FC2ブログ

2008-09

小春おじさん2

小春おじさん3

カウンターの左奥、僕から一番遠いところに座っていたSさんが突然、僕の右隣に座っていた人に話しかけた。

「Fさん、しばらく。ちょっと紹介していいですか?」

Sさんから紹介されたのは、清田区の市民部で地域振興の課長さんをしているFさんという人だった。Sさんは、「Fさんとホシノさんが並んで座っているのを見て、こりゃあ引き合わせなくちゃ、共通点が絶対たくさんあるぞっ、てね」と言った。

Fさんは、札幌市が運営する札幌コンサートホール「KITARA キタラ」の設立準備室で、同ホールの立ち上げに関わった方だった。自らもクラシックギターの奏者であり、様々な音楽活動に携わってきたという。

札幌コンサートホール「KITARA キタラ」は、1997年7月4日にオープンした音楽専用ホールで、先に誕生した東京のサントリーホールを何かと参考、お手本にしたと聞いていた。

僕は東京の広告屋時代にサントリーの仕事に携わっていた。中でも「生演奏のある展覧会/サントリー音楽文化展」という、10年続いたクラシック作曲家の展覧会シリーズは、ちょうど僕の在籍と重なっており、この仕事のおかげで,モーツァルト研究の大家、世界の海老沢敏教授とヨーロッパを取材旅行に行くような幸運にも恵まれた。僕の仕事キャリアの中では、不相応なほど燦然と輝くものだと自負している。

そんなこともあり、サントリーホールやサントリー美術館とは浅からぬご縁もあって、Fさんの口からでる、その周辺の方々のお名前は僕にとっても懐かしく、それは奇遇であるとひとしきり盛り上がった。

Fさんは小樽商大の出身。小樽運河保存運動の勇で、先般、日本建築学会文化賞を受賞した峯山冨美さんとも懇意であるという。峯山さんといえば、16年前に小樽市に移り住んで来た僕が、もっともお逢いしたいと思い続けてきて、かなわなかった方の一人である。94歳のご高齢だが,近々Fさん企画の町づくりの講演会に,元気にお話をされるという。僕は、来月行われるというその講演会に、絶対に参加させてくださいと声をうわずらせた。ちなみに、峯山さんのお名前は、私の母と字も含めて全く同じだ。

そして、Fさんは大の蕎麦好きであるという。
同じく蕎麦気違いの僕が、「横濱に帰省するときには、羽田からまず神田のまつやに直行することすらあります!」と言うと、
「え! まつやさんを知ってるの? 僕は東京の仕事の帰りに立ち寄って、あそこから羽田に向かうことが多いんだ!」
星の数ほどある蕎麦屋の中で、最も愛する蕎麦屋まで一緒だったと、またひとしきり…。

Sさんの小春で、バト君やHさんそっちのけでFさんと話し込むような形はさすがに少々まずい気がして来た。なにしろ、Fさんも話し好きで,話に途切れ目がない。ひと足先に店を出ることになったFさんが、「偶然これを持っていたんだけど,良かったらホシノさんにもらって欲しいんだ」と冊子状にまとめられている雑誌のコピーを差し出してくれた。

それは、季刊の札幌人という雑誌に数回にわたって掲載された、キタラの誕生にまつわるFさんの文章だった。
一応、文章を書くことを仕事にしている僕が見ても舌を巻くようなエッセイがそこにあっただけではなく、キタラにパイプオルガンを導入するためにフランスアルザス地方に出かけて行った旅のエピソード等、Fさんが、いかに深くキタラ誕生に関わっていらしたかがよく分かった。

クラシック音楽に関連した話題が多かったのに、60歳のSさんともう一人の小春の常連である59歳のFさん(見えない!!)との出逢いが嬉しくて、僕の心の奥の方では、その晩ひそかに陽水の小春おばさんがエンドレスのBGMと化していた。



スポンサーサイト



小春おじさん1

776e9.jpg
 
北海道テレビのSさんにお会いしたのは、5月の花見以来だ。
今回は内モンゴルのトブシンバト君と、彼と一緒に会社を立ち上げたHさんを引き合わせるような形になった。

彼らの会社は、主にトブシンバト君の母国である内モンゴル(厳密には中国)の映像を日本に紹介、配給、販売することを目的として立ち上げられた。もちろんその逆もあり得るし、わが風の色を窓口に、内モンゴルに於ける映像撮影をコーディネイトしたり、モンゴル、中国方面からのロケ隊を日本、北海道に誘致したりと、可能性は無限だ。

(トブシンバト君のお兄さんは、内モンゴルテレビ局のドキュメンタリー部に所属。そちらの演出家が、現在「チンギスハンの末裔」をモチーフにした劇場用映画を監督している)。

僕らが呑みながら話しているそんなこんなによって、両国の映像を入口にしながら、映像の枠を越えた様々な文化や技術的・人的な交流にまで発展することができたら、そんな風に願っている。

さて昨晩。Sさんが学生時代から40年も通っているおでん屋「小春」のカウンターに4人。実はバト君の会社の代表であるHさんは在日韓国人で、たった4人で3カ国からなるサミットとあいなった。

Sさんが手がけ、11月7日まで北海道立近代美術館で開催中の「よみがえる黄金文明展」(かつてブルガリアに栄えたトラキア文明をテーマ/先日ドキュメンタリーもオンエア/いずれも同局の開局40周年記念事業&番組)の話や、来年開催される「チンギスハン展」などの話などがひとしきり続いた。



月が揺れる。

いざよい

家の前の崖っぷちのススキ越しに、向こうの山抜けの月を見るとなかなかである。十五夜は風もなく、キーンと張りつめたように輝いていたお月さん。昨晩、ニセアカシアの枝葉が風に吹かれて、十六夜の月も揺れているように見えた。

それにしても、「いざよい」とは何と美しい響きの言葉だろう。

いやいや、十五夜も十六夜も月見をせずに過ごした無粋な御仁たちにもまだチャンスはある。今宵、十七日月は立待月(たちまちづき)、明十八日月は居待月(いまちづき)、十九日月を寝待月(ねまちづき)、二十日日月を更待月(ふけまちづき)。二十三日なら下弦の月、二十七の月を晦(つごもり)という。

昔の人たちが残してくれた、
美しく優しい日本語を、
大切にしたくなる、
心さびしい秋の宵。



マロニエの名残り。

紅花の實

ここ数日、わが事務所の表で「パキッ」と卓球の玉を地面に叩き付けたような、聞き慣れない音が聞こえる。

耳を澄まし目をやると、紅花栃ノ木の實が、自分の重さに耐えかねてアスファルトの地面に落下しているのだった。紅花栃ノ木の實は、そっけなく丸い、表面がざらざらとした薄緑色をしており、割れるとなかから甘栗のような可愛い実態が顔を出す。

風の色の事務所前の通りは、あの巴里のシャンゼリゼを彩るマロニエの仲間であるとされ、北海道では珍しい紅花栃ノ木の並木になっている。ゴ-ルデンウィークを過ぎ、櫻が散った頃には、紅色の花が連なりなかなかな景観である。この数日は事務所の真ん前の一本だけがやたらと實を落としていて、舗道も車道も、あたり一面を覆うようだ。

毎年初夏の開花を楽しみにしているし、花が終われば花弁が雪のように積もるのも目にしたし、秋にはこうして實を落とすのも知っていた。けれども、パキッという音につられて落下の瞬間をじっと見詰め、なんとなくその實を拾い集めてしまったのは、ここに事務所を構えて初めてのことだった。

今年の秋は、いつもよりも少しおだやかな心持ちなのだろうか。



横山のお昼。


かつて札幌市南3条西2丁目に、昭和46年創業の「スイス・イン」というフォンデュ(チーズもオイルも!)のうまいレストランがあったのをご存知だろうか。その店を12、3年前に取材させてもらったことがある。スイスでの修行経験があるオーナーの横山隆志さんが用いていた道具である「チーズ(フード)カッター」の写真を、誌面一杯に配した雑誌のページをこしらえた。

なんせ、本場スイスはツェルマットで食べたのがフォンデュの初体験だった(自慢)僕が、その後口にしたあらゆるフォンデュの中で最も感動したのが「スイス・イン」のオイルフォンデュだったし、その後も何度か客人として訪れながら、横山夫人とはずいぶんと話し込んだりしたものだった。

残念ながら、8、9年前に「スイス・イン」は休業してしまったのだけど、横山さん夫妻が昭和61年から営業している、もう一軒の円山の飲食店、その名も「とんかつ横山」のとんかつがまた絶品なのである。

横山

実は7年半前に開いた風の色(私の事務所)は、横山から車で2分の位置にあるのだが、ロケの仕事以外ではJR & 徒歩通勤の僕は、タイミングの問題やらで、今日訪れたのは数年ぶりだった。

風の色の若者オノッチの自転車を借りていたこともあって、普段通らない道を適当に走っていたら突然「横山」に出くわした。自転車だとおそらく事務所から最短3分くらいだと思われる。ちょうどお昼のピークを過ぎたころだったので、久々にのれんをくぐったら、とっても喜んでくれて、僕もワシワシととんかつ定食を食べた。

「スイス・インの特製醤油覚えてる?」横山夫人が言った。

もちろん覚えている。スイス・インのオイルフォンデュやステーキを食べるときに登場した自家製の醤油なのだが、これがすっきり切れ味がいいのに、深みを兼ね備えていて滅法うまく、常連の間ではこれをチーズフォンデュにつけて食すのが密かに通とされていた。フォンデュ屋さんの休業後、顔を合わせる度に横山夫人は「いつかスイスイン再開するからね」と口癖のように言っていたのだが、今日はじめて、「もう無理。ああいうレストランの時代じゃないもの」と、再開を断念したことを口にした。


かつての「スイス・イン」の常連で、「横山」にも通っている付き合いの長い客の要望で、昨年暮れあたりから、このときの醤油をとんかつに! との声が上がり、いつものとんかつは、常連の間でだけ、知る人ぞ知る特製とんかつに変貌した。

幻の特製醤油を得て、久々の横山のとんかつはいっそう感動的に美味で、しかも舌に広がる味わいの向こうにスイス・インのオイル&チーズフォンデュの横顔までが浮かび、僕のランチは想いもよらぬカタチで圧倒的に豊かで、すこしだけ切ないものになった。

横山夫人と僕は、この数年の空白を埋めるように、しばしお互いの近況を機関銃のように語り飛ばした。

山盛りのキャベツをさらにおかわりしながら。

(写真はとんかつ定食1.050円。待ち切れず、ひと切れ食べてしまってからの撮影なので、本当は右端がその分まだ長い/左奥が何種類もの野菜等をブレンドした自家製の醤油。懸命なる読者が常連でなくても、ちょっと尋ねてみるといい)



ビコスの朝。

ビコス

25年前の2月から3月、大学卒業の直前、僕は40日間かけてヨーロッパを歩いた。ロンドンを皮切りにアムステルダム、パリをめぐった旅の序盤戦、奇妙な体験をした。

日曜日の朝。エッフェル塔にほど近い道ばた。高級車から降り立った背広の紳士がイタリアなまりの英語で僕と相棒に話しかけて来た。

「自分は今、シャネルのファッションショーに出展して、ミラノに帰る途中である」と車の後部トランクを開けてみせる。そこには、ビニール袋に包まれた、いかにも高価そうな新品とおぼしき革のコートやブルゾンが詰まっていた。

「私はご覧の通りリッチマンである。だが今日は銀行がどこも休みだ。不幸にも現金の持ち合わせがなく、トラベラーズチェックも換金できない。だから、ガソリンを入れることも、食事をすることも出来ない。むろん、この私がただお金を恵んでくれとか貸してくれとは言わない。ここにある素晴らしいデザイン、最高の革製品を格安で買ってはくれまいか?」

よく晴れた日曜の朝。そびえるエッフェル塔。巴里のイタリア人。なんというシチュエーションだ。半分眉につばをつけながらも、これから続く旅に於いても、こうした場面からすべて逃げ出していては、危ない目にも遭わないかもしれぬが、激しい感動やきわどい体験にも出逢えないのではないか? 仮にこれが詐欺まがいだったとしても「現物」は手元に残るではないか。しかもこの品々は、素人目にもいかにも so expensive!

結局、僕らは同じ革でしつらえた、「シャネルのショーにも出品した」コートとブルゾンを彼から「購入」した。ブランド名は Vicos! 金額はよく覚えてはいないが、凄まれたり値切ったりの応酬の挙げ句に、日本円で2万円程度だったろうか。

背広の紳士は「こいつをまともに購入したら $5,000 はくだらない。君たちはなんてラッキーガイなんだ!」と、自分はまったく大損だと言わんばかりに真顔で言った。

ビコス氏と別れた後、僕と相棒はエッフェル塔をバックに「戦利品」を着て記念撮影した。その先の旅を身軽に過ごすために、郵便局から安い see mail で日本に送った。

帰国後、横濱の税関から電話が来た。
貴殿が巴里から送った衣類に、高額な関税がかかる可能性があるので、横浜港で止まっている、と。残りの旅に熱中して忘れかけていたビコスが、ふたたび僕に衝撃をもたらした。

ずいぶん壮大な時間を経て、ようやくビコスを手にした僕は、知り合いの洋服屋に「鑑定」を依頼した。税関が目を留めるくらいだ、相当な逸品に違いない。ところが洋服屋は、わがビコスにほんの少し目を向けただけで、ちょっと申し訳なさそうな、すこし咎めるような口調で言った。

「ホシノさん。これに幾ら払ったの? 5,000円でも高過ぎる。正直これ革じゃないどころか、合成皮革ですらない。ほれ」

彼はコートの裏から小さく生地を採取して、100円ライターの火を近づけた。生地はチリチリと丸まりながら、手品を見ているような塩梅で溶けるように消失した。よくよく見れば、縫製はゆがみ、ダブルの合わせが笑っちゃうくらいにずれていたりとお粗末な部分が分かって来た。でも、すくなくとも洋服のカタチをしていて、着ることはできる物体なのだ。

なんと手の込んだことを、ビコス ! !

結局、高額な関税を支払うことはなかった…。


その旅から四半世紀。
横濱から小樽に移り住んで16年。
垢のように溜まり始めたがらくたを処分していて、久々にビコスとご対面した。相棒は、僕のそんな鑑定を知らずに、父上の誕生日に Vicos をプレゼントしていたらしい。

巴里のイタリア人、今いづこ…。



山頭火の夜3


気がつくと、その奥様と、畠中さんとも親交の深い奥様のお友達がバーに出現して、僕らはカウンターからテーブル席に移った。

奥さん曰く、

「昼間のカレーの人と飲んでる、っていうから誰かと思ったら…。でもね、あなたがお店に入ってきたとき、なんか、あたしたちと同じ匂いのする人だな、って思ったの」

そして、ご自分にぞっこんの旦那のことは、

「この人は味に絶対的な自信を持ってるし、いつもこうやって威張っているけどね、実は小心者なんですよ」

それを聞いた旦那は、

「うーん、こら、ホントのことを言うな! ぜんぜん気にしてないふりして、やっぱり自分の味をどう思っているかとか、とっても気にしてるしドキドキしてる。だから今日の昼間、あまり初めての客が頼まないトマトとレタスの味噌ラーメンをキミが注文したとき、自分で作りたくなったんだ」

畠中さんが奥さんにぞっこんな訳が、少しだけ分かったような気がした。夜が更けて、そろそろ散会ということになった。

別れ際に僕は畠中さんに聞いた。

「ラーメン食べてから帰ろうと思うんですけど、山頭火以外で旭川で食べていいラーメンを教えてください」

「そうか、分かった。一緒に行こう!」と畠中さん。
「ここはいいよ! 旭川だから醤油を食べる人が多いけど、僕は塩がいいね」

弁慶

山頭火の創業者に未明に連れて行かれたのは、3・6街の小路にある、僕も何度か入ったことのある、ごくごく普通の町のラーメン屋さんだった。今晩のことをブログに書いていいかと尋ねながら、携帯電話のカメラを畠中さんに向けると、だったらこんなとこ撮ってよ、とそのラーメン屋さん「弁慶」の丸々太ったおばちゃんのほっぺたに顔を近づけて、キスをするような仕草をした。「仲良しなんだ」

弁慶2


山頭火の夜2

三四郎2

ロケ隊との夕食が午後8時半過ぎに終わり、僕は「流れ」をそっと抜け出して、昼間教わった山頭火創業者・畠中仁さんの携帯を鳴らしてみた。留守番電話になってしまったので、僕はひとまず、旭川に泊まるといつも立ち寄る「独酌 三四郎」ののれんをくぐった。

いつものカウンターに座ると、囲炉裏端の煤にまみれ、少し薄暗くなった一角と一体化したご主人が、黒い顔の間から白い歯をのぞかせ、合掌するようなこれまたいつもの感謝の念を表すポーズで出迎えてくれた。

「日本酒学講師」である和服姿のおかみさんに、
「すっきり切れ味の酔い日本酒をください」と告げる。

三四郎

明朝のロケまでの、少しだけ解放された時間がゆるゆると訪れる。
でも、今晩少し落ち着かないのは、まだ山頭火の畠中さんと連絡がつかないからだ。何度か席をたち、表で連絡を試みたが留守電のまま。まあ、五時半から誰かと飲んでいると言っていたのだから、そのまま盛り上がっているに違いない。いつかまた機会があれば、というようなメッセージを残した。

また、畠中さんが客人としても訪れると聞いた三四郎のご夫妻には、
「もしも近々畠中さんがいらしたら、ホシノはふられて帰ったと伝えてください」
と言い残した。


午後11時近くに3・6街の雑踏をホテルに向かっていると、携帯が鳴った。畠中さんからだった。

「ごめん。今、帰宅したんだ。で、携帯を開いたら…。いやあ、ホントにごめんねえ!」
「いえいえ、また機会があったらぜひお願いします」
「いや、今飲もう。どこにいる? 分かった、そこに立ってて」

数分後、いったいどこから? という瞬間移動の印象で創業者は登場した。そして、ずっと一緒だったみたいに歩き始めた。


「ここが旭川で一番のショットバーだよ」
いつも行く店はそう何軒もない。そう言った山頭火の畠中さんが、満席だった店の次に僕を誘ったのは、地下にあるオーセンティックバーだった。

バランタインの年代物を飲み始めた畠中さんにご相伴しながら、ずいぶんいろいろな話をした。神戸、横浜、小樽。僕がどのような経緯で道産子をやっているのか。現在の仕事について。でも、創業20年にして、山頭火をここまで成長させた男の物語はやっぱり圧倒的に面白かった。特にその語り口の過激さに於いて。

「商売を広げると、いろいろなこと言われるじゃない。俺なんか口悪いし、生意気だしさ。だから余計にね。でもね、これだけは言えるのは、自分の店の味を創るために、他の人が遊んでいる時も寝てる間も、人から何も言わせないだけの努力はしたよ」

「店の数が増えて、スタッフの数もたくさんになってくると、自分の意思とか気持ちとか、味に対する思いとか、必ずしも同じように伝わらなくなってくる。今日の昼間、僕の黄色いカレー、和風のカレーのことをキミに伝えていて、『あ、だからライスカレーというネーミングなんですね』って言ったでしょ。ウン。あの瞬間に今晩この人と飲もう、って思ったんだ」

「20世紀から21世紀にかけて、俺が凄いと思ったことが二つある。ひとつはウォシュレットの発明。これは画期的だった。そしてもうひとつは、今の奥さんに出逢ったこと。これは決定的だった」

おのろけなんていう表現を越えて、その他のクールな語り口とは異なる、奥さんへの賛美のべたべたは、いっそ小気味よかった。


山頭火の夜1

朝飯

8月最後の土曜日、僕はCMロケで旭川にいた。
空港にタレントさんやヘアメイク、スタイリストさんを迎えにいくまでに時間があったので、久しぶりに山頭火の本店でラーメンを、と思ったら店が変わっていた。でも、ウロウロするほどは余裕がなくってその初めての店ののれんをくぐった。

カウンターだけのこじんまりした店の、Lの字の角に陣取った僕のはす向かいに、中年のご夫婦らしきがラーメンを食べ終わろうとしていた。

“ネギたっぷり、鶏レバご飯とラーマンがベストマッチ”の「レバノンセット」だとか、“とにかく麺が太い醤油味”の「短太固そば」など、味噌塩正油の普通のラーメン以外の一風変わったお品書きに興味を引かれたが、こうした小さな冒険で後悔する機会の多い僕は少々ためらった後、でもやっぱりちょっと変わった「トマトとレタスの味噌ラーメン」を注文した。

味噌

「トマトとレタスの味噌ラーメン」をカウンターの中のお兄さんに向かって発注したその瞬間、はす向かいのご夫婦らしきの男性の方が、いきなりカウンターの中に入って調理を始めたので僕は驚いてしまた。え? 店の人だったの?

たっぷりのトマトとレタスのどんぶりの中に、さらに擦りおろしチーズとタバスコを投入する。かなり不安もあったが、そんな予感は大はずれ、今回の小さな冒険は大成功だった。具材からすれば、まったくのイタリアンなのだが、それは決してパスタのたぐいの味ではなく、あくまで味噌ラーメンであり、日本の味覚であったところにぐっときた。

うまい! を連発する僕に、調理してくれたひげ面のおじさんもご満悦の様子。いいでしょう、と言わんばかりにニッと笑った。さらに、

「この味噌はね、奥さんが味を決めたんだ。なかなかでしょ」
と、先ほどの相方さんを指して言った。

それから僕らはしばし言葉を交わした。そして、そのおじさんが、国内に50店舗、アメリカにも5店舗を展開する、かの有名ラーメン店「山頭火」の創業者、畠中 仁さんであることが分かって来た。

畠中さんは、創業から20年経ち、モロモロが定着している「山頭火」ののれんではできない冒険、遊びを、この店で楽しんでいるのだと言う。

ライスカレー

「この店ではね、カレーも出してるんだ。それも、今風のエスニックやスープとかでなくて、そば屋で出てくる、ルーの黄色い奴さ。和風なんだ。そうだ、ちょっと食べてみて!」

という訳で、カレーの試食と相成った。
おお、これがまた、見事に黄色い。あんまり難しい理屈はなく、市販の2種類のルーの調合が基本だと言う。出されたソースと醤油のうち、僕は迷わず正油をぶっかけてみた。そいつが懐かしいようなやるせないような感覚で舌を喜ばせてくれた。

「そうそう、僕もこいつには醤油だと思うね」と畠中さん。さらに、「ねえ、時間ないの? ちょっとコーヒーでも? あ、仕事で空港? そうか、じゃ、ちょっと携帯出して。番号。今鳴らすから。それ僕の番号。ね、僕も夕方から人と約束あるけど、よかったら電話ちょうだい。呑もうよ」

すべてが早業のようだった。(続く)

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

カレンダー

08 | 2008/09 | 10
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

プロフィール

azumashikikuni

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

FC2カウンター

FC2ブログランキング

FC2 Blog Ranking

全記事(数)表示

全タイトルを表示