから圧縮して出来上がる朝顔型七輪。干物を焼く囲炉裏や、橙の焔の色がだぶり、七輪の故郷の話に花が咲いた。」
ご長男の話で通夜が終了した。
僕はご長男に挨拶した。
「あなただったのですね。父はあなたのこの文章を気に入っていて、よくこの記事とあなたの話をしていました。父が亡くなったので、あなたが来てくれたら父も喜ぶと思ったのですが、何せ連絡先がわからなかったので…」
動悸が激しくなった。
手足が震えて、目の奥の方が熱く渋い感じになった。
先日、独りで「モロモロ新路」を歩いた。
「みのかさや」「阿呆亭」「せっせっせ」のあたりは駐車場になっている。
昨日、第9回目の「小樽雪あかりの路」の閉幕に際して、「みのかさや」を、そして広地さんと奥さんの名コンビを思い出していた。
『モロモロのの意味において人生の秋を感じられるムキは…』
あの不思議なマークと一緒に「みのかさや」のマッチ箱に記されていた、広地さんの名口上。この言葉にちなんで、広地さんは店の前の小路を “モロモロ新路”と(勝手に!)名付けていた。
みのかさやが使い古した七輪を
広地さんにいただかなかったことが
悔やまれてならない
小樽雪あかりの路 ~ みのかさやの想ひ出2
小樽の盛り場は花園。
その花園一丁目、JRの高架線の近くのとある小路は車が通れない。冬になったら除雪も入らない。だから、路の雪は降っては固まり、冬の深まりとともにだんだんその路は真ん中だけ標高が高くなってくる。その路に沿って長屋のように連なった数件の小さな飲食店の入り口は、だから多い時で路より1~2メートルも低くなってしまう。それぞれの店主はスコップで路に雪の階段を作ってわが店への導線を確保しなければならない。
ボクは冬にこの小路を歩くのが好きだった。
高架側から向かっていくと、「阿呆亭」「せっせっせ」そして、「みのかさや」とそれぞれ個性的な行灯が連なる。その行灯の灯りは、夏からすると随分と目線の低いところに存在している。しかも、てっぺんが少し丸まった馬の背中のような雪の小路は、注意して歩かないと両側の谷へ落ち込んでしまいそうだ。
雪に覆われて、雪で盛り上がった冬の小路。
そこに沿って見え隠れする行灯と、その遥か下の路の麓に存在する店の実態。
麓からこぼれ出し、雪を照らす店の灯り、立ちのぼる湯気。
これは、まさに後年の「雪あかりの路」だった。
「みのかさや」の行灯も店のたたずまいも、この小路の中で群を抜いた非日常的な異彩を放っていた。昭和35年に広地 聴寿さんが開いたホルモン焼き肉の名店だ。
「みのかさや」は、正しくは、漢字の「傘」の字の中に、ひらがなの「の」が三つ。三つの「の」の傘で「みのかさや」と読む(写真参照)。むろんこれは、店主による造語である。
七輪がすっぽりと収まるよう、その形にくり抜かれた分厚いカウンターの向こうに、いつもニコニコ笑いながら広地さんは座っていた。すっとぼけた言動で客を「煙に巻き」ながら、客が「舌を巻く」ような、すごい肉を提供する広地さん。
ボクはいまだかつて、牛の心臓にあれほど度肝を抜かれたことはない。
そのほかにも「みのかさや」を訪れるたびごとに、味、人、モノ、その他、たくさんの驚きに出逢った。この店を単なる焼肉屋などと呼んでいいものか…
小樽雪あかりの路 ~ みのかさやの想ひ出1
昨日、すっかり小樽の冬の定番となったイベント『小樽雪あかりの路』が2週間の会期の幕を閉じた。
小樽市街の旧手宮線沿線や小樽運河周辺に置かれた雪のキャンドルの小径をただ散策するという静かな催し。でも、雪あかりの路には、どこか人の心の内面を見つめさせるような奥行きがあって、ボクは大変気に入っている。札幌の雪祭りとほぼ同時期に開催されるが、こちらは規模が大きすぎて、すでに祭りを支えている人たちの顔が見える作りではなくなってしまっている。
今年、第9回を迎えた雪あかりの路。縁があって、第3回目の時のイベントのサブタイトルと企画概要・趣旨などは僕が作った。
http://www.otaru.gr.jp/8-ivent/akari3/akari3.html
「ほっと、ノスタルジィ」
このタイトルなどを考えるときに、ボクの中にはあるイメージがあった。
道外から北海道小樽に移り住んで来たボクに対して、ボクの東京横浜方面の友人や、こちらで生活するようになってから知り合った方々の一部に、どうせこいつは、ただ北海道の美しい自然に憧れて、なんていう次元でやって来た(行ってしまった)に違いない。しばらくすれば北海道の冬の厳しい現実に打ちのめされて尻尾を巻いて逃げ帰るだろう。そんな憶測をされていた。しかしそうした憶測をした面々には申し訳ないが、暮らしてみてますますボクは北海道の冬にものめり込んでいった。自宅の裏道で雪の中にテントを張ってすごし、新聞ネタになったこともあった。
現実世界の音という音を消し去るように、すべての色彩をモノクロームに押し込めてしまうように、あたりを静寂に包みながら降りしきる雪の中を長い時間歩いていると、どんどん目線が自分の内側を向いて来る。とげとげととんがった現実がふんわりとオブラートにくるんだように丸みを帯びて来る。むろん、雪は人々の生活に様々な負担や危険を与えるし、それは押さえておかなければいけないけれど。
冬の小樽から雪を引き算してしまうと、凍てついた町並みが寒々しく屹立するばかりで、「ほっと」なごむことができない気がする。歩き続けた先に見える灯りは、寒い心の中に「ほっと」やすらぎを与えてくれる。灯りをともす軒先の扉をあけると、中から「ほっと」暖かでやさしげな空気が溢れて来るのだ。
おだやかなバレンタイン。
毎年2月の14日はいつも朝からそわそわしていた。
団地の階段。通学の道々の曲がり角。学校の下駄箱。
いつでも誰からでも「受け取る」ための心の準備をしていた。
授業が終わるともうその日は折り返しに入ったも同然だけれど、放課後の校庭から自宅に帰り着くまで、いつも勝手に予感にうち震えていた。
むろん、現実はそううまくはいかないものだが、それでも高校生くらいまでは、いや、大学のはじめ頃までなら、浮いたバレンタインもなかった訳ではない。
これが就職してからというもの、めっきり勝利することも少なくなったのだが、それより何よりその頃から、ボクが幼少の頃には聞いたこともない「義理」という概念が登場したのは実に不愉快である。
大人になると、たいていの人はお菓子業界に踊らされているだだのイベントと納得するのだろうが、そう納得している人のほとんどが、義理以上のめぐり逢いに恵まれてこなかったような気がしてならない。世の中にはやはり、かつてバレンタインエリートと落ちこぼれが明確に存在していたのである。
義理なんとかはその「格差社会」を曖昧にした、という意味においては救世主なのかもしれない。そして、単価はともかく、むしろ数量でははるかに本命をしのぐ個数を売りさばくことに成功したのだから、その業界の方々の企画力には頭が下がる。
でも思うのである。義理チョコは、中年と呼ばれるまでただの一度もチョコをもらった経験のないおやぢ様に、いまわの際の心温まる想い出を与えたかもしれない。でも、まったく遊びを知らずに齢を重ねて来た世慣れない堅物が、悪いオンナにうつつを抜かして役所の金を使い込んじゃったりするように、義理チョコの意味合いをとらえきれずに、身を持ち崩したりする清廉な人もいるのでは、と少々気にかかる。真の愛情もないのにこんなものをよこすなんて失礼ではないか! と激昂するようなまっとうな人物が、遊び心のないつまらん親父という評価をくだされるのもやるせない。
義理チョコは、昔確かにあったはずの2月14日の緊張感をあまりにも無粋に奪い去った。せめて義理というネーミングは何とかならないのか。「感謝○○」とか「信頼○○」とか「世界で二番目○○」「友達以上恋人未満○○」とか…、本命以外のすべてを義理でくくらずに、もう少し仕分けの細分化を望みたいものだ。
けれど一番情けないのは、
なんだかんだといいながら2月14日に手ぶらはせつないので、どういう素性のものであれ、やはり一個くらいは持ち帰りたいものだ。と、もともと男四人しかいないささやかな事務所の、他の三人が出払った留守を守りながら、ひそかに舌打ちしている自分のようなオトコだろう。
旭川の朝。
出演者としては初めて旭川にやって来て、参加したロケはとあるタイヤメーカーさんのスタッドレスタイヤのプロモーション用のビデオなのです。
新しいタイヤを装着した車で雪道を運転しながら、その安心感、信頼感について語るサラリーマンの役所。出演のためにひげを剃るのは、おそらく一年半ぶりくらいでしょうか。おまけにスーツにネクタイ、白ワイシャツの堅気さんです!
助手席側と後部座席から二台のカメラに狙われて、隣に監督、後ろにカメラマンが同乗して指示を出されます。
「はい、じゃあ次の信号が青になったら走り出しながらセリフお願いします」
「では、赤信号で停まった時点で、次のセリフいきましょうか」
小雪のちらつく旭川(11日日曜日)にはこの朝を含む前後何日か、北海道のロケ業界の考えられるほとんどすべての同業者がいたのではないかと思うくらい、主に東京方面のロケ隊を伴って大集合していました。スタッドレスタイヤをはじめ、様々な形で「雪」を狙った撮影が集中してしまったのでしょう。
ロケサービス会社、フリーのロケコーディネイター、音声さんやVEさん、照明や特殊機材のスタッフ等々。何せほとんどみんな顔見知りです。
ホテルで朝食をとっていても(朝ご飯がホテルで食べられたなら、とても幸せな現場と言えます!)、
「おお、○○さん、今日は? ああ、あっちのロケ隊ね。ウソ、同じホテルだったの?」「昨日、●●さんに逢ったよ」「え、あそこも来てんの?旭川に!?」
なんて感じなのです。
旭川の夜2
酒を飲まない男なら、
ラーメンを食べたら宿に帰ればよろしい。
それなのに、ボクは再び徘徊を始めた。
どうしても、「あの店」の、炭火を操るご主人込みのカウンターの風情やら、日本酒通の和服の女将のしゃきしゃきっとした物言いが脳裏を支配してしまい、一度はホテルの入り口の前まで戻ってみたり、遥か遠回りをして歩き回った挙げ句、ゆらゆらと店の前までやって来てしまった。
酒を飲まなくとも、酒飲みは夢想がちである。
もしもこのまま店内に足を踏み入れたとする。
まず女将が気づいて「あら、おひさしぶりね」なんて声をかける。
作務衣とヘアバンドが似合う、炭と一体化した炭坑夫みたいな顔色の、一見強面(こわもて)の主人が、白い歯を浮き立たせてニッと笑って迎えてくれる。ご主人の妹さんだという仲居さんは、ボクと誕生日が一緒である。彼女がまず、ボクに訊ねる。
「お飲物は?」
ボクは彼女には申し訳ないけれど、
「ちょっと考え中」などと言ってタイミングをずらしてしまう。
ボクは、自分の「身の上」を話して、女将の指示を仰ぎたいのである。
女将と目が合って、こちらにやって来る。
「あのね、実は少々訳ありで、今日まで約一ヶ月一滴も飲んでないんだ。ほんとは今日だって飲まないにこしたことないんだけど、たった一杯だけ、絶対一杯だけで立ち去るので、そんなときに飲む酒を女将さんに選んで欲しいんです」
「あらら、どこが悪いの? 内蔵? 痛い風? あちゃ、じゃやめなさい(笑)。そうねえ、だったら度数が低めの体に優しそうな奴、あの例の『風のささやき』にしましょうか」
「あ、はい!」
こちらの突き出しは正油味の大豆のみ。これがまたいい感じなのである。
箸袋には、ひとつひとつ違う「ひと言」が、墨文字で手書きしてある。
かつて胃腸で入院したとき、絶食が解けて水みたいな粥から始まって、だんだん普通食に近づいていくと、やっぱりこうやって、大切に大切に粗食に時間をかけていただくことを忘れちゃいけないよなあ、なんて、珍しく殊勝にしみじみしたものだった。よし、これからは必ず一食に30分はかけよう! 強く心に誓うのだけど、退院した瞬間から忘れてしまっている。
そんなことをゆるゆると思い出しながら、ボクはたった一杯の酒を、なんのつまみもとらず、これが生涯最後の一献のようにゆっくりと時間をかけ、走馬灯を遊ばせながらたしなむのである。
旭川の夜1
ロケコーディネイターとしてではなく、
出演者としてJRで旭川にやって来た。
しょっちゅう訪れている旭川も、普段ならJRで降り立つことなんか当然ないので、妙に新鮮で、駅前の冬のオブジェに目を奪われたりしてしまう。
旅人から住み人になって15年、久々に観光客に戻ったみたいだ。
禁酒24日目。
2月10日の旭川の夜は、監督、制作の方々と打ち合わせの後、独りで街に出た。
ロケサービスの仕事であれば、何十人ものスタッフ・出演者等々の食事のお世話(北海道らしい美味いものを皆さん期待して来ている。美味い酒も欠かせない)をして、その後、時間や体力が残っていて、お客さんとの付き合いがないときには必ず寄る店があるのだが、その店も含め、たくさんの誘惑と戦いながら、しばし徘徊。30分以上は彷徨っただろうか?
結局、抑えて抑えて、よく何軒か飲み歩いた後に深夜に立ち寄るラーメン屋ののれんをくぐる。一軒目に入るのはまったく初めてのことだ。ネギ正油ラーメンと餃子。もし魔がさして飲んでしまって、撮影中に発作が起きたらシャレにならないよなあ。
解禁?
禁酒21日目。
本日の血液検査の結果、尿酸値は大幅に下がっていた。
参考値(正常値?)は、2.5 - 8.3 のところ、
先月19日に発作を起こして病院に駆け込んだときが「8.6」、今回は「5.6」で正常範囲内じゃないか!
おお、これは酒断ちの大成果!! と喜びの声を上げた。
で、ご覧のような映像が瞬間的に浮かんだ。
だって、数値はこの一年半ほど、8から限りなく10に近いところで推移、7以下になったことなどなかったのだ。
ところが先生は渋い顔をしている。
「下がり方が急激すぎる。数値が急に上がったり、急に下がったりする時には、また激しい痛みが襲ってくることが多いんだ」
そ、そんな。
「もうしばらく、薬の量を調節して様子を見てみよう」
「あ、あの…、た、たとえば、お酒とかは…」
「自分が大切ならやめておくことだねえ。ま、結局は患者さん次第さ」
脳裏の映像がしぼむ。
春の日差し対策?
酒をストップして今日でちょうど20日。
これはボクとしては賞讃に値する。快挙と言ってもいい。
この一週間で、体重は3キロ落とした。
ひとえに明日朝の血液検査のためだ。
つまり疾風(痛い風)が吹いて3週間経過した訳。
最初に「違和感」を感じて1年数ヶ月。
出るぞ出るぞとお化けみたいに言われていたけれど、
なんとなくタカをくくっていたら、ついに大噴火してしまったんだ。
1月は鬼門だ。
今年は乗り切れると思っていたんだけど…。
4年前の1月に、大腸ポリープの切除。
入院1週間の予定が、途中で下血して結局2週間。
3年前の1月は、一風変わった転倒をして右手薬指を骨折。
手術で1泊入院。
2年前の1月が、件の骨折跡が思わしくなく、再手術。
手指のくせに、麻酔や鎮痛剤の効かない厄介なボクの体質に、
全身麻酔の大仰さだった。これで1週間入院。
3年連続入院の後、昨年が空いたので油断していた。
=== === ===
4日の日曜日から暦の上では春だという。
「暦の上では」とは、普通、
現実的にこの頃はまだ、冬真っ盛りだからだ。
でも、今年は「暦の上でも」と言いたくなるこの陽気。
昨日、
閉店する小樽の店でサングラスを衝動買いした。
だってこれ、いくらだと思います?
1000円? 500円? 失礼な!
閉店セールプライス105円!
“いよいよ閉店”でさらにそこから50%オフ!
『52円のサングラス』は、はたして、
春の日差しからボクの目を守ってくれるのだろうか。
せめてボクの身体に優しい春であって欲しいなぁ。
雨を、歩く。
足の痛みを残しながら、昨日から今年初めての水泳と歩くスキ-を!
足が完治してからと思いつつも、少々焦りがあるのかもしれない。
水泳は重力がかからないので浮遊感覚でいけたが、 スキーとなるとシューズを履くだけで足に負担がかかる。 でも、自宅目前の美しい風景の中に身を置くのは心地よい。 昨日も今日も、あいにく海はどんよりとした雲に隠れていたけれど。
東京は昨日は14.8度、今日は16度を超えるというじゃないですか!
上野の寒櫻は開花しているというし、九州では櫻が満開になる頃の陽気!? このままだと、東京では初雪が降る前に「春一番」が吹くという、かつてない恐るべき事態が今週末にも起きてしまいそうだとか。
「冬が来る前に、もう一度あの人とめぐり逢いたい…」
という歌があったけれど、今年は、
「冬が来る前に、もうハルになっちゃった…」
ってことになりそうなのだ。
長い冬のトンネルあればこその「春到来」の感動を、
道産子になって初めて知った。
でも、今朝の歩くスキーは、
降り出した雨でやむなく中断。
生きることは食べること3
北海道の食や習慣で、豆に関して驚かされたことが二つある。
ひとつは赤飯の甘納豆(小豆のエリアもある)。
もうひとつが節分の豆まきにカラ付き落花生を用いていることである。
道産子15年生の今でも、この二つの事実はほとんど許しがたい。
さて、節分とは季節の分かれ目であり、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日を指す。明日は立春だ。
驚異的に雪の少ない異様な今冬だが、明日から暦も春になるという。
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このところの不調を季節感で一新するかな、などととりとめなく思いつつテレビをつけると、とあるドキュメンタリー番組に釘付けになった。
八歳の少年が白血病に冒されてから、あえなく帰らぬ人となるまでの 478日の記録。家族は母親と少年の未修学の妹だけ。父親の影はない。
女手ひとつで二人の子供を養っている母親は、白血病で倒れた息子が入院している遠隔地の病院まで、高速料金を節約するために、毎日仕事を終えてから片道一時間半の道のりを自らクルマを運転して通い詰める。
発病からドナー移植までも様々な困難がこの家族を襲うのだが、ようやく移植手術を終えた後に、今度は激しい拒絶反応が少年を襲う。想像を絶する痛み。血の海のような下血。号泣。絶叫…。
それまでの抗がん剤投与、放射線投射と併せて少年の幼い肉体は無惨な状況にあり、腸を著しく損傷してしまっているために、口から食事を摂ることが一切出来なくなってしまう。栄養のすべては点滴からということに。
幼いながら男前の少年は、愛嬌もたっぷり、妹思い、母親思いで、笑顔が可愛く、病に倒れてからもいつもおどけてみせていた。けれども、再三の白血病再発により彼は微笑みを失い、医師や看護婦たち、母親や大人たちに言われるままに厳しい治療に耐えているのだが、いっこうに良くならない自分の身体に不安と絶望を深めていく。
痛みより何より、彼にとって本当の地獄は食事の時間だ。
普段苦しみを分かち合っているように感じてきたまわりの患者たちも、食事だけは享受している。食べ盛り、食いしん坊の少年に残されていた最後にして最大の楽しみである食事。ごはんをたべるじかん。おいしいとか、まずいとか言う以前に、食べ物を口から摂取できる当たり前の幸せを、ボクらはすっかり忘れてしまっていることがよく分かる。
少年がどんなに苦しんでいる夜でも、どれほど添い寝してあげたい晩でも、未修学の妹がひとり留守番をしている自宅に母親は帰って行く。母親に心配をかけまいとする少年は、自分が苦しんでいる様子を母親に極力見せないように気遣い、母親が帰った後に布団の中で嗚咽するような優しい少年だ。その少年が、ある日病室のテレビに映った食べ物番組を食い入るように、やがて狂気の眼差しで観つめながら、人間本来の健全な欲望を呼び覚まされたかのように、抑えきれずすすり泣き、果ては号泣する場面には涙が止まらなかった。
「食べたい、それ、ああ、ください、お願い…」
少年は母にめずらしくあたる。
「食べさせて、何でもいい、え、食わせろ!」
(母/(口から食べたら)直らなくなっちゃうよ)
「(言う通りにしたって)ぜんぜんよくならないじゃないか。嘘つき。
もうどうせ直らないんだ。食べたいよ。ワンワンの食べ物でもいいからちょうだい。お願い。何か食べさせて、もういやだ」
それでも少年は、菌の感染を避けるためにほとんど許されない面会で、実に久しぶりに会った大好きな妹の顔を見て屈託ない笑顔、あり得ないような元気な様子を見せる(母親はそれを「ハルちゃん(妹の名前)マジック」と呼んでいた)。妹も一生懸命ふるまっていたが、面会時間が終わっていざ帰る段になって、シクシクと泣き出してしまう。彼女もまたお兄ちゃんが大好きなのだ。その妹に少年は、「ほら、ハルちゃん、泣いちゃ駄目でしょう。ね、お姉ちゃんなんだから。泣かないの。ね」と、自分の目にもいっぱい涙を浮かべて言う。
自分の命に変えても息子を助けたいと思いながら、無力な自分に絶望する母親。大好きなお兄ちゃんのために将来看護士になりたいと考えているけれど、もうずっと一緒にはいられないことを察している幼い妹。
父の末期を思い出していた。
直腸がんで亡くなったボクの父は、手術後に余命三ヶ月を宣告されてから三年間生きた。でも、余生は人工肛門のお世話になっていた。いったん退院して自宅療養していた時期には、その手入れと言うかメンテがやっかいな機器と毎日根気よく付き合っていた。いっときは食事も常人のそれになり、すっかり回復したのかとも思えたくらいだったが、最後はやはり口から物を摂取することが出来なくなっていた。
父の命日は晩夏の盛りの8月16日で、亡くなる少し前には固形物は全面的に禁じられており、そのかわり、暑い夏に乾く喉に一日数個だけ氷片を看護婦さんにもらっては、口中で愛おしむようにその潤いを味わっていた。
バリバリ理数系の、人によってはどちらかというと冷徹な印象を与える父だった。仕事は優秀なのだが、上司を立てたりすることが出来ず、むしろ露骨に侮蔑の態度を取ってしまったりするので、出来る出世も出来なかったという人もいる。その父が、小娘のような看護婦に向かって、
「すみません。なんとか、あと、もう一個だけ氷をもらえませんか?」
と懇願していたことがあると、後に母から聞いた。
口から物を食べて、お尻から排泄する。
そんな当たり前のことがどれほど幸せなことか、ボクらは本当に忘れ去っているのだと思う。逆に言えば、口から食べてお尻から排泄できないことが、人間としてどんなに屈辱的なことか、そうしたことへの想像力をボクらは失ってしまっているようにも思えるのだ。
絶望的に父とすれ違っていた僕にとって、これらの話を聞いてどれほど後悔したことか。どれだけ自分をのろったことか…
墓に布団はかけられずと言うが、自分は布団をはぎ取るような息子だった気がするのだ。歳月が行き、自分も手術、入院を体験したり、世の定めのようにごく近しい人を失ったりする経験が自然と増えて来る。
それから思うようになった。
人間は健康でないと喧嘩することも出来ない。
人間は健康でないと憎むことすら出来ない。
口から物を食べられない屈辱が存在する一方で、どんなものであっても、まずは食べられることへの感謝の念すらなく、旨いだのマズいだの「シェフのこだわり」だのと、小賢しいことを言っていていいのか?
自分をさらけ出すことをせず、まずは自分から精一杯愛することもせず、自分ばかりが傷ついたような顔をして、誰ともぶつかり合うことを避けていていいのか?
大きく傷つくことはない代わりに、激しい感動に出逢うこともない。
そこそこの歓びにしがみつくことで、避けられぬ絶望に目をつぶっている。
「愛情も、歓びも、絶望も、みんなこの子から教えてもらいました」
そう話す少年の母親とその家族の物語に打たれて、ひとつの季節の終わりに、久しぶりに自分自身や世の中の現在に対する嫌悪が溢れてきた。
生きることは食べること2
同じ今週、札幌市街中心にあるさっぽろフィルムコミッションでの打ち合わせの帰り、お共した風の色のボスと一緒に北海道庁の地下食堂で遅い昼食をとった。初めて足を踏み入れたその食堂は自販機で事前に食券を購入するスタイルだったが、ウィンドウのサンプルに添えられたプライスカードには、エネルギー量、塩分量と併せて「道産食材使用率」という表記があり、「この場所ならではの実感」が湧き、興味深かった。
ちなみにボクの注文したとんこつ味噌ラーメンはエネルギー780kcal、塩分12.0g、道産食材使用率は74%。かつ丼はエネルギー873kcal、塩分3.4gで道産食材使用率は51%だった。
変わり種は「スープカレーラーメン」(450円)。「しか肉ハンバーグ』(550円)なんていうのもあったぞ。
生きることは食べること。
うまいものにはうまい酒、うまい酒にはうまいつまみ。
ボクの至福の悦びはそのあたりにあるのだが、
ゆえあって酒を断っている関係上、そのバランスが崩れている。
もうひとつ、最近、飲食店の取材をして雑誌やインターネットに文章を書く仕事が多い反動か、おのれ自身はあまりウンチクを伴わない酒抜きの下駄履きグルメに惹かれている。
風の色の事務所から徒歩圏内にある「ゆりあ食堂」は、ラーメンもカレーもいまどき400円。実はこれが滅法旨い。こざかしい評論をさしはさめるようなヤワな存在とは存在感が違う。以前から話には聞いていたが、出張や取材のないときはたいてい事務所で昼をとっているのでなかなか出向く機会がなかった。今週はじめにようやく足を運んで、まずはそのたたずまいにひと目惚れをした。昭和3、40年代の雰囲気をそのままに、ボクのタイプの「正しい食堂」の有り様だ。
本当はこんな食堂で、黄色いタクアンをかじりながら、コップ酒をやりたいものなのだが…
美しい相棒。
思い込むとまっしぐらなのだ。
昨年来、迷いに迷った挙げ句に先週連れ帰ったゴミ箱、
いや、ダストボックスをたいそう気に入ってしまい、
必死に相方を探しまわっていたのである。
「探しまわった」というのは、
なかなか値の張る逸品であり、
どこを見回しても定価販売一本やりなので、
その辺も優しい「出物」がないかと腐心していたのだ。
とうとう見つけ出したぜい。
ウェブのアウトレットショップで約半額。
ここにいたのか、お前! という感じ。
この世に生を受けて以来、お前は、
少しだけ人生を斜(はす)に構えて眺めていただけなんだ。
そりゃあこれまで生きてきた中には、
切ないことなんかもいくつか、きっとあったことでしょう。
ちょっと出遅れたりはしたものの、
傷がある訳でもない。致命的欠陥があるのでもない。
やや臆病になっていたきらいはあるけれど、
一人に馴れすぎていただけなんだ。
そのくせ淋しがりやであることもボクは知っているよ。
その辺のバランスを上手にとりながら、
ボクらはうまくやって行けるさ。
という訳で、
今日からボクの美しい相棒です。