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2008-10

さよなら、横須賀2(中央酒場)

焼酎ハイボール

横須賀の中央酒場、午前11時27分。
僕はまずホッピーを頼む。

カウンターの上と背中側の壁いっぱいにメニューの黒い札が下がっているのだけれど、あまりにもたくさんあって、よほどの決意がないと、即注文は不可能だ。でも、常連とおぼしき客たちは、よどみなく発注している。

さんざん迷ったあげく、僕はレバー炒めと揚げだし豆腐をお願いした。ここではレバーのメニューだけでも、ほかに「レバーフライ」「レバーステーキ」がある。たとえば、卵関係だと「目玉焼き」「卵焼き」「厚焼き卵」「ハムエッグ」といった塩梅で、このラインナップだけでも酒飲みを泣かせる。

二杯目に、これも一家言ありそうな「焼酎ハイボール」を。
黄色味がかった不思議な色合いが、朝から呑んでる非日常感をさらに加速して行く。

ちゅうさか外観

でも腰を落ちつけてはいられない。

今日は、期せずして一年間通った横須賀への、
しばしおいとまのご挨拶回りなんだ…。

「ちゅうさか」、またね。






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さよなら、横須賀1(中央酒場)

横須賀中央

母が最後に住んだのは横濱ではなく、横須賀だった。
父母ともに東京の人だったけれど、僕は父の転勤中に神戸で生まれ、4歳から横濱に暮らした。神戸、西宮の記憶なんてほとんどないので、「生まれは?」と訊かれれば、やはり横濱と答えるだろう。

18年前に父が亡くなってから、母はずっと父の建てた横濱の家に独りで住んでいた。4年前にその家をついに手放すことになったときが、母を小樽に呼び寄せる最後のチャンスだった。けれども、母は頑として受け入れず、横須賀のマンションで暮らし始めた。ちょうど3年続いた横須賀のマンション暮らしは、病気のために、昨年の9月までのこととなった。

いろいろあって、そのときから僕の住民票を横須賀に移した。
話せば長くなる、やんごとなき事情があったからなのだが、一年が経過し、ここにいたってそうしている理由も完全になくなり、というか、不便さばかりが募って、今日、小樽から横須賀の市役所に出向き、転出の手続きをとって来た。

ちゅうさか1

京浜急行横須賀中央駅を降りてすぐの小路に、昭和28(1953)年からやってる「中央酒場」がある。なぜか横須賀には、僕の愛飲するホッピーを呑ませる店がたくさんあって、なかでも中央酒場は、「もーり」と並んで双璧である。ホッピー好きの間でささやかれる「三冷」をシビアに守る姿勢は徹底している。

「三冷主義」とは、ホッピー(正しくは、焼酎のホッピー割り)たるもの、ホッピー(という名の清涼飲料)と焼酎、そしてジョッキの三つすべてをしっかりと冷やしておかなくてはならぬ。氷をいれるなど愚の骨頂である。というものだ。

横須賀よりも、ずっと早くからホッピー文化が存在していたであろう浅草あたりでも、最近はほとんどの店がジョッキに氷を満載して出してくる。あれは困ったものである。「ちゅうさか」(中央酒場を常連はそう呼ぶらしい)では、写真左手に見える冷蔵ストッカーの中に、すでに適量140mlの焼酎が入ったホッピー専用ジョッキが厖大に冷やしてある。注文が入ると、そいつを取り出し、これまたキンキンに冷えた壜のホッピーと一緒に客に提供するのだ。

ちなみに「中央酒場」は午前10時開店。写真は午前11時過ぎの情景である。


秋だから2~いちょうとぎんなん

いちょう
 
小さな旅の帰り道、いちょうの並木に出逢う。
おお、そこかしこにぎんなんの實が落ちている。
銀杏と書いて、いちょうと読み、ぎんなんと読む訳だが、木はいちょう、實はぎんなんと言い分けているように思う。

なんて徒然に頭の中でつぶやきながら、自転車のスタンドを立て、しゃがんでは拾い、また移動して、しゃがんでは拾う。

あの特有の匂いが指先にまとわりつく。

銀杏

自転車を貸してくれた若者には悪いが、収穫したお宝を入れる袋も何もなかったので、とりあえず、自転車の籠に失礼。

さて、そろそろ事務所に帰ろう。



秋だから1~そば(喜香庵)

喜香庵2

東京の広告屋時代、横濱-東京ですら通い切れない忙しさに疲れ果て、大学の頃かなわなかった都内のアパート住まいに踏み切った。27歳だった。

その甲斐もなく30歳にして初めてストレス性の胃腸炎で入院して以降、仕事仲間にひきづられるようにして、僕はアウトドア野郎に変身していった。間もなく、入り浸っていたアウトドアショップ「Largo(ラルゴ)」のKさん(昨年まで3年連続内モンゴルの旅につき合ってもらった人)の薦めで高価なマウンテンバイクを購入した(19年経った今でも愛用)。

そのうち、そいつで通勤するようになり、そいつで呑みに出かけるようになった。な、なんて大都会の自転車生活は楽しいのだろう。僕をアウトドアに引き込んだデザイナー氏らと共に、しばしばMTBでハシゴするようにもなった(酔って転倒して血を流したこともしばしば)。

北海道の徹底した車社会に染まらぬよう、道産子17年目の現在でも、僕は基本的に電車+徒歩通勤を貫いている。当然のことながら、クルマと徒歩は見えるものが違う。機動力も違いすぎるので、すべてを比較はできないが、そういう意味でも自転車は素晴らしい。普段見過ごして来たものに出逢い、通らなかった路地にずんずん入り込む。通勤やお使いが旅に変わる。

さっき、お昼がてら会社の若者の自転車を借りて独り繰り出したら(ママチャリだったが…)、ぐるぐる回った挙げ句、ごひいきの、でもたいそうご無沙汰している蕎麦屋に着いてしまった。

喜香庵1

何しろ、最も好きな食べ物は蕎麦であり、至高の酒飲み処は蕎麦屋だと思っている。だから一年中蕎麦なのだけれど、新蕎麦の季節だけに、またそぞろ気持ちが蕎麦でいっぱいになっていた。先だっては、ホームグラウンド小樽で薮半に二日続けて赴いたし、週末の蕎麦打ちも土日に渡った。

そんな時、若者の自転車が喜香庵に僕を勝手につれて来た。
新蕎麦をせいろでいただいて、さっと、と考えたのは一瞬で、店主阿岸さんお薦めの純米「豊の秋」をぬる燗で、わさび漬けと共に。あ、そうそう、と、「四季桜 花神特別本醸造」を冷やで。自家製粉の蕎麦は、道内弟子屈産で、栃木県の常陸秋そばは来月中旬頃の入荷だそうだ。

店名そのままに、秋の香りを思いっきり堪能し、しばし店主ご夫妻とお話をしてからまた自転車に乗った。



10月の自由。

10.月の自由4
 
17日金曜日、峯山冨美さん(元小樽運河を守る会会長)にお逢いしたことで、20歳も若いけれど、同じ名前の自分の母親が気にかかり、昨日久しぶりに施設に足を運んだ。

要介護度4の認知症に、アルツハイマーの症状が加わってから、また進行が早まった気がする。精神科の先生からは、原因が分からず、治ることのない病気だから、これからはいかに進行をゆるやかにするかということに重点を置く治療を心がける、と伺ったばかりだ。

昨年11月末、新しい環境に不安を感じながらも、「大好きな海の見える新しい家」に住めることをたいそう喜んでいたのに、昨日は車いすに座ったまま、天井ばかりを向いていた。

何よりも、目の光に意思の力が全く感じられないのが切ない。

「海を見ないの?」

と話しかけても反応がないので、車椅子を押してリビングの窓辺に母を連れて行った。いろいろな言葉や、頭をそっと触って促してみるけれど、それでも母は虚空を見上げたままだった。

グループホーム「自由の丘」のリビングの大きな窓からは、小樽湾がよく見える。10月の夕暮れ。


母は読売書法展の審査に関わるクラスの書道家だった。
僕が北海道に移り住んでから、母の書をプロデュースする形で、何回か仕事をしたこともある。

母が半生を費やした書への関心や「字を書くこと」そのものが、母のこれからの生活の支えになり、元気の源にならないか…。そう考えて、最後に母が住んでいた横須賀のマンションから、随分たくさんの書道関係の書籍や、筆や硯、紙を始めとする書の道具、何より母の作品を、僕はこの施設に送っていた。

だが、意識のはっきりしていた昨年末から今年始めにかけては、書の話をされるのが不愉快だったようだし、そうこうしているうちに、今ではほとんど意思の疎通さえ出来ないようになってしまった。しかも、字を書くことはおろか、昨日初めて目撃したのだが、アルツハイマーの症状のひとつである筋肉の硬直が手に出はじめており、母は両手を胸の前で「お化け」のポーズのようにこわばらせていた。

昨日、自由の丘のスタッフの一人とそんな話をしていたのだが、その若い女性が、突然、「ホシノさ~ん、ねえ、字を書いてみませんかぁ」と母の耳元で大きく声を出して言った。

10月の自由手

その言葉にはなんの反応もなかったけれど、優しい所作とはいえ、彼女は半ば強引に母にボールペンを握らせると、その手は正しく「ペンを持つ状態」を形づくり、固まったままになった。

今度は、筆を握ってもらおう。



雪虫、吹雪く。

雪虫

この数日来、雪虫が飛んでいる。
それも半端な数ではない。
飛んでいる、ではなく、襲来こそがイメージだ。

現実の雪同様、ふわふわと優雅に舞っていれば可憐にも見える雪虫だが、歩く人たちは皆一様に、顔の前辺りで追い払うように手を振りまわしている。黙っていれば目にも口にも鼻からも飛び込んで来るからだ。うっかり頭や衣服を払わずに家に入ろうものなら、玄関をリビングを雪が舞う。

北海道に移り住んで来て間もない頃、雪虫の舞った数日後に、本当に雪が降ったので感動した。現実に雪虫は初雪を予告してくれるのだと。ただ、この一週間ほど、雪虫は舞いっ放しで風情も歳時記もへったくれもない。

ちらほらと舞う雪虫に心動かされていたのが、今や不感症のようになってしまったのかと、少し自分を責めるような気分になる。日々に追いまくられた生活を送っているからか、旅は生活にかわり、非日常が日常と化してしまったからか…。

小樽生活17年目に突入中。




邂逅。峯山冨美さん2

冨美

「なぜまた小樽を選んだのですか?」

開口一番の峯山さんの質問に、神戸で生まれて、横濱に育った自分が、旅をして惚れ込んだ北海道で三つ目の港小樽に発作的に移り住んだ旨を話すと、

「私は横濱が大好きです。わざわざ小樽の住民になってもらってありがとうございます」とおっしゃった。最初の言葉だった。

「Smoll is beautiful という言葉がありますけど、小樽という町は小さくて、はじからはじまで目が届く。町づくりを考えるとほんとにちょうどいい大きさなのだと思いますね。札幌になってしまうと、大き過ぎて全体のことはぜんぜん分からない」

「亡くなった主人(峯山巌/考古学者)と私の間には子供がいませんでした。だから、子供を育てるという仕事をしない分、自分たちに出来ることを精一杯して生きていこうとよく話していました。『地域に生きる』と私はよく言うのですが、生きるというのは、その町にただ漫然と暮らすことではなくて、自分の出来る限りの情熱を傾け、愛情を注ぎこんで、深く関わっていくことだと思うのです」

「60歳を過ぎて運河に関わりましたが、あの頃は何も怖いものがなかった。今はもう94(きゅうじゅうし)ですから、大分気力が衰えましたが、当時は道のお役人だろうが国のお役人だろうがぜんぜん何とも思わなかった。この店でも偉いお役人さんとケンケンガクガクやったことがあります」

「町から匠がいなくなってしまいました。ある日、昔から知っている叩き上げの大工が新聞配達をしているのを見て、あんた何やってるのと尋ねると、もう俺たちの出番がないんだというんですね。家を建てる現場を見ても、なんでもホッチキス見たいのでバンバン留めて、半分出来上がったものを現場に運び込んで来る。匠を必要としない町になってしまっているのです」

「運河周辺の石造りの倉庫は、あれはもう大変なものなのです。梁を組み合わせ、そこに軟石を積み上げて、素晴らしい建築物です。今、倉庫群は大半が食べ物屋さんやお土産屋さんになっていて、訪れる人たちはみんな下を向いている。下を向いてものを食べたり物色したりしている。でもね、私は見上げてご覧なさい、と言うんです。一棟一棟梁の表情が違っていて、そりゃあ素晴らしい技を見ることができます」

「今小樽は観光にのみ頼る町になっています。その観光も、本来の小樽らしさを伝えているとは思えない。闘って守った運河が、現在のようになって、ただ嘆いている人もいます。私も残念に思う部分が多々あります。ただ、あの運動で『地域に生きた』人たちの力が集結したことで、この小さな町が全国から注目されることになり、さまざまな問題提起を全国に向けて発信するきっかけになったのは確かです。あのことがなければ、現在のように全国に小樽が知られることはなかったのではないでしょうか」


峯山冨美さんの言葉はすべてが珠玉だった。
経験と深い洞察に裏付けられたひと言ひと言が、明晰でよどみなく、それでいて生きること、小樽の町と人々への愛情に満ちていた。

峯山さんのお話はさらに続く。

昭和50年に北海道文化賞を受賞したご主人の峯山巌さん(平成4年9月没)との絆。敬愛する掛川源一郎さん(平成7年に北海道文化賞受賞の社会派カメラマン。アイヌ民族や開拓民等、道内で生きた人々の記録を残す。平成19年12月没)と故郷伊達の記念館に並んで展示された夫を見て感極まったエピソード。誰もが目指したものを形に残すことができる訳ではないのに、自分たちはそれを実現した幸せな人間であり、人生に悔いはないこと。

94歳の峯山さんは、現在も一人暮らしを続けている。
同じ94歳で、最近まではかくしゃくとして父の実家「お茶と海苔の星野園」の店番に立っていた私の祖母は今、病院と施設をタライ回しされている。Fさんの企画で峯山さんが講演するフォーラムが実施される来月4日に75歳になる、峯山さんと同じ冨美という名の私の母は、小樽の認知症施設にいる。

人間の老いは年齢ではないと頭では理解しつつも、峯山冨美さんのあまりにもお元気な姿と地域に生きた半生に触れて、僕は魂の揺さぶられるような気がした。


峯山冨美著「扉は閉じられて」“はじめに” から

『(前略)私共夫婦は、その生涯を終える前に、夫々エッセイ集を出版し、お世話になった方々をお招きして、「二人の感謝会」をしよう。と約束をしておりました。
藤本先生等のお力添えによって、主人の方が「考える葦」としてまとめ、私はそのあとがきに、次のようなことを書きました。

 結婚後六〇年を共に生きてきた。
 哀感交々の過ぎ去った日々は二人の大切な歴史、
 夫々の生き方を尊重し合いつつ歩んだ道程だった。 
 お互いにこの人のために生まれて来たのだ
 ということを実感するのであった。
 後、どれほど共に生きられるのか。
 「ありがとう」と言って別れよう。
 生かされて生きる身、感謝のうちに過ごしたいと願っている。

と結びました。あと、どれほど…と書いたのですが、それがわずか二週間ほどであったとは、月並みな言葉ですが、神ならぬ身の知る由もないことでした(後略)』


帰りしな、峯山さんは僕に向かって、
「これからも小樽をよろしくお願いしますね」と言った。
そういう言われ方をしたのは、僕が小樽にやって来た当初、僕と入れ違いに故郷兵庫県に帰った舞踏家の小島一郎さん以来だった(長年に渡り小樽の魚藍館と海猫屋を拠点に北方舞踏派として活動。村松友視「海猫屋の客」のモデルにも)。

残った僕とFさんは、運河保存運動の実行部隊の勇、小川原 格さんの藪半でしばし蕎麦屋酒に興じた。

「扉は閉じられて」のあとがきは、
ご主人の巌さんが書く約束だったという。




邂逅。峯山冨美さん1

運河

元小樽運河を守る会会長の峯山冨美さんは、16年前に横濱から小樽に移り住んだ僕にとって、最もお逢いしてみたいと願い、これまで叶わなかった小樽人である。

小樽のカメラマンで、運河の保存運動やその後のポートフェスティバルに関わっていた志佐公道さんが、数年前のある日、峯山さんの著書「扉は閉じられて」を貸してくださり、一気に読了して以来、その思いはさらに深まっていた。

60歳を過ぎてから、小樽の一市民として運河に関わり、その功績が讃えられて今年の日本建築学会文化賞を受賞した峯山さん。“小樽運河と石造倉庫群の保存に関わる市民運動を通して小樽都心部の復興・再生に貢献した業績”(同賞の受賞理由から)。

峯山さんは今年94歳で、渋谷区広尾の私の父方の祖母と同じ年である。お名前の冨美は、字まで含めて私の母とまったく同じである。そんなごく個人的な理由までが、峯山さんへの思いを高めていた。その峯山さんとお逢いして、食事を共にしながら、ゆっくりお話を伺う僥倖に惠まれた。

昨日、3泊4日の入院から事務所に戻ると、ちょうど一ヶ月前、札幌のおでん屋「小春」のカウンターで偶然隣り合わせ、ご一緒していた北海道テレビのSさんから紹介された、札幌市清田区地域振興課のFさんから手紙が来ていた。11月4日に自らの企画で講演をお願いしている峯山さんとの最終打ち合わせのために小樽に赴く。先般小春で星野さんが峯山さんへの思いを語られているのを思い出したので、よかったら打ち合わせ後の食事に同席しないか、との文面だった。それはまさに昨晩のことだったので、僕はその場で手紙にあったFさんの携帯電話に連絡した。

小樽に戻り、病院で点滴を受けてから再びFさんの携帯電話を鳴らすと、打ち合わせを終えて峯山さんの行きつけの寿司屋「みよ福」にいるからどうぞとのこと。Fさんは小樽商科大学の出身で、峯山さんとの出逢いは30年前にさかのぼると聞いていた。

僕は、背筋を伸ばし、大きく息を吸い込んでから、みよ福ののれんをくぐった。




入院考。

保証牛乳1

さっき、廊下から不思議な男の声が響いた。
「ほぉ~~しょぉ~~~、ぎゅううううにゅううぅぅぅっ~」
一瞬自分がどこにいるのか分からなくなるような感じだった。
二十年以上前、まだ北海道を旅してまわっていた頃。二股ラジウム温泉の湯治部屋に泊まっていて、突然、宿の中、珍味を売り歩くおばさん出現にびっくりしたことがあるけれど、今朝のは「保証牛乳」の牛乳売りのお兄さんだった。これがなかなかの名調子なのである。「竿やー、竿竹っ!」のマイナー調とでも言おうか。

僕は今、小樽の病院にいる。昨日、内視鏡による大腸ポリープの切除手術を受けたのだ。5年ほど前にも同じ経験があるが、そのときは術後に下血して入院が二週間に延びた。そのお陰で、今も通っている小樽の床屋「バーバーカナモト」の奥さんの葬儀に出席できなかった。

三十歳の頃、東京の広告代理店時代には、多忙心労によるストレスから、急性胃腸炎で一ヶ月弱入院した。それまで父が直腸がんで入院していた病院だったが、父の退院後、入れ替わるようにして僕がお世話になった。持ち直していた父に、今度はお見舞いされてしまった。これが入院の最初で、一回目の大腸ポリープが二度目の入院である。

父を腸のがんで亡くし、自分も二度目の腸のポリープ切除。大概のことにはいい加減な僕も、こと大腸に関してはさすがに臆病になる。当初、開腹しないので簡単に考えていた内視鏡手術も、下血によって続けざま二回にわたるとなると楽ではない。その度に絶食し、下剤を大量に飲み、腸を空にして、もう手術してもいいか看護士さんにトイレを確認される。術後は腸内に送り込まれた空気のために、腹が張って張って、中には嘔吐してしまう患者もいるようだが、僕も何せこれが苦しくて、口から胃が飛び出そうになる。たいてい一日使い物にならない…。とそれなりの苦痛緊張も強いられる。今回、検査のときよりも大小相当数のポリープが発見されたそうだが、手術では隠れていた大物伏兵も含めて二つ切除した。怪しさの解明は二週間後となる。

痛恨の「入院」は母だ。北海道と神奈川で離れて生活していた母が、昨年8月、幻覚幻聴に端を発して認知症の診断をされた。横須賀の病院の精神科に母を連れて行ったが、9月の半ば、3回目の通院にして、母はそのまま入院させられてしまった。もはや一人暮らしを出来る状況ではなかったので仕方なかったのだが、病院の二ヶ月半で、母の病状は呆れるほど進行してしまった。

内蔵疾患や外科のそれと違い、認知症患者と病院の相性は非常に悪い。
当然のことながら、病院は治療診断の場所であるけれど、認知症患者に必要なのは“生活の場”だ。現在母は小樽の認知症患者施設¬・グループホームに入所しているが、もうほとんど一人息子の僕を分からない。春先の転倒骨折で自力歩行も、自力の排泄も不可能になってしまった。あの時、僕の家とは言わないまでも、横須賀の病院ではなく、最初からグループホームで生活させてあげることが出来ていたら。これは悔やまれる。自分を責める。責めざるを得ない。横須賀で入院した当初、幻覚幻聴以外には、母はまったく今まで通りの普通の母だった。母は来月から後期高齢者の仲間入りをする。

昨晩久々に受けた点滴で、デザイナーのSさんを思い出していた。
僕が北海道に渡ってから、もっとも仕事をし、言葉を交わした人だった。
僕の母と同じ、昨年夏あたりから不調を訴えていたにもかかわらず、大の病因嫌いで、この三月に初めて病院に行き、わずか三ヶ月で散ってしまった。
大きな病院に見放されてからは仕事場に戻り、点滴を抱えている彼と何度か打ち合わせをした。そうした生活を貫くために、点滴の針を彼の身体に刺す技術を奥さんは短期間で習得した。56歳の誕生日までは、が合い言葉だったけれど、残念ながら叶わなかった。

終末医療の病室。亡くなる数日前に見舞った時、発病後初めて彼はベッドに横たわったままの姿を僕に見せた。ほとんど話せなくなっていたSさんは、
「ごめんねえ、ちゃんと聞いてるからね。ごめんよお」と声を振り絞るように言った。僕は彼の頭越しに、彼の奥さんとバカ話をしてみせた。


「ほぉ~~しょぉ~~~、ぎゅううううにゅううぅぅぅっ~」

嗚呼、まだいたんだ。入院のさまざまな記憶とない交ぜになって、牛乳屋のお兄さんの声は、どこかの田舎の葬列にこだまする哀歌のよう聴こえた。


十月の一平3

一平お玉

あんなに混んでいたのに、午後十時を過ぎて一人減り二人帰り、気づくと客は僕だけになっていた(あれ? 一平は十時までだったかも)。つめて座って10名程度のくの字のカウンターの中で、移動距離こそ短いけれど、しびれる台詞で客と言葉を交わしながら、てきぱきと動き回る谷木さん。

かなりの常連で、店主と心安く口をきいている客でも、年配から若者まで男女とわず、皆ある種の敬意を谷木さんに払っているのがよくわかる。うらやましいほど懇意なのが伝わる会話を交わしている客はいても、俺は客だ!的な無粋なタイプはまったく見受けられない。むしろ、客の方から谷木さんに好かれたがっているような、あるいは、最近こそ丸くなってきたものの、無礼な人間であればたとえ客であろうと追い出してしまうような強面の職人気質に出逢いたがっているようでもある。

だから客は、店主よりも先に、店主の仕事と語り口にしびれてしまっている。そこに僕は、僕同様に、江戸気質の蝦夷っ子店主に惚れている常連の想いをみるのだが…。

一平流氷大根

谷木さんが店じまいを始めた。それは、明日へ向けた仕込みの始まりでもあるようだ。さっきまで、客への嫁入りをじっと待っていた様々なネタはどこかにお引っ越し。鍋の中は、オホーツク海の流氷みたいに、ざまあみろの大根で埋め尽くされていた。





十月の一平2

一平褄大根

「ざまあみろ」の大根の面取りで生じた半端を、刺身のつま状に切った奴に自家製ポン酢をつけただけのつまみ。一平では、そんな一品が滅法うまい。それだけで酒が飲める。

「もっと凄い」と言っていたのは、見たこともないようにぷっくり太ったボタン海老で、エビ味噌をベースに仕立てた谷木流ソースが、確かに自画自賛するだけのことはある超逸品だった。

お分かりのように、これらはどちらもおでんではない。谷木さんがかつてよく言っていた「別口」とは、常連のみぞ知る、おでん以外のネタのことである。一平の場合、おでんだけで充分驚愕の味覚に出逢えるのに、たたみかけるようにこの別口が至福へと誘う。 大根の“つま”は和の世界だけれど、ボタン海老に至ってはフレンチの香りすら感じさせる。

一平銀杏卵

季節の入り口に突入した銀杏。注文後に出汁に投入する、食する時点で半熟の卵。こっちはどちらもおでんとして供される。もうこのあたりで僕は、完全にしびれっぱなしだ。

さて、締めに向かう。小鉢に盛りつけた上から熱いだし汁をかけると、ふぁ~っと茶色から鮮やかな緑色に変貌する、大好きな「わかめ」を所望すると、「仕入れてはあるけど、ちょっと季節的にきびしいから今日のはやめときな」と言われた。店主にそう言われちゃ仕方がない。

一平落葉

代わりに店主が選んでくれたのは、これも“ 走り”の落葉キノコだった。おでんの出汁仕立てと、おろしポン酢の二役で登場。まったりとあっさりの落葉の饗宴に、ぼくのしびれもピークに達したのだった。

(今回、写真がうまそうでなくてスミマセン。しびれていたので…)





十月の一平1

一平箸

札幌市の中央区南3条西3丁目、克美ビルにはおでんの名店が二軒ある。ビル二階には、先にも書いた「小春」。先日六十周年を祝ったばかり。創業からの女将は、87歳で元気に今日も店に出ている。

数年前に五階に越して来たのが「一平」。
12年ほど前に雑誌の取材でお邪魔して以来なにかとご縁のある、僕にとっての究極の店のひとつだ。究極の店だと僕が宣うということは、つまり、店の主人に惚れているということだ。

一平に出逢ったおかげで、おでんの底知れなさを知ることができた。主人の谷木紘士さんを知っていたおかげで、江戸の庖丁職人にそば庖丁を作ってもらうことができた。一平を紹介したおかげで、輪島の漆器作家とのご縁がより一層深まった。

昨日の午後七時前頃にふと、一平のカウンターにいる自分の映像が浮かんだ。その直前に起きた、あるきっかけがそうさせたとも言えるけれど、二時間後に僕は、谷木さんの目の前に独りで座っていた。


一平のカウンターに座ってまず、この春に東京亀戸の「吉實(よしさね)」の吉澤操さんを訪ねたことを店主に伝えた。かつて僕のそば庖丁を作ってくれた人である。つまり、そのくらい、一平にはご無沙汰していた。

一平の谷木さんは、この職人仲間をミサオちゃん、と名前で呼ぶ仲だ。お祭り野郎の谷木さんは、一見さんが担ぐことのできない浅草三社祭の神輿を、吉澤さんを窓口にもう長いこと担ぎ続けている。春先に一平を訪ねると、たいそう体力と気力を必要とする三社祭に備えて「今年も腕立てをはじめたよ」なんて言っているのを何度も聞いている。

最初に大根を頼むと、
「すげえんだよ、この大根が。ざまあみろって感じさ」
いきなり谷木節が炸裂した。

一平初心者の頃、うまいうまいを連発していた僕の帰りしな、

「おいしがって食べてくれてありがとうな、嬉しかったよ」

と言った、その谷木流の言い回しに僕はしびれた。だから昨晩もいきなりしびれてしまったのだが、しびれついでに言うと、「しびれる」という表現も谷木ボキャブラリーの代表的ひと言で、昨晩も「今日はさ、実はもっと凄いのがあるんだ。自分で仕込んでいてまいっちゃったよ。そんなんとは比べ物にならないね…しびれるぜ」。そんな用法である。

一平舞茸

大根の次に、隣のご夫婦に薦めていた舞茸を、僕の意向も確かめずに、そして僕の顔すら見ずに、僕の方にもそっと差し出してくれた。このような間合いにも僕は弱い。

「これだけの上物はめったにお目にかかれないね。それ全部、手で裂いたんだ。なかなかそんなきれいに裂けるもんじゃない。手間かかってんだから。手の皮向けちゃったぜ。置いておけば置くほど、出汁がしみ出してくるから」

おお、なんという香りと出汁の奥深さ!

今宵、ふたつめのしびれだ。

(携帯カメラのピントがうまく合わなくて…悪しからずです)

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