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2009-12

追悼2009



小樽の写真家志佐公道さんの父上がご逝去され(享年93歳)、昨日告別式に列席した。最後の喪主の志佐さんのご挨拶に朝から目が腫れ上がってしまった。
「三年前に母を送ったとき、父は、これからは母の分まで生きなくては、と気丈だったけれど、わずかの後に肺炎にかかり、一時は危篤状態に陥ってしまった。
幸い回復して父の曰く、母さんが来るな来るなというので帰って来ちゃった、と。
今回はきっと、母が受け入れてくれたので父は行ったのでしょう」
「昔父とよく小樽の街を歩き回った。そのことが小樽の街の見方を私に教えてくれ、今も自分は小樽に生きているのだと思う」

そんな意味のことをおっしゃったと思う。
父上も測量写真を職とし、小樽の風景を写すのが好きだったとか。
ひつぎには志佐さんが小樽の歴史的建造物を撮り下ろした『小樽たてもの散歩』が納められていた。志佐さんが父上の額に手を当て、ありがとうとひとこと、棺は閉められた。

志佐さんは父上が息を引き取られた日(26日早朝)の前の晩、小樽での会合宴席の後、さらにJRに乗って札幌に出向き、僕の店の開店ご招待に足を運んでくださっており、終電で小樽に帰った。もしもそのことで、最後の状況が変わっていたとしたら…
僕は胸が苦しくなった。


よく、ある年齢以上の方が逝かれた時、大往生だったとか天寿をまっとうしたとかいう表現をするけれど、僕は嫌いだ。何歳になっても、どれだけ生き尽くしても、少なくとも本人にとって、親族にとって、もう充分、ということはないのではないか。それはまわりの人間が勝手に納得しているに過ぎない。

今年は自分も母を送ったけれど、近しい方の一親等の葬儀に随分足を運んだ。
自分を生み出し、ゼロから世界に存在させてくれた人を送るのは本当に切ない。
しかしながら、覚悟を決めていた人間が、冷静に愛情のみをもって口にする送る言葉には、澄み切ったような境地があって胸を突かれる。


今年旅立たれたすべての方々のご冥福をお祈りするとともに、
残されたすべてのの人の上に平安が訪れますように。

合掌。





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にぎわい。

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2009年12月25日午後4時30分。
『もっきりバル 風の色」のメイン日本酒を担う、栗山の小林酒造から、社長自ら一斗樽と酒林を運んで来てくださる。感動した。

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当店では小上がりでどてらを着てもらう。
登場人物のひとりって感じだ。

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午後11時。
ご招待日のにぎわい。
どうもありがとう。


『もっきりバル 風の色』デビュー!

もっきりカウンタ

先月24日からすべてがはじまり、昨日のクリスマスイブでようやく一ヶ月。そして今日、2009年12月25日。プレオープンのご招待日にまでこぎつけた『もっきりバル 風の色』。

不眠不休の三十日を過ごしたけれど、酒場経営のど素人が店一軒を造り出せたことに感無量だ。むろんまだ箱が出来たに過ぎない。時勢も含め、経営の大変さをこれから思い知ることになるだろう。浮いたことは考えちゃいない。これからは言わずもがな、死に物狂いである。

しかしながら、そこは素人の恐ろしさ。
綿密に計画していたら、この旗揚げはなかっただろう。
自分たちがまず楽しまなくちゃ、の精神なので、来店してくれた人が自分も仲間に加わりたいと思ってくれるような店を創っていこう。

この写真は仕事仲間の本田カメラマンとデザイナー中G氏と三人で、ああだこうだ言いながら撮影した。『もっきりバル』たる象徴の1枚である。カウンター背面の重厚な札幌軟石の石壁と、その石肌を浮かび上がらせているブドウ型の照明の風情が気に入っている。

が、これは今回内装を担当した舞台美術家、世界の高田氏によるもので、壁の素材は、実は発泡スチロールであり、画面左に見えているライオンのドアノッカーのある扉も偽物で開けることは出来ない。

弊店にはそうした、酒場素人の映像制作関係者の遊び心が随所にちりばめられており、かなり面白不思議なまやかしの空間に仕上がっていると思う。

まやかしでありながら、重厚なカウンターの作りに対比するように、画面手前には元祖焼酎割り飲料『ホッピー』がど~んと主役を張っており、脇に控えた安っぽい赤ウィンナーが泣かせると思うのだけれど…。



『もっきりバル 風の色』カウントダウン!

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12月5日土曜日に横濱野毛の『ホッピー仙人』と友人のショップ『ラルゴ』を訪ねた話に続いて、12月6日日曜日に吉田類さんの天空の句会(於:浅草むぎとろ)に出席した話、ホッピービバレッジの赤坂本社を訪ねた話を書くつもりが、開店準備に追われすっかりブログにご無沙汰してしまった。

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昨晩は二度目の試食会で午前2時まで、今日も朝から店にいたのだけれど、昨晩デザイナー氏自ら届けてくれた店の案内状(例年の年賀状を前倒しに、クリスマスカードとして)の宛名印刷等のため、ちょっとだけ事務所に寄ってこれを書いています。

7日の月曜日に物件の正式契約をすませ、14日からは、僕らの本業ロケ関係のブレーンである舞台美術家らと共に内装工事にとりかかった。

幸い17日の保健所のチェックもクリア、明日21日月曜日には営業許可症を受け取る手はずだ。現在は内装の手直しが急ピッチで進められている。

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連日、これも本業関連のスタイリストさんやらヘアメイクさんが立ち寄っては小道具をあれこれしてくれたり、試食試飲会に参加してくれたり、差し入れをもらったり、仲良しである札幌のトップデザイナー中G氏にはロゴ制作はじめ、看板や案内状のデザインを手伝ってもらっている。僕らは幸せ者だ。

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さらには北海道18年の僕のほとんどの仕事(ロケコーディネイト部門ではなく、グラフィック関連)の相棒をお願いしているカメラマン本田氏も昨晩覗きに来てくれ、さすが現場の人、何も言われないのに瞬間的にスタッフの一員の如くかいがいしく力仕事の手伝いをしている。と思ったら、次の瞬間には知り合いのメディア関係者に電話をかけ、新店の取材と記事スペースの確保を取り付けてくれている。件のデザイナー氏は、いつの間にかオリジナルテーブルにオイルステンをかけている。

新春15日発売の札幌の情報誌『オトン』では、このお二人に付き合ってもらって、久々の黄金トリオで『もっきりバル風の色』誕生告知の見開き2ページ作成することになりそうだ。



東京の人。

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今回東京を訪れたのは、僕にとって12月5日、6日が、重要な土日になったからだ。

そのひとつは、足掛け5年にわたる内モンゴル行の相棒が新宿御苑で営む店の26周年記念パーティが、5日土曜の開催だったこと。

北海道移住にさかのぼること三年前。広告代理店マンだった僕がストレス性の急性胃腸炎で倒れたとき。見舞いにビーパルを差し入れてくれた仕事仲間のデザイナーが、退院後、四谷三丁目のオフィスからほど近い新宿御苑のアウトドアショップ『ラルゴ』に僕を誘った。都会の仕事に追いまくられてばかりでは体の毒なので、一緒にフィールドへ、と。

店主の菊浦史とはそれから20年の付き合いになる。
ラルゴは御苑新宿門の真ん前にありながら、核シェルターさながら、その後の僕の精神的避難場所になり、大都会に口を開けたキャンプフィールドへの入り口になった。数年後、そのトンネルから僕はほんとに北の最果てに行き着いてしまったけれど。

12月5日。羽田から横濱野毛のホッピー仙人に直行した後、とって返して僕は新宿に向かった。会はすでに午後7時から始まっており、僕が到着した9時過ぎには宴もたけなわ。間口一間強の小さな店をひとりで四半世紀続けた力は絶大で、店の地下にある貸しスペースのパーティ会場はすごい人数の顧客たちでごったがえしていた。

僕はその日出席することを主役に伝えていなかった。
予告なしの登場に菊浦史は相当驚いていた様子だった。
ラルゴのそうした集まりに、僕は17年のブランクがあり、ほとんど僕の知っている顔はなかった。

僕の登場を契機に改めての乾杯ということになり、その音頭とひと言を僕にと主役はリクエスト、北海道小樽からの仲間の乱入と言い添えてくれた。

こんなことを言うのを菊浦さんは嫌がると思うけど、と前置きして、僕はその晩どうしてもこの会に出席したかった理由を話した。

今年四月、僕の母が小樽の施設で急逝した。
横濱横須賀で一人暮らしを続けていた母が患ったため、やむなく小樽に連れて来ていた。母が発病して間もなく、小樽と横須賀の往復を繰り返していた頃、僕と菊浦史は何度目かの内モンゴル行を共にしていた。草原のゲルや首都のホテルで、必然そうした話題になった。

横須賀の病院から小樽の施設に直接入所して一年半で逝ってしまった母には、小樽には知り合いも友人もいなかった。最後の半年以上は一人息子の僕のことも分からなかった。そのまま逝ってしまった。

だから母の葬儀は、ご案内も出席も僕の北海道での仕事関係の人が大半だった。あまりにささやかだから、自宅葬だった。通夜の席、リビングとダイニング、キッチンをぶち抜いた部屋での読経が終わり、参列者へ挨拶するために僕は立ち上がり、ふり返った。思ったより多くの方々がかき集めた座布団に座っていてくれたのだけれど、その一番奥に菊浦史が立っていた。僕は目を疑った。というより、視界がにじんで何も見えなくなった。

「モンゴルでいろいろ聞いていたのに何もしてやれなかったから、せめて線香をあげに来たよ」

菊浦史は、御苑の店を閉めて通夜ぎりぎりにやって来て、翌朝一番の飛行機に乗るために始発列車で小樽を離れ、いつも通り店を開けるという。言葉以外でこの感謝の気持ちをどう返したものかずっと考えていた。去年のラルゴ25周年にも駆けつけることができなかった。
こんばんは、だから、ここに来ました。


二次会で都民たちもほとんど帰ってしまい、店主と数名が明け方まで残った。タクシーで浅草のホテルに「チェックイン」したのは午前5時を回っていた。来てよかった。菊浦史の喜んだ顔を思い出して、改めてそう思ったら、なんだか高揚して寝付かれそうにもなかった。

浅草千束のホテル近くの飲み屋を出たときには、もう外はとっくに明るかった。一日が動き出していた。いい天気になりそうだ。

新しい東京タワーは春に観た時からずいぶん背を高くしていた。
東京に新しい風景が生まれつつあった。


いとしのホッピー仙人。

仙人外観1

野毛山幼稚園という名門?を卒園したくらいなので、物心がついた頃の僕の最初の地元は横濱野毛なのである。

生まれたのは神戸だけれど、横濱市立本庁小学校、横濱市立吉田中学校、横濱市立櫻ヶ丘高等学校と、筋金入りの濱っ子だぞ。

野毛のはずれの川沿いの一角に『都橋商店街』という不思議な二階建ての集合店舗があって、さらにその先のソープランド街と伊勢佐木町商店街を抜けて吉田中学に通った。

『都橋商店街』は、昭和39年開催の東京オリンピックを理由に、町並みの格好づけで、野毛本通りをよそ行きに見せるために露天商や屋台を押し込んで作ったというだけに、僕にとっては子供の頃からかなりあやしく魅惑的な場所だった。

横濱人にはなじみの深い大岡川にかかる都橋と宮川橋の間の川沿いに、居酒屋を中心にした小さな店60件が一階と二階にぎゅっと集まっている様子を言ったのか、別名「ハーモニカ横丁」と呼ばれるのだそうな。

ホッピー仙人はその都橋商店街の宮川橋寄りの二階にある。
5、6年前から、上京の折りに時間があると顔を出して来た。
同じ野毛の焼き餃子発祥の店『萬里』は、それこそ野毛山幼稚園の頃から通っていたし、18年前に小樽市民になってからもけっこう足を運んでいるけれど。

ホッピー仙人はホッピーしか置いていないホッピーのショットバー。全国に名をとどろかせるホッピーの聖地なのだ。カウンターのみ7、8席のこの店では、店主はマスターではなく、仙人と呼ばれる。ここに来ると稀少な生ホッピーが飲めるし、これまで聞いたこともないような仙人のオリジナルレシピによるホッピーに出逢える。

仙人セット

12月5日土曜日。僕は羽田からホッピー仙人に直行した。
その日は土砂降りの雨で、午後7時の開店まで、コンビニエンスストアで購入した傘をさしながら、大岡川の水面に映る都橋商店街のネオンを眺めていた。

ジョッキ、焼酎、そしてホッピー。その三つをキンキンに冷やして氷は入れない。これぞ『三冷』、ホッピーの極意なのだが、その晩仙人に薦められて試したのが「ぬくっピー」と名付けれた仙人オリジナル、ホットホッピーだった。度肝をぬく『三温』のホッピーは冬季限定で、今シーズンはあなたが口開けだと言われ、所望した。

仙人

この店を尋ねて何度目だったか、貴重なホッピーのシールに仙人がサインして僕にくれた。

『星野様、ホッピー最北端として確認しました。
            2005.3.30/ホッピー仙人』

今度風の色ではじめる酒場では、とりあえずビールならぬ、
『とりあえず、ホッピー』で行きたいと考えている。
生ビールはあえて置かず、北海道にはなじみの薄いホッピーの発信基地を志願しようと。だから、仙人に仁義を切りに来た。

そう伝えたら、そんなにあまいもんじゃないよ、とか言われるかもしれないと実は思っていた。でも仙人は「そりゃあ楽しみだなあ。落ち着いたら仙人を呼んでよ、飲みにいくから」と言ってくれた。

ぬくっピー?
それがめちゃくちゃ素敵だったんだ。


風の酒場。

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とつぜんだけど、
風の色で酒場をはじめることにした。

風の色を立ち上げた頃、
ひと夏、あらわれては消える、
陽炎のような酒場をやりたいとボスと話していた。

すすきのに空き地を探して、
テントやバラックでもいい、
酒場の非日常が劇場空間と考えれば、
内装はセットでかまわないのではないか。

表からは本物に見えるけれど、
裏に回ればハリボテにすぎない。
それがセットである。

二階がないのに途中まで階段がある。
開かない扉がある。
まやかしの空間。

ある時期、本気で空き地を探した。
ビルオーナーに紹介してもらい、
屋上ならタダで貸すよ、という具体的な話もあった。

しかし、

よくよく考えてみれば、
われわれの本業は夏が最繁忙期だ。
いったい誰が店番するのか。
そんな思いつきの企画と短い時間で保健所の許可が下りるのか。
計画は頓挫した。


そして…

こんなご時世にこそ自分たちから何か仕掛けよう、
という話を喫茶店でボスとして、社員に伝えたのがこの11月24日。

最初から酒場をやろうという話ではなかった。
まずみんなで何をやるべきかそれそれ持ち寄ろうということだった。
翌日僕は酒場企画の草案を書いた。

吉田類さんに出逢った影響があるかもしれない。
中嶋さんの素敵な酒場を知ってしまったからかもしれない。

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26日僕のプランが社内で通り、その日から具体的な物件探し(仲介業者/ビルオーナー/自分の足でも)と、事情通の方への協力依頼を始め、27日には決定に至る狸小路6丁目の物件に行き着いた。その後もさらに物件リサーチは続けたものの、30日に初めて狸小路を見、他にもたくさん手を挙げている人気物件だったため、三日の猶予の後、12月3日に決定の意思表示を大家と仲介業者に伝えた。

銀行借り入れの話、開業に必要な調理師、衛生管理責任者などの協力者探しから、内装とメニューのイメージづくり、店名の検討、ロゴ制作の依頼、等々大車輪で動き、12月7日に正式に契約を交わす。
ここまで喫茶店の話から二週間の出来事だ。

内装プランを依頼する舞台美術家に7日と10日に現場を観てもらい、10日中に図面up、昨11日金曜日に保健所に申請をあげた。

14日月曜に着工、17日木曜日に完成予定。同日保健所のチェックが入る。ここがうまくいけば、数日後には営業許可が下りる。

21日と22日に身内の宴会で肩ならし、外部には25日がご招待。
12月26日土曜日に正式オープンを迎える。

飲食業はど素人なので、ただの飲み屋をやっても仕方なく、ある種情報発信基地的な人脈ネットワークの交錯する場所…になればいいなあ、と。

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その名も

“おいしゅうて やがてあずましき”
『もっきりバル 風の色』

合い言葉は、
「とりあえず、ホッピー」

どうぞよろしく。




樽42周年。

42周年2

「がつや しまざき」をおいとまして師走の小樽の町を志佐さんと歩く。もう9時を回っている。

「樽」の周年に手ぶらでは行けないので、酒屋で北の錦の上等なやつを一本仕入れる。12月1日は中嶋さんは金をとらない。だから日の浅い客は遠慮するし、長年の常連は皆、酒をぶら下げてのれんをくぐる。その酒はその場でふるまわれるか、中嶋さんの自宅での楽しみになる。

カウンターにはどんと一斗樽が開かれ、猛者たちが悠々と陣取っている。すでに小さな店内は手みやげの酒であふれかえっており、人より酒が店を占領している感じ。柄杓で升を満たし、隙間に潜り込む。客が増える度、中嶋さんに向かって升が掲げられる。そこここで小さな乾杯が繰り返される。

42周年

12月1日の酒肴は漬け物などに限られる。そいつをポリポリやりながら、あちこちの話に耳を傾けたり、口を挟んだりで樽の43年目が幕を開けてゆく。

ここに僕のイメージする酒場の姿がある。
酒場と呼びたくなる飲み屋はそうたくさんは存在しない。
中嶋さんの樽は、僕にとって酒場と呼べる数少ない大切な場所だ。

がつや しまざき

シャコ刺身

12月1日。小樽の写真家、志佐公道さんと久しぶりにご一緒する。
母の通夜以来だから随分ご無沙汰してしまった。しかも、そのとき母に線香をあげるだけのために東京から飛んで来てくれた友人から、志佐さん宛てに預かっていたものがあったのに渡しそびれていた。

12月1日は中嶋さんの「樽」の創業日で、昨年から長い常連さんに混ざって参加させてもらっている。今年は前述のことがあったので、最初に僕を樽に連れて行ってくれた志佐さんをお誘いした。

樽に顔を出す前にちょいとひっかけてから、ということになった。
どこがいい? と志佐さんに聴かれて、ふと、先日小樽で衝撃的に出逢った吉田類さんが小樽で出没する「がつや しまざき」を思い出し、のれんをくぐった。僕は初めてなのだが、志佐さんはよく知っている店だった。

店主の嶋崎さんに吉田類さんとのご縁などをからめてご挨拶。吉田さんの句会の、あの怒濤の夜を志佐さんと嶋崎さんに報告する形でその晩は始まった。句会二次会の若松でお会いした、整形外科の先生の話をしたら、オノ先生なら毎晩ここに来るよ、と話しているそばから扉が開いてご当人が登場したので、びっくり!

「先日、吉田さんの席で」とご挨拶したら、
「ああ、そういえば今日、吉田さんから電話をいただいたよ」
とのことで、なんだかまた諸々が壮大に繋がってきた。

この店の三大自慢は、魚(刺身、焼き)と肉(チャップ)と焼きガニという。先日お祭りがあったけれど、僕はこの日初めて、シャコの刺身を食べた。身のぷるぷるとウニのような卵の食感が素敵だった。

チャップ

しまざきで人気の高いチャップのタレには神話がある。このタレを愛してやまなかった小野先生の亡くなられたさるご友人が生前さまざまに吹聴していたそうで、故人がそこまで言っていた味を確かめようと、ご遺族が本州から北海道小樽の「がつやしまざき」を訪れ、感慨深くご賞味されたという。


俺はあそこの社外取締役なんだと自称する小野先生が、言葉通りH新聞の若手を呼び出し、ほれ飲めやれ食えと言っている。いつのまにか先生の隣に座っていた地元建設会社の社長は、先生と兄弟みたいな付き合いなのだと言う。カウンターの反対側に座っていた会社員風の方々は、正月用に嶋崎さんの本マグロを譲ってくれないか、などと話している。相当の常連なのだろう。

志佐さんのお供をすると、小樽との付き合いが深まるようで嬉しい。

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