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2008-12

正しい晦日3

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大奥様は若く美しく、とてもおばあちゃんをやっているようには見えないし、魚屋の香りではない。また、若旦那はめっぽう男前で、その出で立ちからしても、物腰によっても、どちらかと言えば「さしずめインテリかい?」と尋ねたくなるような、これまた魚屋さんの風情ではない。

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若奥様は、大きな声を出しながら旦那との阿吽の呼吸で、いつもたくさん勉強してくれる。大胆にしゃべりながらも、常に八方気を遣っている。でも、そのあたりを除けば、背がすらりと高く、顔立ちもはっきりくっきり、やっぱりどーも魚屋さんらしくないのだ。

そんな訳で、年に数回しか逢えないけれど、築地もアメ横もない、むしろどちからかと言えば寂しげな小樽の年の瀬は、いつでも斉藤さん一家のお陰で、「嗚呼、そうなんだよ、これが年の瀬なんだよ」と、がぜん活気に満ちた感じに盛り上がって来ちゃうのである。

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正しい晦日2

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小樽は入船市場の斉藤鮮魚店も、私の晦日の定番経路である。

最初の頃は「地元民の多い地元の市場」と言われて、もっぱら南樽市場を利用していた。早く小樽人になり切りたくて、晦日と言わずしばしば足を運んだけど、どうしても地元民に見られない。「お客さんどこから?」「え、小樽だよ」「うそだあ」なんて塩梅だ。さすがに16年も小樽市民をやっていると、もう意識するまでもなく、ネイティブ化は自然と計られたようなのだけれど、年々観光客が増えてきたのと、行きつけのこれぞの一軒に出逢えず、河岸を変えた。

ある年、すんばらしいマグロと、いたって気持ちのいい店主に出逢ったのが入船市場の斉藤さんだった。

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以来毎年12月30日にはよほどの事がない限りは斉藤さんを訪れる。最初はスーパーの安い刺身を買い揃えて後、一点豪華主義的に斉藤さんのマグロを奮発していた。でも近年は、その他の魚もこちらで入手するようになったし、晦日以外にも、東京方面から客人が来るときなどの御用達になった。

横濱から小樽に移り住んで来て、会社員をやっては勤め先のトップと衝突すること数回。その度に無職に身を落としてはハローワークに通い、失業手当をいただいた。北に逃げ延びる犯罪者気分で爪に灯を点す生活を繰り返して来た事を考えれば、小樽生活十七年目にして、わずかでも生活レベルが向上したのだろうか…。ちょっとだけ、感無量。


正しい晦日。

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この店で正月の餅を買うたびに、正しい年の瀬の正しい自分を感じ、これからは毎年恒例と思いつつ、365日後には心構えが足りずに買えない年も多い。申し訳ないが、値段もやっぱり●トーの切り餅とは違うのだ。

ツルヤさんは小樽の正しい餅屋で、今年は伸し餅(定番とよもぎ)と豆餅を購入した。予約もしていなかったし、予算的にもお供えまでは手が出なかった。ただし、伸し餅を買えない年でも豆餅はマメに買っている。ずしりと重いのに柔らかく、車で自宅まで戻る間にどうしてもつまみ食いしてしまうのは、これだけは恒例行事だ。

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ツルヤさんの敷居を跨いだ暮れは、何となく良い年を迎えられそうな気分になるから正しい店とは偉いものだ。

道すがら、私の花見スポットであり、小樽港を見渡せる雪の平磯公園に車を停めて、ツルヤさんの豆餅を頬張りながら、しばし「忙中に閑」の物思いだ。



すべてのことについて

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かんしゃしなさい

酉の市で思い出したこと3

リーフ2ブログ

『地の酒、地の酉(とり) まる田(屋号)七番蔵』
この店名の書を書家である母に依頼した。

メール環境どころかファックスもない横濱の母と、小樽札幌から何度も何度も電話でやりとりしながら、イメージの舵取りをして、何とか書き上げてもらった。

自分の母親とはいえ、それなりの書家なので、あまり勝手に「作品」をいじる訳にもいかないのだが、送られた書をパーツとしてとらえて、デザイナーと一緒に縦横の「ロゴ」風に仕上げた。

それらを用いて、開店告知のちらし、常用使用のリーフレットから店内のお品書きまで、さまざまな印刷物を作った。リーフレットや品書き中の手はホシノの出演によるもので、つまり、これでも私、企画、演出、コピー、助演、プロデュースとチャップリン並みの奮闘をしたのであります(笑)。

七番蔵の入り口。
無垢の分厚い一枚板に彫り込まれた店名の看板は、なかなかの感動ものである。

当時は、北海道と横濱に離れて暮らしており、今度こちらに来た時にね、なんて母と話していた。ところが、札幌の酒亭に誇らしげに飾られた看板を一度も見ることのないままに、母は昨年夏に認知証の診断を受け、二の酉の数日後、酉の市の熊手と一緒に小樽の施設に連れて来られた。現在ではひとり息子の僕をも認知できない状態になってしまっている。この書を手がけたのはわずか五年前のことだというのに…。


酉の市で思い出したこと2

リーフ1ブログ

何百年の酒蔵ひしめく灘などは別格として、歴史の浅い北海道の中でもっとも古い酒蔵のひとつが、創業百三十年を迎えた栗山町の小林酒造だ。

今から十三、四年前。
雑誌の仕事で小林酒造を取材した際、立ち会ってくれた四代目(当時、専務だったか…)が僕の文章を気に入ってくれた。お互い蕎麦打ちが趣味だったりで意気投合し、札幌で酒を呑んだりもした。

「いつか、蕎麦屋酒の出来る店を作ってください」

の僕の言葉を受けて、

「その時が来たら、ホシノさんの力を貸してよ」

そんなやりとりがあった。

何年か後、小林専務は四代目を継がれた。その若き四代目から五年前の春、店をやることになったよ、とお電話をいただいた。秋の開店を目指して、店名を考えるところからつき合ってくれ、と。僕は心躍った。

小林社長のリサーチの結果、北海道は日本最大の蕎麦産地にして、『北海道の蕎麦」は最高のブランドではあるが、北海道ではお江戸東京のように“蕎麦屋で一杯”の文化が根付いてはいない。だから、北の錦(小林家の酒のブランド名)の直営店は蕎麦屋ではなく、北海道の地鶏で北の錦をたしなむ店になった。

小林家の赤れんがや札幌軟石の明治大正昭和の蔵が連なる様は、栗山町を代表する風景として知られている。そいつが、一番蔵、二番蔵…そして六番蔵まで。その北の錦が札幌に第七番目の蔵(直営店)を開いた。地鶏には地酒を。

そうしたアイデアによって、店名は決まった。
『地の酒、地の酉(とり) まる田 七番蔵』


酉の市で思い出したこと1

ちらしブログ

昨年の11月は、横須賀に入院していた病の母を小樽に連れて来た月だ。8月お盆から何度も帰省して、ようやくすべての移送の段取りをつけ、用意万端乗り込んだ。

ところが迎えに行く少し前に転倒骨折した母は、容態が悪化してとても飛行機による移送に堪えられる状況ではなく、回復するまで僕は横須賀に足止めを食ってしまった。今日か明日かと日延べをしているうち、滞在は三週間にも及んだ。

滞在中に酉の市が二回訪れた。
一の酉の11日日曜日は浅草鷲神社へ、二の酉の23日金曜日は横濱の金比羅様を訪れた。

今年の酉の市は三の酉まで。三の酉まである年は火事が多いとか言われる。昨年を思い出して、そんなことどもに思いをめぐらせながら、お酉様に行きたいなあなんて思っているうち日々に紛れ、師走も一週間が過ぎていた。二の酉の横濱では、数日後に迫った母の移送のお守りのような気持ちで、小さな縁起物の熊手を手に入れたっけ…。


先日五周年を迎えた札幌の『七番蔵』。
店名のネーミングから、ロゴ作成、さまざまな印刷物のコピーライト、企画制作にまで携わった北海道夕張郡栗山町の造り酒屋直営の酒亭なのだが、フルネームで記載すると『地の酒、地の酉(とり) まる田 七番蔵』となる(まる田とは、酒蔵小林酒造の屋号)。

『地の酉』とは地鶏のことを表現したのだけれど、お気づきの通り「酉」の字に“さんずい”をつけると酒になる。

そして「酉」には、その文字自体にも酒、あるいは、
酒を醸す壷、などの意味があるのだ。

酒を呑みたくなる頃合いの時刻や方角のことも表すし、
そしてもちろん、トリニクの鶏の意味も持っているすぐれ文字。

そうしたすべてを掛け言葉というか、
ウチに秘めたほのかな想いというか、
そんなことに託して採用した訳だ。

その店の命名に『地の酉』としていたのは、朝顔市、ほおづき市、羽子板市、酉の市などのお江戸の祭りを愛してやまない僕の嗜好とやはり無関係ではないと思うのだ。


創業四十一年、樽を知る。

樽41周年

小樽在住十七年目に突入した酔いどれのボクが、小樽で最も愛すべき酒場は? と問われたら、まず「樽」と答える。呑み屋でも居酒屋でもない。どうしても、酒場と呼びたい。その樽が、昨晩四十一周年を迎えた。今日からは四十二年目。

一番最初は、小樽の写真家、志佐公道さんに連れて来られた。もう六、七年前になるだろうか。僕自身は分かってくれそうな人にしか教えてあげない。最近では、僕を峯山冨美さんと引き合わせてくれた清田区地域振興課長のFさんや陶芸家のEさん、家具職人のMさんをお連れした。そのとき、十二月一日に周年披露があるからぜひ、と店主の中嶋さんに初めてお誘いを受けた。

中嶋さんは東京生まれの東京育ち。高校を卒業後、二年ほどぶらぶらした後、二十歳で小樽商科大学に入学するために小樽に来た瞬間から小樽に惚れ込み、在学中からこの店をはじめた。小樽っ子の奥さんをめとり、間もなく50年になる。


何年か前、午前三時過ぎだったろうか。
ほかにお客はいなかったっけ。
つまり、もともと小樽っ子ではないふたりになった。

お互いだいぶ酒もまわり、
ひとしきり映画談義に花を咲かせた後、
うっとりしたような目つきで中嶋さんが言った。

「ねえ ほしのさん
 ほっかいどうっていいよね
 おたるっていいよね」

端正な顔立ち。おだやかな語り口。今でも小樽と映画が大好き。



午後七時過ぎに樽を尋ねると、いかにも年季の入った常連が席を埋めていた。カウンターの上に小樽の酒、北の誉の一斗樽。無造作に投げ込まれた二本の柄杓(ひしゃく)。中嶋さん手作りの鰊漬けと奥さんが作った切り干し大根の大皿。それが昨晩のすべてだ。鰊と切り干しは少し減るたびに大鍋からつぎ足される。

入り口から一番奥のカウンターの端に、自分で樽から注いだ升酒をたずさえて腰を下ろす。小鉢に盛られた塩を升の隅っこに載せて、中嶋さんにお祝いを言って口をつける。切り干しと鰊漬けを頬張る。そうしているうちに、次々に先輩常連たちが一升瓶や金一封を手にして扉を開ける。

どう切り上げても切り捨てても、僕が一番の若輩者(単に年齢だけでなく)であり、今宵は一人きり、先輩のお供でもないので、僕は三十分強で席を立った。他の店ならこんな気遣いはしない。無粋なボクが自然にそのようにふるまってしまうのは、やはり店の力だと思う。

よい店は、「樽(足る)を知る」ことを教えてくれる、ということだろうか。


これから長い歳月、
通って通って通い詰めた頃、
もう少し平常心で諸先輩と肩を並べることができるかも。

それまで中嶋さん、
樽をずっと続けていてくださいね。





霜月の同級生。

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先日、一枚の絵葉書が届いた。

葉書の送り主は、横浜市立本町小学校で同級だった人で、インターネットと戯れているうちに、偶然僕の会社のホームページ、そしてそれをきっかけにこのブログにたどり着いたと言う。卒業以来、逢ったこともなく、名字に見覚えもなかった。送り主も「もしや、あの、ホシノくんでしょうか?」と。

こちらも葉書を返して、紛れもなく同級生と判明した。十二歳で卒業として三十七年。僕らが二年生から六年生まで同じクラスだったなんて、言われるまで忘れていた。それどころか、父の勤め先や、母が書道家だったなんてことまで覚えてくれていただけでなく、当時僕が教室で西郷輝彦や尾崎紀世彦の歌を歌っていたとか、中でも驚いたのは、昭和四十五年の十一月二十五日に、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げた翌朝、クラスの誰も聞いちゃいないのに、一人興奮してそのことを教室で話していた、そんな記憶まで披露してくれた。

昭和四十五年は、十一歳。おそらく小学校五年生のはずで、今から三十八年前ということになる。当時僕の家は読売新聞をとっていたのだが、翌朝の新聞に、同志から介錯を受けた三島の頭部の写真が掲載され、賛否の嵐となった。僕はそれを見てしまったために、たいそう興奮していたと思われる。それは覚えているのだが、五年二組の教室で、昭和四十五年の十一月二十六日にそれをまくしたてた記憶はぜんぜんなかった。

三十七、八年も前の、自分でさえ覚えてない出来事を、鮮明に覚えていてくれた存在。しかも、携帯も、パソコンも、インターネットも、どうもね、性に合わないから、と常々表明してきた自分に、そうした所謂“IT革命”なしには、北海道と横浜という距離以前に、一生なかったはずの、その存在との突然偶然の「再会」が訪れた。口惜しいかな感動した。いや、そんな簡単な表現では足りないほどの衝撃を受けた。

そして、その存在。同級生という甘酸っぱい響き。
小中高の頃の同窓会というものにおよそ縁のなかった僕が、(一浪一留しているが)卒業二十五年ということで、先月末、大学の集まりに顔を出してきた。それと前後して舞い込んできた一枚の葉書。今年は、というか、自分も「ふり返る」年頃になってきたということなのか…

敬愛する漫画家、柴門ふみさんの言葉を思い出した。
「テニスも将棋もファミコンも、同じ程度の技の相手とやるのが一番面白い。実力伯仲、切磋琢磨して五勝五敗。これが一番おもしろいのです。最初から相手の手の中、または、徹頭徹尾優位にコトのすすむ勝負に何の面白味がありましょう(『同級生』あとがきから)。

特に学生の頃、女子は男子なんて子供っぽくて相手にしてくれない。大人になっても年上のオジサンに憧れ、若い男も激しく年下の少女や逆にお姉さんに走るのは、勝負を逃げていること。恋愛は、対等の同い年同士のぶつかり合いが一番面白い。が持論の柴門氏の文章。たしかに、五十を目前にして「再会」する同級生はちょっと感慨深い(物理的には逢っていないけれど)。

おとといの土曜日。
連載を持っている雑誌の取材で、7、8人の小学五年生の取材をした。その時の写真を整理しながら、ふと思った。
活発で素直でにぎやかな小学五年の『同級生』たち。
昭和45年11月25日の憂国忌から38年。
僕が、誰も聴いていないのに三島のことを話していた朝は、38年前の11月26日であり、僕の同級生は38年前の僕の戯言を鮮明に覚えてくれていたことになる。
昭和45年11月26日のホシノケイスケの朝を覚えてくれている人は、どう考えても、世界中探し回っても、この人をおいては他にいないと思う(まあ、母親とかは除いて。僕は一人っ子でもあるし、尚さら)。土曜日の小学五年生たちの中に、平成20年11月29日の同級生の言動を愛情をもって見つめ、何十年ものちになって、記憶している子がいるだろうか…


去年の十一月二十六日は、母親を横須賀の病院から、小樽の施設に移送した日だった。


今日から師走 ―。




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