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2009-06

踊るディレクター、踊る。


いろいろ胸の塞ぐことが続いていたので、なんとも幸せな心持ちで樽を後にした。それはどうやら他の三人も同じようで、人気のないアーケードで、4人はなんとなく足でリズムを取るようにして歩いた。

『雨に唄えば』のジーン・ケリーが、どうにも身体が止めようもなくという感じに、土砂降りの中を踊り出した感じはこんなだったろうと思えるくらいに。

そのとき、名古屋では伝説の「踊るディレクター」さとふこふじがはじけた。

踊り1

踊るディレクターが踊っている。

踊り2

たしかに踊っている。

踊り3

こんな奴がいたり、

横井踊り

そんな奴もいたり…

踊り


25年目の夜はふける。


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25年目の夜。

 
ウヰスキー作り1日目が終わった晩、ボクらは卒業旅行のロンドンの夜を再現するために小樽の駅前にホテルをとった。小樽在住の僕がいるのに「わざわざ」である。

ロンドンでふた晩目から泊まった小さな安宿のフロントマンは、自分のホテルにシングルルームがいくつあって、ツインは何階のどこにあるのか、まったく把握していなかった。4人なのでツインを二つか、シングルを四つとオーダーすると、首を傾げてずいぶん悩んだ挙げ句、僕らを従えて歩き出した。多分ここで大丈夫だろう(てなことを言っていたのだと思う)と扉を開けると、なんとそこはベッドが4つのフォースルームだった。

17年前に小樽市民になる前に何度か泊まったことのある小樽グリーンホテルに、確かそんな大部屋があったような気がして問い合わせたら、案の定、フォースルームが存在したので決定した。

荷物を置いて花園へ繰り出す。
すでに余市の懇親会で食べものもアルコールも入っていたので、僕は迷わず最も大切にしている酒場、中嶋さんの『樽』に三人を連れて行った。

樽2

しばらく静かに杯を重ねた後、この4人の素性というか今晩の意味合いを店主に伝えた。だまって様子を見ていたカウンターの別の客人が、

「あんたらいい年したくせに仲が良くて、見ていて実に気持ちがいい。素晴らしい男たちだ!」

と、言われたことのない妙な褒められ方をした。店主の中嶋さんの口からも、

「そんな記念すべき日にウチで飲んでくれて嬉しいよ」

とありがたい言葉が飛び出した。すかさず相棒のひとりが、記念に一緒に写真を撮らせてもらえませんか、と言い出した。中嶋さんが大好きな常連には言いたくても言い出せない台詞をさらりと口にしやがった。でも、そのくらい三人とも心底この店が気に入ったようだったし、中嶋さんも「よろこんで!」と、気持ちよく「4人の」旅人の申し出を了承してくれたどころか、カウンターの内側に招き入れてくれた。

樽

これから長いこと樽に通っても、こうした写真を撮らせてもらうことはもうないだろう。いや、10年後にウヰスキーを受け取りに来たときに、また4人で訪ねよう。それまで中嶋さんには元気にしていてもらわないと。



25年目のウヰスキー4

tasting1.jpg

踊るディレクターとの因縁はただならぬものがある。
件のヨーロッパのときからそれは始まっており、お互い一人旅を目指すのに、離れても離れても出逢ってしまうのである。

最初の街ロンドンを3泊で離れてドーバー海峡を渡りアムステルダムに着いたとき、ボクらはすでにアイゼン&マイちゃんパパと別れていた。飾り窓などの社会見学をしてのち、ボクらが「小窓くん」と呼んだアムスのファストフードをつまみに、巴里行きの長距離列車でワインをボトルのままラッパ飲み、回し飲みしてパリジャンにひんしゅくを買ったのも、まったく読めない巴里のレストランのメニュの前でお手上げしたのも、フランクフルトやベニス、ツェルマットを彷徨したのも一緒だった。次に行きたい街が重なってしまうのだ。

とはいえ、同じ国、同じ街、同じホテルに滞在していても、なんとか別行動をとるのだけれど…

巴里の街並み散策に疲れ、オペラ座に近いカフェの止まり木でビールを飲みながら、入り口の扉の窓から額縁の絵のように見える風景に見とれていると、そのフレームに割って入るように踊るディレクターが現れる。

夕暮れの鐘が鳴り響く中、ザクセンハウゼンに向かってドナウ川にかかる大きな橋のちょうど真ん中にさしかかった時、広い車道を挟んだ反対側の歩道をザクセンハウゼンの街と夕焼けを背にしたシルエットの踊るディレクターが…

このままでは男の旅は出来ん! と、マッターホルンの中腹、登山鉄道の駅で劇的に握手をして別れ、三日ほど独りを満喫してから乗った夜行列車がバルセロナに到着したその朝の駅のホームで…

バルセロナは特に強烈で、駅での再会の後ひとまず一緒に昼食をとった。彼が一足先にバルセを離れポルトガルへ向かうために、その晩の夜行列車に乗ろうとするとストライキで列車は運休。次の夜行にこそ、と決意も新たにした翌日の昼間、バルセロナの銀座通りランブラスで彼はスリ被害に遭い、警察に出頭すると、「まあ、とりあえず明日また来なさい』

ようやく別々の道を歩いて一週間、そろそろ35日目のローマ集合に向けて東を目指さねばと、スペインの某地から出発して中継地として辿り着いたのが夜遅いバルセロナ。これから宿探しはたまらんと、奴と泊まった駅前ビルの二階にあるペンションを訪ねる。「また来たよ!」と主のばあちゃんへの挨拶も早々に荷物を置き、夕食をとりに階下へ。エレベータの扉が開くと、ビルの入り口からホールに飛び込んで来た男は?!


日没の鐘の鳴る中、ゴンドラに乗って The Bridge of Sigh(ため息橋)の下でキスをした恋人は永遠に結ばれるという。ベニスの伝説の橋のたもと。伝説通りの完璧なシチュエーション。ボクのゴンドラの隣に居たのは踊るディレクターだった。そんなこんなで、25年経っても離れられぬ、踊るディレクターさとふこふじ(いまやプロデューサーだが…)。


マドリッドのプラド美術館の玄関先。日本流にいうところの社会科見学にやって来た約100名の地元女子高生とこふじと僕、圧巻100対2で踊り狂ったいんちきフラメンコは死ぬまで忘れることはないだろう。
 
(写真は、まだ誰も知らなかった20年以上前にチリワインの美味しさを僕に教えたさとふこふじ)



25年目のウヰスキー3

tasting3.jpg

卒業後何年かして、旅行のメンバーであり、名古屋の放送局に就職して早々に「踊るディレクター」と異名をとったさとふこふじが僕の部屋に来ていた。

横濱人の僕としては、都内の大学に通うのに下宿という訳にもいかず、1時間45分の電車通学をしていたが、だんだんと地方出身の同級生たちのアパートに入り浸るようになっていった。仕事を初めて2、3年が経過した頃、想像を遥かに超える広告業界の厳しさ忙しさに横濱からの通勤すらきつく、学生時代からの下宿への憧れも相まって、西早稲田の学生街に安アパートを借りた。


築ン十年の木造。共同玄関。共同下駄箱。共同トイレ。天井からぶら下がる鎖の先にホーローの取っ手がついていて、そいつをひいて水を流す、あれだ。

六畳一間。むろん風呂はないけれど,等距離に三軒の銭湯があり、学生街の定食屋はよりどりみどり、安くてうまい。気持ちばかりの流し。風呂に入れないときは,この流しで髪の毛を洗うのだ。

未亡人の優しいおばあちゃんが大家さんで二階に住んでおり、どれだけ世話になったことか。昼なお暗い裸電球のみの廊下をミシミシいわせながら部屋に向かう。真鍮のこれが「鍵」ともいうべき錠前が泣かせた。

僕はこの部屋が好きで好きで、東京に雪が降ると嬉しくて窓を全開にして、会社をさぼって朝から雪見酒としゃれたこともある。


ある週末、そこに踊るディレクターが泊まりに来ていたのだ。
翌朝、後年マイちゃんパパと呼ばれるもうひとりの愛知県民メンバーに電話をかけた。

「こふじが来てるけど、来ない?」

しばしの沈黙のあと、受話器の向こうで異音が響いた。
マイちゃんパパが旅立ちの決意を表明する電気ひげ剃りを始動したのだった。数時間後、僕の安アパートに、もうひとり客人が増えた。

(写真はマイちゃんパパよこいのテイスティング)


25年目のウヰスキー2

tasting2.jpg

2日間の講習と体験を経てウヰスキーを仕込み、10年後に熟成した自分だけのウヰスキーを受け取る『余市マイウイスキーづくり』というニッカウヰスキーの企画がある。

それを最初に聞いたのは、卒業旅行の相棒のひとりで、千葉県在住のアイゼンフカノからだった。昨年10月、出身大学のアニバーサリーで3年半ぶりに彼に東京で会った時のことだ。余市までは車で30分、北海道小樽市在住の僕なら都合さえつけば付き合うと思ったからだろう。

今年のまだ雪のある頃に再び彼から具体的なお誘いがあった時、だったら…と僕は考えた。大学のアニバーサリーとは、まさに卒業25周年を記念する正式行事で、とかくそういったことにまったく興味のなかった僕が、昨年は自ら申し込んだ。どうにも最近、そういう方向に心が向いているらしい。その際にも卒業旅行の4人の再会を目論んだのだが、愛知組の二人がことごとくスケジュールが合わず、アイゼンと二人きり、高田馬場の「鳥安」での再会だったのだ。

今年、僕らは50になる。
25年ぶりに4人が一同に会し、その記念に特別なウヰスキーを仕込む。10年後に再び北海道に集い、琥珀色の液体を受け取るその年、僕らは還暦を迎えている。

どうだい、凄い企画でしょう?

(写真はテイスティング実習中のアイゼン・フカノ)



25年目のウヰスキー1

全景

1984年の2月から3月にかけての42日間、僕は大学の卒業旅行でヨーロッパを訪ねた。初めての海外だった。

最初にロンドンに到着すると1泊だけホテルがついていて、翌日からまったくの自由旅行。ユーレイルパスというヨーロッパの自由周遊券を手に各国をうろつき回り、30何日目に今度はローマのホテルがまた1泊だけ決まっていて、その後は団体でオプション移動、エジプトはギザのホリデイ・イン・ピラミッドで最後の3泊という旅程だった。

僕は1浪1留で気の早い人よりも2年遠回りしており、仲良くしていた連中は1年前に卒業してしまっていた。

そもそも1983年の12月に、文学部(演劇専攻)の事務所に卒業論文を提出したのがヨーロッパ旅行のきっかけだった。同じく卒論提出に来ていた、顔は知っているけれどもほとんど口をきいたこともない留年組5年生の男ども3人と共に、なりゆきで居酒屋になだれこんだ。論文は、実質的に卒業までの最後のハードルだったので、なんとなくひとりぼっちよりも誰かとともに自分を打ち上げてやりたい気分だったのだ。

4人のうち二人は仲良し、僕ともうひとりはそれぞれ一匹狼。二人組は2年前にパッケージでヨーロッパツアーをしていた。それはそれでよかったけれど、やっぱり今度は自由な旅がしたいのでフリーツアーを申し込むつもりなのだと言う。もうひとりの留年の理由は、英語と踊りの勉強のためのニューヨーク行き一年休学であり、3人とも何となく異国のハクをつけているなあ、というのが海外経験のない僕の感想だった。

いずれにせよ、1ヶ月ちょっとして、僕僕らはあの晩の勢いで一緒に申し込んだ件のツアーに参加した。「いいねえ、いってみたいねえ」の社交辞令だけで終わるのは柄ではなかった。それぞれ一人旅志向で、4人はすぐに2人ずつに分かれ、やがてそれぞれのヨーロッパを探しに独り独りになった。ローマの再会まで…。

濃密な40日間だった。
エジプトの不思議時間に至る頃には、いわく言いがたい離れがたさが4人の間にあった。

エジプト航空のエンジントラブルもあり、成田に帰り着いたのは
予定よりも2日遅い、大学の卒業式の前々日だった。

そして卒業式。僕らはその日をもって、いきなり愛知、神奈川、千葉に離ればなれの社会人となった。



それから25年…

その時以来実に初めて、僕らは4人全員揃って6月の余市ニッカウヰスキー工場を訪れた。


翌朝。

三崎港

法要当日。

仲間うちからF先生と言われている大学の友人と、いち夜明けて朝の漁港を散歩した。彼は墨田区の洋傘の職人。近年は百貨店の実演販売で日本中から引っ張りだこである。しかも6月の傘屋はかき入れ時だ。

この日、6月14日日曜日までの一週間、F先生は横濱高島屋で出番がかかっていた。だから、昨晩も横濱でひと仕事終えてから、ひとり遅れて三崎港にやってきた。この朝も、朝ご飯を食べたら高島屋に出勤する。

三崎館前

束の間の旅情を満喫しながら先生も、ここは傘屋旅で訪れたどこぞの港に似ているなんて悦に入っている。早朝の漁港に、作務衣の職人と浴衣に丹前のひげ面は、堅気の人々からはどんな風に見えるんだろう。三十年前に稚内の港でそうしたように、僕と先生はちょっとはしゃぎながら、セルフタイマーでツーショットを何枚かカメラに収めた。

そろそろ宿に戻らないと。
先生は洋傘職人を、僕は法要の施主を務めなくてはならない。



最後の宴。


横濱の実家が消失してしまったので、母の四十九日で上京した最初の4日間はホテルをとっていた。6月9日、10日と、母をホテルの部屋に置き去りに出来なくて、僕はこっそり母を連れたまま、居酒屋の片隅に座り、取引先を訪ね、酒を飲んだ。

ただでさえ飛行機で海を渡り、電車に乗り、東京の雑踏を歩き回り、その二日間であまりの緊張とストレスでやられてしまった。

母は八人兄弟の末っ子で、両親を10歳前に亡くしていたので、長兄の家で長兄の家族と育った。そこで一緒に育ったすぐ上の姉も現在は齢八十になり、14日日曜日の法要への出席も健康上の理由で定かでないという。そのまた上の姉は八十六歳で、都下の特別養護老人ホームのお世話になっている。

だから、母がたの親戚に母を預かってもらう事ができない。
父がたの親戚にそんなことをお願いしていいものか悩んだけれど、心労に耐えかねて三日目から母を預かってもらった。渋谷区広尾のお茶屋さん。父の実家である。私の本籍地でもある。

11日の晩は仕事の関係で、日韓中蒙のアーティストによるチャリティーコンサートに顔を出した。この足かけ5年間、毎度僕の内モンゴル行につき合ってもらっている友人とともに。コンサート終了後、関係者の深夜にまで渡る打ち上げにも参加した。池袋のモンゴル料理店だった。

その後、昔はさる都内の有名大病院の総婦長でならした、件の特養ホームの叔母を訪ねた。親戚付き合いの薄い母がたの親族の中で、母も僕も最も近しくしていた母の上の上の姉、僕にとってのおばさんだ。それでも、二十年以上のご無沙汰だった。

叔母は、最後の頃の母よりもよほどはっきりしていた。
僕を見るなり「ケーちゃん!」と呼びかけた。
その叔母に10歳年下の妹の死を告げるのはつらかった。


6月13日土曜。四十九日法要、納骨の前日。
僕は三浦半島の先端、三崎港に日本旅館をとっていた。
「貴重品」を持って旅を続けて来た身にとっては、明日朝から法要が始まる霊園のある三浦海岸にほど近いゆえである。

法要は親族のものだからと遠慮しながらも、お前の両親には世話になったからと言ってくれた高校大学時代の友人六名、子供が一人、わざわざその旅館まで会いにきてくれた。

宴始まり

夕暮れの漁港の宿屋の広間で、母を交えた宴がはじまる。
さみしがる僕のわがままにつき合って、そのうちの二人は僕の部屋に泊まってくれた。他の連中が京浜急行の三崎口駅へと向かった後、三人でさらに海辺の町に繰り出し、盃を傾けた。僕は久々に安心してしまい、母がいるのも忘れて気持ちよく記憶を失っていた。

夕餉








母との旅。

風呂敷

思えば母と飛行機に乗ったのは二回だけです。

一度目は父の死後、二十年近く前に一緒に香港に行った時。
二度目は一昨年の十一月二十六日、病気になった母を横須賀の病院から小樽の施設に連れて来た時。病院から羽田まで、新千歳から施設まで、それぞれ介護タクシーとヘルパーさんに力を借りて、鳴り物入りの大移動でした。

今日、母を連れて、みたび海を渡ります。

航空会社に問い合わせたら、特別の申請は要らないそうですが、何に入れてあげたらいいのか悩みました。ずうっと胸に抱えていられれば良いのですが、他の荷物があるのでそうしてばかりもいられません。かといって、ぞんざいに扱う訳にもいきません。

三度目の空の旅、母は手荷物になってしまいました。

母のことを誰も知らない北海道小樽で荼毘にふしたので、親戚たちがいて、父の眠っている場所に連れて帰ります。

二度目のときとも違う、また特別な緊張感があります。


昨晩、母の好きだった藤色のような、紫色のような、
風呂敷を手に入れました。



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