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2007-11

自由の丘。

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11月26日月曜日、横須賀の病院を午前10時に出発。
海を渡り、ぴったり6時間後の午後4時に小樽のグループホームに到着した。

目前のこの風景に抱かれて、母の新しい生活が始まる。







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前略、母上殿7

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今日これから、母を横須賀の病院へ迎えに行き、介護タクシーとヘルパーさんの力を借りて羽田空港へ。航空会社さんにも手伝っていただいて、車椅子のまま機内へ。さらに新千歳空港にはヘルパーの資格を持つ、女性のドライバーさんがやはり介護タクシーで迎えにきてくれる。

それから、小樽のグループホームへ。

それまで、母が精神的、肉体的にがんばってくれるかどうか。

全行程、6時間以上に及ぶ僕と母の旅。

パニックをこさずにたどり着けるかどうか。

それでも、

終点は、老人の施設なのだから、息子が母親を施設に入れに行くのだから、
そのときの母のショックを考えると。、終点すら安住の場所ではない。

母さん…


(以下、倉本 聰「前略おふくろ様」原作シナリオより)

「(かすれて)一緒になりません」

「前略おふくろ様。
 一緒になんかなりません。
 なれたとしたってー


「たとえばオレとかすみちゃんが万一一緒になったとする。
 一緒になって蔵王に住んだとする。 
 二人の間に何人か子供が出来る。
 子供たちは大きくなる。 
 一人前になる。
 彼らは東京に出て働き始める。

「オレたちは歳をとりー。
 オレが先に死んでかすみちゃんが残る。
 かすみちゃんが独りで蔵王に残る。
 その時子供たちはかすみちゃんのことを、只の、
 しわだらけのおふくろとしかみない。
 昔分田上で働いていた頃の、
 二十歳すぎたばかりのかすみちゃんを知らない。

「そんな母親を知ろうともしない。

「昔母親が若かったこと

「母親にも青春があったということを

「そんな時を子供は知ろうともしない。
 その時を考えると涙が出ます」


前略、母上殿6

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僕の今回の帰省は11月7日から、今日で19日目になってしまった。

9月13日から精神科に入院した母を、認知症の患者の施設であるグループホームに連れて行くための旅だ。旅好きの僕の、人生で最もつらい旅になった。

病院内での転倒、骨折などのアクシデントもあり、日程は二転三転。先週末の段階で、ようやくXデイは滞在20日目である明日、26日月曜日に決定した。

思いがけない長い滞在の間に、今年はお酉様が二回やって来た。
11日の日曜日と23日の金曜日。母のケアや引っ越しの準備の合間を縫って、一の酉は浅草に、二の酉は横浜の金比羅さまに足を運んだ。三社祭りや朝顔市、ほおづき市、羽子板市など、道民になってから足が遠のいていた大好きな祭りや市だけれど、これまで酉の市で、僕はよい正月を迎えるための縁起物である熊手を買ったことがなかった。幸福をかき集める熊手…。

商談成立のたびに、そこここで湧き上がる一本締めの嬌声の渦と人波に包まれて、僕は今年初めて横浜でお酉様の熊手を手に入れた。

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両親は東京生まれ。僕は父の転勤中に神戸に生まれ、横浜で育った。
小学校も中学校も高校も横浜市立の学校に通った。
18年前に父が亡くなり、僕は15年前に北海道小樽に移り住んだ。3年前、横浜の一軒家をたたんだ母は、横須賀のマンションに住み替えた。今回その横須賀のマンションも手放すことに決まってその準備を始め、3年間思い続けていた気持ちが一気に吹き上がってきた。

これでもう、ほんとうに、横浜と、縁が切れてしまう。

滞在二回目の酉の市に気づく前に、僕は横浜の野毛界隈を歩いていた。

音楽通りから、母校にして、日本で一番古いガス灯のある本町小学校を抜けて坂を昇ると紅葉坂。その奥に3つから住んでいた花咲団地がある。現在そこに立つと、鼻先にランドマークタワーがそびえている。紅葉坂からかもん山公園。県立音楽堂。青少年センター。伊勢山皇大神宮。このあたりが野毛山の幼稚園に通った道。

僕の生涯ナンバーワンの餃子とレバニラ炒めがあるのは野毛の「萬里」。
現在この店で中華鍋をふっているのは、吉田中学のときの僕の次の野球部のキャプテン川淵だ。11月8日の晩に、僕の最も敬愛するアーティスト長谷川きよしの、40周年コンサートがあったのは、同じく野毛の老舗ライブハウス「ドルフィー」。

大好きなホッピーのバー「ホッピー仙人」のある都橋商店街からソープランド街を抜けると伊勢佐木町。伊勢佐木町の商店街には、僕が最初に訪れた百貨店である野澤屋(現マツザカヤ)と最初に訪れた書店である有隣堂がある。さかのぼること35年前に、野球部の練習の帰りにホットアップルパイをかじりながら歩いていて警察に補導されたマクドナルドがあるのも伊勢佐木町だ。その商店街を抜けてすぐの長者町に、登校時なぜかタイムカードを押すシステムだった吉田中学がある。これが僕の通学路だ。

そうこうそぞろ歩きしているうち、熊手を持って歩いている人たちがいるのに気づいた。僕はその人たちの流れを逆流してみた。

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大の男が4人掛かりでかついで帰るような熊手もあって目を見はった。でも僕の場合、母と一緒に小樽まで連れて帰らなくてはならないので、手に入れたのはほんとうにささやかなものだった。

酉の市の熊手にそれをお願いしていいのか定かではないが、明日の母と僕の旅のお守りになってくれるといいのだけれど…


前略、母上殿5

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僕の父の実家は東京の渋谷区広尾で、お茶屋を営んでいる。
父の母、僕の祖母は今年93歳で、さすがに近頃同じ言葉を何度も繰り返すけれど、現在の僕の母よりもしっかりしている。認知症というような病いは年齢順ではないらしいが、ずっとお店番をしていたりしたことはボケない秘訣なのだろうか。

とはいえ、僕の母も現役の書道家だったし、講師などもしており、人前に立ち、教えたりしていたので、まさかこんなに早くこういう日々がやってこようとは思っても見なかった。
 
人が一人生きているということは、役所的な手続きだけからしても、いかに大変なことだったかとつくづく思う。まして、母は横須賀、僕は小樽ともなると、役所通いの二重奏だ。

母を小樽の施設に入れるためには、小樽に住所がある必要がある。現在まだ横須賀の病院に入院しているが、施設の手続きのために、先月中旬、まずは母を横須賀から転出、小樽に転入させた。これにともなって、国民健康保険、高齢者保険、要介護の認定が済んでいた介護保険などの移動手続きが必要になる。印鑑証明も住所地について回るので、実印は登録のし直しである。そうしてそれらの手続きににつきまとうのは、「委任状」だ。

「個人情報保護」の美旗のもと、何かと言えば「委任状」。そのたびに病床の母を訪ねるのだが、自分の名前住所を書くのは、現在の母にとって容易ではない。見本を書き、気持ちを鼓舞し、事細かに誘導する。しかしながら、まっすぐ書くことは愚か、枠の中に収めることすら難儀である。これが読売書展特選、審査員をもつとめた書家と誰が思うだろう。

母が一人暮らししていたマンションは、もう、たたむしかないのだが、母と僕が半分ずつの名義で所有しているので、売却にも困難があることが分かった。
売り出し時に仲介業者と結ぶ売買契約はともかく、話が進み、金額が決まり、買い手が住宅ローンを組んで、いざご成約! となった際に、症状が進んで契約の意思をきちんと示すことができないと破談になってしまう。これを嫌って、認知症患者が絡んでいるだけでその取引を引き受けない司法書士も多いと聞いた。

僕の場合は、「成年後見人制度」を申請して、責任能力が低下している母の代理人になってから、すべてを運んだ方がいい。と、アドバイスも受けた。しかしながら、この制度は認可されるまでに非常に時間がかかり、早くて3、4ヶ月、つい最近6ヶ月かかった人もいたよ、と、とある方からも伺ったばかりだ。

今回のことで、僕はすでにお盆から7回帰省している。北海道、東京の往復は馬鹿にならない。母の部屋は病気のなせる技か、凄まじい状況になっており、半分僕の持ち物なのに、寝泊まりできる状態ではない。入院費、あとからあとから母の郵便受けにやってくる、税金やその他借金の督促状への対応。出費はかさむばかりだ。だから、元々貧しい僕は、マンションの売却を悠長に構えている暇などないのである。

不動産の処理に関しては、マンションの名義を自分に一本化することを母に了承してもらった。そうすれば、売却のもろもろは僕の一存で進められる。しかし、これは不動産の生前贈与にあたり、新たに贈与税や不動産取得税などの出費が立ちはだかった。相続税はどうなるのだろう。これについては、「相続時清算課税制度」の勉強をしたし、税理士さんにも相談をした。母の借金の返済については弁護士さんに相談した。マンションの名義変更には仲介業者さんを通して、司法書士さんにいろいろお知恵を拝借した。

前述の通り、横須賀の病院に入院中の母は、現在小樽市民である。
北海道小樽から何かと駆けつけては、市役所(戸籍課、資産税課、健康保健課、社会福祉課、長寿課…等々)法務局、県税事務所、銀行郵便局を飛び回る僕は、いまはなぜか横須賀市民である。いろいろな情報の順列組み合わせで、モノゴトの優先順位をはかっているうちに、糸はごちゃごちゃにお祭り状態で、とにかくそういうことになっている。


前略、母上殿4

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今回の僕の帰省は、母親を北海道の老人施設に入所させるために、横須賀の病院から連れ出して飛行機に乗せるためのものだ。

何日かの助走期間を設け、日々少しずつ、わずかでもショックを押さえるように母にこれからのことを話してゆくつもりだった。ところが11月8日に見舞いにいくと変わり果てた母の姿があった。一瞬僕は目を疑った。虚空に手をかざしながら、目はつぶったまま、意味不明の言葉をうわごとのように話し続ける。寝言ではない。医者や看護士は、本人は覚醒しているという。それは、全くの植物人間状態だった。

一週間前に、お手洗いで転倒していたところを発見された母は、それから数日後全く歩けなくなった。むろん、食事もお手洗いも自力では行えない状態である。整形外科の診察でレントゲンや、さらに MRIなどの検査を行ったが、僕が今回の7回目の帰省をする前までは、骨にも頭などにも何ら問題はないと聞かされていた。ところが、その後の検査で、母の恥骨にひびがはいっていた。

動けなくなると、お年寄りの場合、歩行困難になるという話はよく聞いたことがある。その上、そうした状態に陥ると、認知症の症状は、加速度的に進んでしまうことを目の当たりにした。このままでは、予定通りに飛行機に乗ることは延長せざるを得ないばかりか、グループホームという認知症を専門に扱ってくれる施設への入所さえ危ぶまれる。医療行為を恒常的に必要とする状態や、自分の身の回りのことをいっさいできない状態では、入所の条件を満たすことができないからだ。

さいわい、その後母は意識を取り戻し、自立歩行はできないものの、車椅子の世話になりながら、少しずつ元の生活を取り戻しつつあった。ただ、認知の症状は明らかに進み、つじつまの合わない話も増えてきた。

11月19日現在、母は僕のことを「宇宙人」と呼ぶ。

北海道にいるはずの息子が、毎日毎日ひょいと現れることが、母の頭の中ではあまりにも神出鬼没、混乱を招きながらも不思議なユーモラスな存在に映るらしい。母の病室に足を踏み入れ、眠っているようなので、起こさないように、音のしないように抜き足差し足。すると突然、目を閉じてはいるけれど目は覚めている気配がするので、
「起きてるの? 僕だよ、わかる?」
と尋ねると、
「わかるわよ、宇宙人でしょ? 計画通り」
「え? 計画って?」
「私が眠っていて、目が覚めた瞬間に、あなたがここにやって来ているように、密かに計画していたの」

なんだかよくわからない。


前略、母上殿3

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昭和49年、HBC北海道放送制作の「りんりんと」は、自分の母親を老人ホームに入所させるために、東京から北海道の苫小牧までフェリーで旅する母子の旅の物語だ。

作者倉本聰さんによれば、これは子供が自分の母親を捨てる、いわば「姥捨て」の話なのだが、実は見方を変えれば、母親に捨てられる子供の物語なのだ、と。

この作品は、当時でいう老人性痴呆症の母親との凄惨なる闘病生活を送った、倉本さんの現実の体験が下敷きになっているという。ご母堂が亡くなられて3年経ってから放送された「りんりんと」は激しい反響を呼んだけれど、一方で、お茶の間で流れるテレビという媒体が取り上げるテーマとしてはあまりにも厳しすぎるという声も上がったという。限界を超えていると。その生々しさが薄れる時間としての三年を待ち、また、ご自身のご母堂が生存している間にはとても放送できない、という作家である以前の、ひとりの人間としての倉本さんの思いを込めた醸成期間を経てしてもそうした批判もあったのである。

そうした批判に対する、倉本さんの反省の上にたって書き下ろされたのが昭和50年の「前略おふくろ様」だった。山形出身、深川の料亭で修行中の板前サブちゃん(萩原健一さん)が、故郷の母親に折に触れて手紙を書いている。その手紙の文面がモノローグのナレーションとして全編を通じて展開する(タイトルの由来)画期的な手法は、その後の「北の国から」でも、純から母親への語りかけのナレーションとして踏襲されていた。ただし「北の国から」も、映画「駅」なども同様だけれど、「前略」以降、倉本聰のテーマの一つは「母親の不在」なのだと思う。

あくまで喜劇仕立て、面白おかしい登場人物たちによってにぎやかに進められて行く「前略おふくろ様」。しかしながら、この作品の底流にあるのも、実は「りんりんと」と同じ深刻で救いのない老人問題だった。テレビ媒体が許容する作りの中に、深刻で深淵なテーマを忍び込ませる壮大な試みをしたのが「前略おふくろ様」だったのである。

(倉本聰原作シナリオより)
「前略おふくろ様。
 オレはあなたの青春を知りません。
 ピチピチと若く、可愛く、恋をした、
 そうしたあなたの青春をオレは知ろうとしなかったわけでー。
 おやじと知り合い、愛し合い、
 そしてー
 それから、オレが全部始まったあなたの、昔の、
 そういう日のことをー」


ボクの父は18年前に亡くなって、母はそれからずっと横浜で一人暮らしを続けて来た。その間、一緒に住むことを母は頑として受け付けなかった。父が死んだ年の暮れに僕は母を連れて、北海道を旅した。その時、少ししか立ち寄らなかった小樽を、母はなぜか随分と気に入ったようだった。15年前、僕が衝動的に小樽に住むことを決めた時、母は少しだけ迷ったようだったけれど、結局一人暮らしを離れなかった。

3年前、横浜の実家の一軒屋を売却したときも、今度こそというタイミングがあったのだけれど、母は横須賀のマンションで独り暮らしを続けることにした。

この夏、たまたまお盆に母に電話をしたら、
  「知らない女の人が家の中にいて、
   もう何日も帰ってくれないの」
と、母の口から衝撃的な言葉が飛び出した。
僕にとっては、まったく唐突なことだった。
それが幻覚幻聴なのか、脳溢血などの前触れなのか、何の知識もない僕は、とるものもとりあえず帰省して病院に連れて行った。今年の暑かった夏に母はエアコンのない生活をしていたので、自分の家にもないエアコンを母親のために買ってやった。その二週間後、通院していた病院の精神科に母はあれよあれよという間に入院してしまった。

「認知症」。かつての「老人性痴呆症」を最近ではこう呼ぶ。
8月お盆から今日まで、僕は小樽と横須賀を6回往復した。

今日、これから僕は飛行機に乗って母を迎えに行く。
もう一人暮らしには戻れない横須賀の母を、認知症の高齢者を扱ってくれる、北海道小樽のグループホームに入所させるためだ。

捨てられるのはどっちなのか。

前略、母上殿2

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前述の本が発行された頃から、映画本編よりも数段低い位置にあった日本のテレビドラマの中にも、文学と呼べるような作品群が確かに生まれ、ようやく注目を浴びるようになった気がする。

昭和52年発売のぺっぷ出版「前略おふくろ様」は、「倉本聰テレビドラマ集」というシリーズの2巻目で、その後、前刊の「倉本聰テレビドラマ集1/うちのホンカン」、続刊の「倉本聰テレビドラマ集3/6羽のかもめ」を読み進むことで、昭和40年代の終わりから50年代に、特に短編の中に、珠玉と呼べる作品が多く存在していたことを知った。その中でも倉本作品に於いて重要な位置を占めていたのが東芝日曜劇場だ。基本的に一話完結、東京TBSのみならず、名古屋のCBC中部日本放送や札幌のHBC北海道放送制作の作品も多く、しかも、それら地方局制作の中に名作と言える作品が隠れており、30代から40代にかけての倉本作品も気を吐いていた。

昭和46年「おりょう」(中部日本放送)、
昭和51年「父(とん)ちゃん」(東京放送)、
昭和48年「祇園花見小路」(中部日本放送)、
そして、
昭和48年「ばんえい」、
昭和49年「りんりんと」、
昭和50年~「うちのホンカン」シリーズ、
昭和51年「幻の町」
は、すべて北海道放送制作の秀作群である。

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中でも、昭和49年の「りんりんと」は、その後の名作「前略おふくろ様」に先立って生まれた、隠れた名作だ。

前略、母上殿1

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倉本聰さんの「前略おふくろ様」は、第一部が昭和50年秋から51年春、第二部が51年秋から52年春にオンエアされた。
昭和34年生まれの僕は放送開始当時16歳の高校生で、倉本聰という放送作家との初めての出逢いだった。その後、昭和56年から21年間続いた「北の国から」によって、国民的放送作家として不動の地位を築いたのは多くの知るところであるけれど、その後、文学部演劇専攻の卒業論文に倉本聰さんと山田太一さんを取り上げるに至る自分にとって、作家倉本聰の真髄は「前略」にあると思っている。

ぺっぷ出版から昭和52年に発売されたこの写真の本を手にして、作品のシナリオのみならず、収録されている、女優田中絹代さんへの追悼文「葬列」や、亡くなった作家山口瞳さんとの長い長い対談を読んでしまったことが、少なからず僕の人生を変えたとさえ思っている。

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この本を目にしなければ、テレビで観た「前略おふくろ様」が、単にひたすら面白いだけでなく、これほどまでに深い作品だとは気づかなかったかもしれないし、数年後に「悪人のいない風景」として大学の卒業論文のテーマにも選ばなかっただろうし、大学入学と同時に北海道上湧別町出身の男と出逢ったり、間もなく「北の国から」や「昨日悲別で」の放送が開始され、さらに卒業後に入社した広告代理店で天宮良さんや倉本聰さんのCM制作に関わるという偶然や必然が重なったにせよ、まさか15年前に自ら北海道民になることはなかった気がする。

そして今年、2007年1月11日から3月22日までオンエアされた「拝啓、父上様」を観て、押しも押されぬ巨匠となった倉本先生は、ご自身の中で、ある「回帰」をされたような印象を持った。


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