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2009-04

彼方へ。

祭壇

誰も知らない土地で息をひきとった母の葬儀だから、自分だけで見送るべきだろうと思っていた。けれど、事務所の面々がてきぱきと僕の仕事関連の名簿を中心に、関係各位に訃報を流してくれたようで、それはありがたく任せ切りにしていた。

4月24日木曜日、通夜の日。仮通夜でも一睡も出来ず、朝からもうろうとしていたが、その日中に役所に死亡診断書を届け、火葬の許可証をもらわなくてはならなかった。出かけようとしていると、次々とチャイムが鳴る。弔電。献花。

多い時にはなんと4、5台の花屋さんの車が拙宅の玄関に横付けになった。花に添えられた送り主は、東京時代から北海道移住に至る僕の勤め先だった会社、その関係筋、親類、現在の取引先、その関係筋、友人…弔電も同様。にわかには信じがたい光景だった。

和室には、一年半前に横須賀から送った母の荷物がいまだ荷解きもせぬままに満載で、仕方なくリビングに母を寝かせていた。そこに次から次花が運び込まれ、とうとうソファなどの家財道具を外に出すしかなくなった。さいわい、事務所のロケ用機材車でスタッフが応援に来てくれたので、膨大な家財をその中に収容した。

通夜にはいったいどれだけの人が来てくれるのだろう。
この弔電、献花の意外な状況である。3人なのか30人なのか、見当もつかない。

やがて午後6時の通夜に向けて、助っ人のほかにも、現在のごく身近な仕事関係者が数名訪ねて来てくれた。先日、雑誌連載の取材でお逢いしたばかりの高校の先生が来てくださったのは、とても意外でありがたく恐縮した。でもだいたい、このくらい。もしもの時のために借り集めた座布団は随分余ってしまうだろう。

ご住職がいらして、読経が始まる。
講話を伺ってから、葬儀社の付添人の方に頼んで、喪主である僕の挨拶へ水を向けてもらう。いくら少人数の自宅葬とはいえ、母を知らない方々ばかりが集まってくださったのだ。ひと言だけ、事情と御礼を述べさせてもらわねば。

誰も知らない土地で母を送る心苦しさもあったが、母をまったく知らぬ人々にご案内するのも気が引けていた。だから、自分だけで見送るべきだと考えていた。一方で、自分にしか送ってもらえない母を侘しく思う気持ちもあった。

正座にしびれた足で立ち上がり、参列者をふり返ると、いつの間にか人数は意外なほどに増えていた。一番後ろの方に、この場にいるはずのない東京の友人の顔が見えた。15年間、何度誘っても一度も忘年会に来てくれなかった札幌のカメラマンがいた。なかなか仕事には至らないのに、花見や忘年会にだけは皆出席の小樽の写真家の姿も。手狭なリビングは、夢みたいにたくさんの花の数々であふれかえっている。

ご縁をいただいた皆さんのおかげで、ようやく母を送る肩を押してもらった気がした。四半世紀にわたるお付き合いの証しのような、僕を支えてくれたほとんどすべての名前が、献花に電報に、そしてこの場に集ってくれていた。それが、実に、僕自身の力になっていた。

件の東京の友人は、午後6時ギリギリにここに到着し、明日朝一番、午前6時小樽発のJRで空港に向かい、いつも通り新宿御苑の店を開けるのだという。一昨年までの3年間、彼は毎度僕の内モンゴル行きに付き合ってくれた男で、その頃から始まっていた母の闘病の話を旅先でも話していた。

「ずっと話を聴いていながら、何にもしてあげられなかったから、せめて線香をあげに来たよ」と彼は言った。

そのとき、訃報で母のもとに駆けつけて以来、不思議に一度も流さなかった熱いものがこみ上げて来た。



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幕切れ。

自由の夜明け

母を札幌市手稲区の渓仁会病院の検査に連れて行った翌々日、正確には日付けが変わった23日木曜日の午前0時40分頃、施設から電話が鳴った。珍しく早い時間にベッドに入っていた。

施設のケアマネージャーが動転した声で言った。
「ふみさん(母の名)の様子がおかしいんです。なんか、息もしていないみたいで。あ、先生がみえたので替わります」
「○○(内科医の名)です。もう亡くなってます」

午前一時過ぎに母のもとへ。急性心不全とのこと。
この一年半の母の世界のほとんどすべてだった施設の六畳の部屋で、僕はひとり母と朝まで過ごした。午前4時から5時にかけて、目前に広がる広くて深い闇の中から、小樽の海がゆっくりと浮かび上がって来た。

横須賀の病院からこの認知症専門施設グループホームに連れて来た当初、母はすでにここがどんな場所か正確には理解しておらず、圧倒的に窓外に広がる日本海をただただ喜んでいた。言葉の断片から察するに、おそらく僕が母のために建てた新しい一軒家と思い込んでいたのだろう。

いくら飲んでも酔うことなく迎えた23日木曜日の朝、僕は母方と父方の親族に電話をかけ、小樽で葬儀を執り行う許しを得た。ほとんど東京に集中する親類たちには、神奈川県三浦海岸にある父の墓に納骨する際にご案内させていただくから、と。

どこに立ち寄ることもなく、横須賀の病院から小樽のこの施設に直接やって来た母には、北海道小樽にはただの一人も知り合いがいない。もちろん、お世話になったホームの方々を除いては。

そんな土地で母を荼毘にふすのは申し訳なかったが、こればかりはいかんともしがたかった。


風にそよぐ藤の…

藤

母の旧姓は藤尾という。

漱石の虞美人草にも藤尾なるプライドの高い女性が登場する。こちらは名前のはずだが、昭和8年生まれの母も気位の高い人だった。

19年前に父が他界して以来、母は横濱で一人暮らしを続けて来た。平成16年11月に父の建てた家を処分したときも、ひとり息子の私がいる小樽に身を寄せることはかたくなに拒否して、横須賀のマンションに移り住んだ。平成19年のお盆に幻覚幻聴が出たと私が気づいた時には遅かった。9月に精神科に入院してはじめて、マンションの住民の証言で、そこに住み始めた当初から怪しい言動があったことを知る。情けない話だ。

二度と一人暮らしには戻れない。
そう言われて、現実が襲いかかる。

平成19年11月、横須賀の病院からやっとの思いで小樽の施設に連れて来た時、母は物理的には自分の近くに来てくれたが、私の中では母を失った想いが強かった。かつての気位の高い母はそこにいなかった。ただ、わずかばかりの安堵感があった。

平成20年、昨年の4月、そうした束の間の安堵を突き破るように、母が施設で転倒して大腿骨頸部と肩を激しく骨折する。大々的な手術の後、母は目に見えて歩けなくなり、急速に日常生活のモロモロが出来なくなった。

それでもまだ昨夏は、母が自力で食べ物を口に運ぶのを見た気がする。夏から秋へ、秋から冬へ。母は歩くことは愚か、自分で食べることも、用を足すことも、歯を磨くことも出来なくなった。
それと平行して、どんどん一人息子の私のことを分からなくなって行った。私はふたたび母を失った気がした。

平成21年3月。精神科の主治医から、咀嚼の能力が著しく低下して来ているので、ほど近い将来に口からモノを食べられなくなる。身体に通した管から栄養分を吸収させるしかなくなるだろうとのこと。それは同時に、医療行為を施すことの出来ない認知症専門の施設、グループホームからの退去を意味していた。

そうした矢先、出張で東京にいた4月の上旬、母がベッドから落ちて医者に担ぎ込まれた旨、私の元に連絡が入る。さらに、大事を取った脳神経外科のCTスキャン検査で、母の脳に水がたまっていると判明した。

この「水頭症」が元で起きる認知症もあるそうだが、母の場合はレビー小体型認知症と言われている。アルツハイマー型だとか、パーキンソン病的症状が現れ出したとか、いまだによく理解できないが、最近は手足に痙攣や萎縮の症状が加わって来た。そこに追い討ちをかけるように新たに水頭症が乗っかって来たのか、ますますよく分からない。


私が小樽に移り住んだ翌年、平成5年春。庭の隅に藤の木を植えた。花が咲いた状態のそれなりに成長したものを園芸市で手に入れたのだ。ところがそれから一度もその藤は花を咲かせなかった。来年こそ、いや、次の春こそ。そうこうしているうちに15年が経過した。蔓は元気よく先へ先へ。木は自作の藤棚が小さく見えるほどに成長し、毎年たくさんの葉が被い茂る。でも肝腎の花が咲かない。

昨春、断腸の思いで藤の木を切った。
しっかり、根こそぎ。
母が転倒骨折した少し後だった。



昨朝、手稲駅前にある渓仁会病院へ。
母の脳から水を抜く手術をすべきか否か。
小樽の病院だけの見立てではと、私の希望で紹介状をもらった。
頭蓋骨に親指大の穴をあけ、溜まった水の行き先のために開腹もするとなれば全身麻酔を伴い、精神状態からも肉体的状況としてもそれなりの覚悟が必要と、医師は合併症などを含めた手術のリスクを語り、後はあなたの決断ですから、と。

検査と診断の長い時間を終えて、外に出る。
久しぶりのおだやかな日差しが眩しく目を細める。
駅前の広場では園芸市が開かれており、その中に藤の苗木を見つけた。

微風に揺れる藤の花房に近寄ったそのとき、突然、眼球の奥のあたりが苦いような渋いような感じに襲われ、自分でも?と思っているうち、想いもよらぬ熱いものが突き上げた。

卒塾式(富良野塾)と僕1

卒塾式

倉本聰さん率いる富良野塾の第24期生卒塾式に出席した。古巣の東京の広告代理店の先輩からも,北海道のテレビ局のプロデューサーからも誘っていただいていたのだ。

大学5年生の暮れは昭和58年。1983年。
僕は文学部演劇専攻というところにいて、卒業論文を学部事務所に提出した。倉本聰さんと山田太一さんを取り上げたテレビドラマ論だった。

1984年(昭和59年)に入社した広告代理店での最初の仕事は、コーセー化粧品の男性ブランド「DAMON」に日本初の男性用メイクアップ商品が登場、そのテレビCMに世界のトランペッター日野皓正さんと共演する若手キャラクターを提案することだった。ぺーぺーの僕は、卒業間際に観ていた、卒論ゆかりの放送作家倉本聰さんの最新作「昨日、悲別で」で衝撃的にデビューした天宮良さんのことを、瞬間的に思い出した。


なんやかやの後に、天宮良さんと日野皓正さんの競演は実現して、その後も天宮さんとはCM撮影現場でご一緒した。

2009年3月31日。富良野塾第24期生卒塾式の会場である、富良野演劇工場の入口付近に立っていたら、当時の僕の上司であり、現在は古巣の社長になっているKさんが入って来た。そしてその後ろから続いたのは天宮良さんだった。

「良くん、こいつのこと覚えてる?」とK社長。
「もちろんッスよ」と天宮さん。

20年以上ぶりの再会だった。

会場には、初めて卒塾式に出席させてもらっている僕でも、知ってる顔がいくつもあった。

倉本関係者御用足の富良野料理店であり、風の色も懇意にさせてもらっている「くまげら」の森本毅さん。50歳で社長をしていた大阪の会社を退いて、クラッシックカーで日本一周をした挙げ句に富良野の土地と人々に衝撃的に出会い、そのまま富良野の住人になり、◯会目の結婚式を新富良野プリンスホテルで挙げた、ガラス工芸のアーティスト、山口一城さん。件のペーペー時代からコーセーのカリスマ的メイクアップアーティストだった荒さん。そして、北海道文化放送の細谷プロデューサー。

新旧の知人が集結しているようでワクワクした。



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