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2010-03

下町 焼酎ハイボール参上!

試飲3

昨年暮れ、三冷でホッピーを飲ませる店、ホッピーをキンミヤで飲める店、あるいはホッピーとキンミヤが飲める店として開業したわが『もっきりバル 風の色』(あ、栗山 小林酒造 北の錦も推奨の酒です!)。

そしてこの週末から、さらにキンミヤ焼酎をフューチャー、いよいよ『下町焼酎ハイボール』と『うめキン(キンミヤ+梅液)』そして『ぶどキン(キンミヤ+ぶどう液)』をメニューに加えました。

三月の東京出張で、焼酎ハイボール発祥の店と言われる曳舟の『三佑酒場』に勉強に行きました。錦糸町『三四郎』にも訪れました(いずれも吉田類『酒場放浪記』に登場した酒場です)。

嗚呼、焼酎ハイボール!
この不思議に無個性な味わいがもの凄く個性なのです。食べ物を邪魔しないバイプレイヤー。わかるかなあ。



試飲2

真の焼酎ハイボールに必要不可欠な割り材にもようやく行き当たり、八方手を尽くして仕入れルートも確保、カウンターマイスターKAZと微妙なレシピ、配合の格闘、試飲も済ませ、満を持しての登場です!

新メニューデビュー記念キャンペーンとして、三月二九日(月)~四月三日(土)の一週間、午後三時から午後七時までの来店者に限り、この三品のうちのいずれかを一杯サービスします(必ず店主のブログで見たと言ってください。合い言葉です!)。



ホッピービバレッジ百周年の今年、これまで根付かなかった北海道でも、ホッピーを飲ませる店がジワジワ増えて来ているのは感じていたし、スーパーでホッピーをちらほら見かけるようになりました。どこを向いてもホッピーのホの字も見当たらず、メーカーに電話して取り寄せてまで飲んでいた十八年前(僕が北海道に移住して来た頃)とは隔世の感があります。

まして、相棒のキンミヤ焼酎に関しては、ほとんどの道民がその存在すら知らなかっただろうし、今でも取り扱っている飲食店はほとんどないだろうと自負していました。

ところが最近、ホッピーのみならず、キンミヤとセットでホッピーコーナーを作っているスーパーなども出現して、こりゃいよいよブームなんだなあ、と。

新メニュースタートにも拍車がかかりました。今は言えます。この『下町焼酎ハイボール』と『うめキン(キンミヤ+梅液)』そして『ぶどキン(キンミヤ+ぶどう液)』を北海道で出す店はほとんどないだろうし、正しく出す店に至っては、まず皆無と言って過言はない、と。

そうして、もうひとつだけ言えるのは、ただラインナップしているだけではないということ。ブームは関係ありません。僕にはホッピーや焼酎ハイボールに対する愛情がいっぱいなのです! 

はっきり言って、思い入れが違います。
ご来店、お待ちしております。


※札幌市中央区南2条西6丁目(狸小路6丁目アーケード内)
 新倉屋さんとロシア料理コーシカさんの間の二階
 011-251-8570 PM3:00~AM1:00(不定休)
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引退の日 ― 小林酒造 脇田杜氏2



十六年前の取材で雑誌に掲載された僕の文章を四代目が気に入ってくださり、いろいろお話をさせていただくようになる。お互いに蕎麦打ちが趣味で、
「造り酒屋の酒を飲ませる直営の蕎麦屋をやってください!」
「何かことを起こす時には手伝ってよ」
なんて夢を膨らませていた。

七年前、四代目から電話があり、
「店をやることになったよ」
「蕎麦屋ですか?』
「いやあ、江戸の蕎麦屋酒みたいなのはまだまだ北海道の文化ではむずかしいから、地鶏を中心にした品書で、蔵直送の酒を飲ませようと思う」
そんなやりとりになった。

品書10

店の名前を考えるところからご一緒させていただき、地鶏のトリは、酒の飲みたくなる頃合いの時間を示し、その文字自体にもニワトリの意味以外に、酒や酒を醸す器の意味があり、なにより「さんずい」をつけると「酒」になる「酉」の字を当てて『地の酒 地の酉』として、店名にかかる肩書き風に。肝腎の店名は、栗山の小林酒造が札幌に七番目の蔵を開きました、という意味合いで七番蔵。

かくして、屋号のまるたと併せ『地の酒 地の酉(とり) まる田 七番蔵』が誕生。書家である私の母にその書を任せてもらう僥倖にも恵まれ、開業のチラシやリーフレット、店の品書など、印刷物の一切を手がけさせてもらった。

昨二十六日金曜日、最新の品書を七番蔵に納品した。品書の改訂作業と前後して、その多くを片付けられずにいた母の遺品を整理していた。間もなく母の一周忌を迎えるから。母の書道関係の荷物の中に、母が下書きしていた七番蔵の書、私の会社風の色の書の草案が出て来た。

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そうした折も折り、脇田征也杜氏の引退の報が届いたのだ。僕はどうしても杜氏に直接お会いして、今日に至るご縁の御礼を言いたかった。そうして、三月二十七日の栗山で、その願いはかなった。

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講演の後、札幌軟石の蔵の中で北の錦を交わしながら、杜氏とゆっくり話をすることが出来た。お会いしたのは七年ぶりだった。なんと杜氏は、北海道新聞に掲載された私の店の開業の記事を読んでくれていた。
「あんたの店ならぜひ行かなくちゃと思って切り抜いておいたんだ。もちろん(あんたのことは)覚えているさ。北海道銀行のコマーシャルだって知ってるよ(笑)」

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おかげでそこに集っていた北の錦ファンの方々にも、少なからずわがもっきりバルに興味を持ってくれた人がいたようだ。

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杜氏、五十年間お疲れさまでした。
これからは造る人からひたすら飲む人になれるのですね。風の色でお待ちしてます。おいしい酒を飲むために、お身体くれぐれもご自愛くださいますよう。

昨年十二月二十六日開業、小林酒造の北の錦を飲ませるわが『もっきりバル 風の色』は札幌市中央区南二条西六丁目、『七番蔵』は同じく南二条西四丁目。至近の一角に昨年亡くなった母の書による酒亭の看板がふたつ。街に静かに挨拶している。

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引退の日 ― 小林酒造 脇田杜氏1

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最初に栗山の小林酒造に脇田征也杜氏を訪ねたのはかれこれ15、6年くらい前になるだろうか。

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雑誌の取材で記念館の歴史的収蔵品のいくつを拝見し、お話を伺った。北海道の多くの蔵が南部杜氏を迎えて酒造りしている中、小林酒造の脇田さんは同社製造部の社員から杜氏になった、所謂“道産子杜氏”として、酒造りには役不足と言われ続けてきた北海道米を使って数多くの銘酒を醸して来た、北海道が全国に誇る名杜氏だ。

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二年前からは顧問という立場で後進の育成に尽力して来たが、三月二十七日、最後の蔵案内と講演をもって引退されると聞いて、とるものもとりあえず蔵にお邪魔した。

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たしか二回目の取材の時、脇田杜氏の案内、しかもマンツーマンの贅沢で蔵をめぐった。杜氏の解説は軽妙洒脱で、何分に一回かは笑いが起きる。肩の凝らない気楽さのうちに、蔵のこと、酒造りのことを学ぶことが出来る。

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明治、大正、昭和の蔵は、それぞれ「一番蔵」「二番蔵」という風に呼ばれ、小林酒造には札幌軟石や赤煉瓦の蔵が六番蔵まで連なっている。

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蔵見学の後、会議室に移って酒造り五十年をめぐる杜氏の話を聞く。

思えば脇田杜氏を取材させてもらったことがきっかけで、日本酒、とりわけ道産酒に目を開かせてもらったばかりでなく、小林酒造さんとの長きに渡るご縁をいただいた。


あつさ さむさも?

歩く3

東京は櫻も花開いているとやらで眠れぬほどに口惜しいのだけれど、こちら北海道も久しぶりに快晴の朝を迎えた。

歩く1

師走以来、朝も昼も夜も歳時記もあったもんじゃない生活を送っていた。だから、もうとうに終わりだけど、今シーズン初めて歩くスキーでウチのまわりを散歩した。

歩く2

ウチからは海(海水浴場)も山(スキー場)も10分圏内。玄関からクロカンの板を装着して崖っぷちを歩き回ることが出来る。もともとそんなことを楽しむために横濱からわざわざ移り住んで来たのではなかったのか。気がつけば酒場の店主。反省しきりだ。

でも、この風景もこれで見納め。


西岡恭蔵さんと櫻2

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1997(平成9)年4月4日。奥さまで作詞家のKUROさんの訃報が流れる。富良野の助手席から二年と九ヶ月。あのときが、西岡さんが奥さまの発病を知ったごく最初の頃と思われる。つらい日々を送られたことだろう。それは満開の櫻の日だったという。

その年の暮れ、11枚目のアルバム発売のご案内と喪中の葉書、そして翌年の追悼コンサートのご案内が別々に届いた。12月10日発売のアルバムタイトルは『Farewell Song』だった。

1998(平成10)年3月30日、僕も海を越え、世田谷のパブリックシアターで開催された追悼コンサート「KIROちゃんをうたう」に参加する。彼女の曲のゆかりのアーティストたちが20数名も揃って彼女の楽曲を唄う素晴らしいライブだった。

同年9月18日、追悼アルバム「KUROちゃんをうたう」発売。
この後、音楽雑誌に西岡さんが書いた文章が目にとまった。奥さまが亡くなって以降、追悼コンサートや追悼アルバムの制作に集中し続けることで、別れの哀しみを感じる時間すらないように自分を追い込んで来た。でも、それらが終わった今、自分は本当に抜け殻であり、生きる力が湧いてこない。そんな内容だった。これはいけないな、と僕は思った。

1999(平成11)年4月3日。
この日の衝撃を僕は忘れない。
同じく東京の櫻が満開の日だった。
富良野「唯我独尊」開店二十周年で僕が前座を務めた人、
傷つく森の緑で僕を助けてくれた西岡恭蔵が自ら命を絶った。

駄目だよ。恭蔵さん、嘘をついた。
『Farewell Song』のジャケットに自筆で
“愛は生きること”って書いてくれたじゃないか。


しばらくして、初めて恭蔵さんではない人の手で書かれたDMが小樽に届いた。「西岡恭蔵&KURO追悼コンサート」


昨年暮れに開いた酒場でときどき憂歌団の「四面楚歌」をかける。
一番好きなのは『夜明けのララバイ』。大学時代の切ない思いが鮮やかによみがえる。この楽曲がKURO作詞、西岡恭蔵作曲だったことを知ったのは、つい最近のことだ。


恭蔵さん。
今年東京の櫻は4月1日に満開だそうです。
その日僕は故郷横濱にいると思います。
4月3日のあなたの命日には櫻で有名な弘明寺に立ち寄ろうかと。
大岡川の川沿いの花が見事だと聞いています。
そのまま昨年の母の納骨のとき同様、三崎港の旅館に投宿します。
4月4日のKUROさんの命日、僕は三浦海岸の両親の墓に詣でて、母の一周忌の法要を営みます。偶然ですね。

お二人の分もと思っています。

あなたからいただいた便り。
どれもあったかくて素敵でしたが、
なんでもない、この一枚が特に好きです。ありがとう。

『寒中お見舞い申し上げます。
 お変わりないでしょうか?
 私の方は、元気にしています。
 3月には、新しいアルバムをレコーディングします。
 前作の「START」からは3年以上の月日が流れました。
 久しぶりのレコーディング、自分でもちょっと楽しみです。

 今年の冬は、寒いのでしょうか?
 こちらの方は、まあまあの寒さです。 
 ここの所、お天気が良く、空の青さ、夜空の星がきれいです。
 星野さんも日々お元気で、カゼ等ひきません様に ! !
又どこかで ! !  '97.1.20. kyozo』



西岡恭蔵。
三重県志摩郡志摩町(現志摩市)布施田出身。
享年50歳。今の僕と同じ年だ。

○名曲「プカプカ」をカバーしたアーティスト:大塚まさじ(ザ・ディランII)。大西ユカリと新世界。桑田佳祐。大槻ケンヂ。つじあやの。福山雅治。奥田民生。原田芳雄。桃井かおり。クミコ。泉谷しげる。大光寺圭。羊毛とおはな。大西ユカリ。曽我部恵一。清水ミチコ(Wikipedia 調べ)。


西岡恭蔵さんと櫻1

恭蔵

間もなく東京の櫻も開花予想日を迎えるそうで、約一ヶ月の時差のある北海道に住んでいてもそわそわが始まる。

ましてここのところ毎月東京に出かけており、四月四日の母の一周忌(命日は二三日)に先駆けて一日から上京の予定なのだけれど、その日が満開予想日らしい。大変だ!


ここに 1995(平成7)年1月12 日付けの葉書があるので、僕が名曲『プカプカ』を書いたシンガーの西岡恭蔵さんと出逢ったのは、1994(平成6)年の夏だったと思われる。

「昨年7月の北海道ツアーの時はお世話になりました。年賀状を読みながら、私も星野さんの車中のこと、憶い出しました。あの頃は状態が悪く、ご迷惑をおかけしたのではと思ってます」

当時僕が勤めていた札幌の出版社が、西岡さんにお願いして小さなライブを開いた。その直後に富良野の有名カレー店『唯我独尊』の宮田均さんから店の20周年の記念ライブの前座に呼ばれたのだけれど、メインゲストが西岡恭蔵さんとギタリストの岡崎倫典さんだった。二大アーティストの前座にど素人の僕が唄うなんて、ローカルでしかあり得ない珍事なのだけれど、そんな訳で北海道の短い夏の間に立て続けに西岡さんにお会いする機会を得たのだった。

唯我独尊のライブの後、富良野では知る人ぞ知る音楽通の店「傷つく森の緑」で打ち上げがあった。お客の一人が独樽のライブの来場者で、その際に僕が唄ったオリジナルの曲をもう一度歌えと酔った勢いで強要した。僕からすれば本番後に静かにくつろいでいる二大アーティストもいる席で歌うなんてとんでもないことだった。僕はかたくなに拒み、雰囲気がちょっと険悪になりかけたとき、「じゃ、僕が歌いましょ」と西岡さんがその場を引き取ってくれた。僕は助けられ、一同は大喝采。すべてが丸く収まった。同席しているだけで恐縮していた僕は、その偉ぶらない気さくな人柄に感動した。

出演者は皆、主催者である宮田さんの自宅に泊めてもらう予定だった。何台かの車に分乗しての帰り道。僕の助手席に西岡さんが座って、偶然二人きりの時間が出来た。

短い暗闇の道中、ふっとため息をつくような、独り言みたいな感じで西岡さんが漏らした言葉が印象に残った。
「北海道ツアーの真っ最中なのに、カミサンの具合が急に悪くなったらしくて、いったんウチへ帰らなくちゃならないんです」

それから僕と西岡さんは10数通の便りをやりとりした。
西岡さんからの最初の一通は、1995(平成7)年の僕の年賀状への返信。冒頭の葉書である。その後もクリスマスライブのお知らせ、ニューアルバムのレコーディング等、折に触れて西岡さんから便りが届いた。かならず自筆のメッセージやサイン、律儀に日付が書かれていたので、こうして僕は軌跡を辿ることが出来る。とにかく何から何まで優しく温かい人だった。


1996(平成8)年。二年ぶりの夏の北海道ツアーのラインナップにわが小樽のライブハウス一匹長屋が名を連ねていたので足を運んだ。ライブ終了後には、ギターの関ヒトシさんも交えて再会の杯を交わしたし、夜明けのラーメンもご一緒した。


吉実 吉澤 清さん。



三月九日火曜日夕刻。

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今回の東京は終始肌寒かった。あと二週間で櫻が開くと聴いたのに、北海道と大して変わらんじゃないか、と。でも、機上の人として北海道の情景を眺めると、やっぱりたいそう違うもんだった。前言撤回だ。

新千歳空港から札幌駅前の東急百貨店に直行。私の蕎麦庖丁をあつらえてもらった吉實(よしさね)さんが『江戸にぎわい市』に出店しており、行きがけに三本の庖丁を預けてあったのだ。

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催事会場で最初に挨拶したのは、二月の浅草で珈琲をご馳走になった薬研掘(やげんぼり)の寅さんだ。入れ違いの僕の東京出張中に、わがもっきりバルに顔を出してくれたらしい。今回時間が合えば「札幌を案内してくれる」そうだったけど、タイミングがずれてしまった。

次に吉實さんのところへ。
いつも世話になっているのはお兄さんの吉澤操(みさお)さんの方なのだけど、次の九州の催事と頭が重なって、この日の昼から弟の清さんにバトンタッチしている。それは横濱から操さんの携帯電話に連絡していたので事前に知っていた。

清さんは操さんとはまたタイプの違う職人さんで、いかにも次男坊って感じの面白い人だ。鋭い眼光で黙々と包丁を研ぎながら、一方では鮮やかな口上で目前の客人の心をがしっと捉えて話さない操さんに対して、清さんは「いやあ、もう今日は飽きちゃったなあ、一杯やりてえ」なんて平気で口に出す、やんちゃな感じがおかしかった。

その清さんから、操さんが研いでいってくれた庖丁を受け取る。支払いと、いつもの軽い感じの応酬のあと、どうした話のつながりか、昨年の十一月二十五日にお二人の父上が亡くなったことを清さんがもらした。それを聴くまで僕は知らず、ショックだった。

【『吉實』は「東京都江東区無形文化財指定店」であり、お二人の父上は、その「保持者」である。さらに、重要無形文化財指定の技術等の保持者として認定された者がいわゆる「人間国宝」と呼ばれる】

「親父は御年九十五歳で、いたって元気だった。大相撲をやってれば、番付表にこう、記しなんか付けちゃってね、風呂上がりにテレビを観ながら晩酌するのを楽しみにしてたんだ。その日は九州場所をやってた」
「親父は歯が悪いんで昼はたいてい蕎麦かうどんなんだけど、その日は『まいんち蕎麦ばかりじゃアレだから、今日はちょっと寿司が食いてえな』って言うんだ。分かった、とってやるから何がいい? って訊いたらやっぱり中トロがいいって」
「大好きな中トロをうまそうに食べて、その後は風呂さ。しばらくして音がしなくなったから声をかけたら返事がないんだ。ついにその時が来たと思った。扉を開けると親父は湯船の中で目を閉じていた。俺は慌てて親父を抱き上げた。風呂ん中だから当たり前だけど、身体が暖かいんだ。火事場の何とかって奴かな。ひょいと持ち上げていたよ。兄貴は出かけてた」
「検死の人が来て、溺死ではないと。溺死の場合は胃の中に水がたくさんたまってる。父上の場合はまったく水はなかった。瞬間的にどこかの血管が切れて…まったく苦しまれた様子はありませんでしたと。腹ん中には中トロだけよ」
「人間てのは死に方だと思った。見事だよ。最後の晩餐だ。九十五まで元気で、まいんち相撲観て晩酌して。最後の日には、病院じゃなく自分ちで好きな中トロ食って逝った。立派だと思わないか。真似できるかい?」

二年前の三月と四月、僕はそのお宅にお邪魔している。操さんを仕事場に訪ねたのだけど、

http://azumashikikuni.blog16.fc2.com/blog-entry-243.html
http://azumashikikuni.blog16.fc2.com/blog-entry-244.html

操さんも清さんも通いで、そこはご両親の自宅、ご兄弟の実家だったと今回初めて知った。思えばその時お茶を入れてくれたのが母上で、奥の卓袱台のところにいらしたのが父上だったに違いない。

「俺はね、それからその風呂に入れなくなっちゃったんだ。なんか親父を踏んづけてるみたいでさ」

話がそこに至って、僕は不覚にも涙を止められなかった。やんちゃな清さんの眼も、心なしか充血しているように見えた。

亡くなった親父よりも今のお袋の方が惚けがきついかな、という話から、昨年自分も母を送ったこと。認知症で最後は僕のことを分からなくなっていたことを話す。すると「それはね、星野さん。見た目は確かにあんたのこと分からない様子だったかもしれないけど、魂ではちゃんと分かってたんだよ。そういうもんなんだ」

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清さんがいつもより数段、
男らしく見えた。


今月の馬さん。


先月の日記で馬さんの店は午前八時からと書いてしまったけど、午前七時の間違いだった。営業時間、午前七時から午前三時まで。閉まってるのは四時間だけ?

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馬さんが本店に現れるのは午前十一時四十五分頃なのを近年の経験で知っていた。だから、その頃に食べ終わるように来店した。出張五日目で見事に胃をやられている。だから三月九日火曜日の朝はピータンのお粥にした。それに油条。

横濱中華街に名店と言われるお粥の店が何軒かあるけれど、どこも高いか朝からやっていない。やっていると馬鹿みたいに並んでいたりする。朝粥が素敵だし、気楽に食べたいので探していた時『馬さんの店 龍仙』を見つけたのだ。

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胃に優しいお粥を食べ終わって、気持ちも優しくなったけど、けっきょくシウマイと紹興酒を追加してチビチビしてたら馬さん登場。

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客席から頭を下げると、
「ああ! センセイ!」と大声を出した。
「どうぞ ゆっくり!」

馬さんは一度厨房に入り、すぐに外に出て行く。表で外交している。

精算して表に出る。
再び大声で「センセイ! ゆっくりない。早過ぎない?」と肩を抱かれた。

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これまで何度も話したけど「センセイ」は初めてだった。「北海道からまた来たよ」と言うと、前回同様、大切そうにしているバッグから手紙の束を抜き出し、また新しく北海道から馬さん宛てに来た手紙を見せてくれた。今回も記念撮影。

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先月僕を泣かせた、

「イノリ イツモ シアワセ」

という馬さんの言葉が素敵だったから覚えたよと言うと、馬さんも口の中で反芻するように同じ言葉をつぶやいた。

握手を終えて僕が歩き出すと、突然、駆け寄るように馬さんが近づいて来た。

「センセイ 独身?」

答える間もなく馬さんが次の言葉を発射する。

「ワタシ ワカル。センセイ カノジョ
ヨンジュウニサイ ドクシン キレイ」



横濱市立吉田中学野球部。

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ホッピー仙人をおいとまして、桜木町方面へ。
日本で最初に焼き餃子を提供した大衆中華の店、野毛の萬里に向かうためだ。

幼稚園の頃から今に至るまで変わらず、日本で一番うまいと思っているレバ炒めがここにある。そして今、僕のDNAに刷り込まれたレバ炒めと寸分違わぬレバ炒めを作っているのは、吉田中学の野球部の後輩川淵なのだ。

高校大学社会人と活動エリアが変わって、しばらく萬里から足が遠のいていた。しかも18年前からは小樽市民になってしまった。けれど、近年東京への出張が増えたのと、母の一件などあって、ここ数年、機会を見つけてはふたたび萬里に足を運ぶようになった。

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三月八日の晩、萬里は店じまいの最中だった。そうだ、萬里は午後10時閉店じゃないか。店の奥にいた川淵を呼んでもらい、挨拶だけして退散。吉田類さんの番組にも登場した向かいの若竹も同じく10時閉店だった。

飛び込みで入ったもつ焼き屋さんを出ると日付が変わっていた。ボーッと座っていたカウンターで、頭の中が吉田中学になっていた。

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何年も前から気になっていていまだに入れない店がある。萬里のはす向かいであり、焼鳥若竹の左隣の、看板が不思議なラーメン屋「三陽」、そのまた左隣の飲み屋だ。

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「酒・膳・童 史 Fumi」とある。萬里の川淵は僕の次にキャプテンになった男であり、間違いなければ「史」は…。


「もう終わりですか?」
「そう、終わった」
カウンターには女性客がひとり。その内側に店主らしき人が立っていて、素っ気ない返事をした。
「フルショーさんですか? あの、ボク、吉田中の…」
「だれ?」あくまで素っ気ない。
「野球部の後輩でホシノと言います」
「ホシノオぉぉぉぉ!?!?」
ここで明らかにトーンが変わった。
「星野ぉ、なんだよオヤジになりやがって!!!!!」満面の笑顔だ。

古正史次さんは、吉田中学野球部のひとつ先輩だ。おっかなかったけど、身のこなしやユニフォームの着こなしがスマートというかダンディで、荒くれ系が多かった先輩の中では異色の人だった。

「ホシノは一年からレギュラーで、お前が二年のときサードになって、サードをやってた俺はレフトに回されたんだ」

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古正さんは僕がとうに忘れていたことをたくさん覚えてくれていた。卒業以来、三十五年以上ぶりの再会というのに。

「ダレ? なんて失礼ね。じゃあ」と言ってカウンターの女性が帰る。

「お前らの代の奴らは結構今でもこの店に来てくれるんだ。アイダだろ、サノだろ、二人は最近結婚したんだぜ。俺のイッコ上のノリシマさん覚えてるか?」
「はい、こわかったなあ。あのときあの人が中学生だったなんて、今考えても信じられないっす」
「ノリシマさんの妹のカヨちゃんも来てくれてるし…離婚して独りもんよ」

地元に住み続けるってこういうことなんだなあ。三十五年前の同級生が最近くっついたとか離れたとか…。ここにはあの頃の時間が延長戦で存在していた。十八年前に小樽市民になるずっと以前から、野毛、伊勢佐木町界隈の時間や空気から遠ざかっていた僕には、にわかには信じられなかった。

でも、史 Fumi の扉の内側には「あの頃」が流れていた。切なかった。

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「ホシノ、今度くるときは事前に連絡しろ。みんなに声かけといてやるから、ナ。こいつ、オヤジになりやがって」
「ふ、古正さんこそ!」


午前一時を回ってホテルを目指す。ホテルの目の前にある横濱スタジアムはその昔「平和球場」というローカル球場だった。古正さんが三年、僕が二年生の時、わが吉田中野球部は強く、平和球場で神奈川県大会の上位戦に出場したこともある。でも、吉田中野球部はもう存在しない。

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ふと懐かしい匂いがした。
小中学生の頃、春にいつも香っていた。北海道にはない花だ。
未明の沈丁花は、香りで僕の想い出に伴奏をつけてくれているようで、もう少し漂っていたくなった。今夜はとてもいい夜だから。



今月のホッピー仙人。


もうひとつの定宿「東横イン横濱スタジアム前本館」でシャワーを浴びたら、この四日間の疲れが溢れ出してベッドで意識を失っていた。
気がついたら三月八日も午後七時を回っている。

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JR関内駅を通り過ぎて長者町から伊勢佐木町。母校市立吉田中学への通学路を逆流する感じで都橋商店街へ。ホッピー仙人の扉をあけた頃には七時半をだいぶ回っていた。ここの営業時間は午後十時までの三時間しかない。仙人は現役サラリーマンなのだ。

「やあ、いらっしゃい。送ってもらった雑誌届いたよ、ありがとう」

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仙人が笑顔をくれた。わがもっきりバルの広告が載った雑誌『オトン』や開店以来の新聞、雑誌に載せてもらった記事を郵送していたのだった。

前回の訪問からちょうど一ヶ月。この一ヶ月の間に、仙人の常連さんが弊店を尋ねてくれたし、それについて書いた僕のブログに仙人や来店してくれたご本人のHさんから書き込みをもらった。さらにそれを読んだ雑誌『古典酒場』の編集長さんからもコメントをいただいた。

なんだかジワジワ輪が広がっているようで嬉しい。

仙人こと熊切憲司さんは、三月六日土曜日のホッピービバレッジさんの百周年記念式典にご招待を受けたそうで、その時の話をたくさんしてくれた。その日をもって噂の三代目、ホッピーミーナ石渡美奈副社長はめでたく社長にご就任。帝国ホテルには政治家さんや経済人、仙人のテーブルは飲食店関係、都合300人もいたそうな。

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その時にお土産にいただいたという百周年の立派な記念本や記念グラス等、ファン垂涎、非売の逸品も見せてもらったけど、もっと嬉しかったのは、会場で仙人が古典酒場の倉嶋編集長と会った際に、星野さんの店について噂をしたんだよと、と教えてくれたことだった。

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三月の仙人でいただいたのは、生サーバの白、ぬくっピー、そして僕は初めての日本酒とのコラボレーション! やっぱり仙人は凄い。

仙人が、年内には一度札幌のわが店に行きたいと自ら言ってくれた!
嬉しい勢いで、僕が吉田類さん関連で構想している企てに力を貸してくれますかと思い切って尋ねてみた。快諾だった! ありがたい。

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僕は北海道の酒と山わさびを携えて行ったのだけど、僕は仙人から仙人出演のテレビ番組の収録DVD、ホッピー100周年カレンダーをいただいて帰る。仙人を出るときにはいつも手は塞がり上機嫌だ。

ありがとう、仙人。
これから毎月来るから。


弥生三月東京日記5



浅草の千束通りに星野銅銀銅壺店という銅や銀を使った食の道具を商っている店がある。同姓のよしみじゃないけれど、これまで僕はこの店で銅のおろし金と卵焼き器をふたつ購入した。とっておきは二つ目の卵焼き器だ。僕が日本一と断じている蕎麦屋、神田まつやさんの小判型の卵焼きの型を作っているのは、この星野さんなのだ。

おろし金の目が甘くなったので、そのことについて聞きに伺ったとき、星野さんにそのことを聞いて僕の道具道楽の虫がうずいた。凄い。あのまつやさんの卵焼きを自分のうちで作れる! むろん、まつやさんからの発注ありきなので、けっきょく一年以上待って僕はその卵焼き器を手に入れた。


三月八日月曜日。

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ひさびさに本家の卵焼きが食べたくなった。
でも現在はまつやの品書きに卵焼きは載っていない。どうしたら食べられるかを披露するとまつやさんの迷惑になるのでここには書かかない。まつやは相席が基本だ。

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僕の真向かいに座った二人目の紳士が、僕に供された卵焼きに羨望のまなざしを送っている。わさび芋、鳥わさ、焼き鳥。その紳士が、後発なのにまったく僕と同じものばかり注文するので、なんとなく好感を抱いていたところで目が合った。そのタイミングを待ち構えていたように彼は言った。

「その卵焼きはメニューのどこに載ってるんですか?」

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僕は質問に答えつつ、自分の卵焼きをひと切れお裾分けした。
おかげで神田まつやではいつも孤独酒を楽しむ僕が、珍しく話し相手を得てさしつさされつした。



吉田類さん主宰の句会『舟』事務局の伊勢さんと再び待ち合わせをしていたので、僕は蕎麦屋酒では御法度の長っ尻をせずにまつやを切り上げることが出来た。まつやの時間はいつでもあまりに僕を幸せな気分にさせるので、たいがいは野暮な酒呑みに堕落してしまうのだ。

午後三時、神田三省堂前。
無類の本好きとお見受けする伊勢さんらしい待ち合わせ場所だ。
僕らはランチョンでビール一杯分だけ話をした。午前中をかけて書き上げた句会北海道支部立ち上げに関する企画書めいたものを手渡しして、簡単に説明する。これからが楽しみだ。

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伊勢さんのおだやかな笑顔と物腰に触れると、こちらまで知的で文学的な人格になれそうな錯覚に襲われる。


さあ、これから横濱。


弥生三月東京日記4

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(三月七日日曜日の続き)

昨年の十二月も先月も、雪のトンネルを抜け出して来た身からすると東京は妙に暖かく、天空にはこの天気しかない、というくらいにどちらの日も美しく晴れ渡っていた。

だから、小雨に煙る隅田川の風景をここから眺めるのは初めてのことであり、でも肌寒い景色もまた良しである。

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それよりも句を仕上げなくちゃ。でも、天空のある駒形橋をはじめ、隅田川に架かるいくつかの橋や、そこを行き交う人や車を眺めたり、もうそれが日常になってしまったビール会社の驚天動地のオヴジェと、その斜め後ろの、訪れるたびに確実に背を伸ばしている東京スカイツリーの異様との対比に目を奪われてしまう。

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天気のせいか、今日は集まりが悪い。
午後三時開催の時間ギリギリに現れた吉田類御大が僕の顔を見て「お、また遠くから来てるな」とひと言。今日の兼題『春愁』は、さっきまで昼酒をご一緒していた事務局の伊勢幸祐さんよるものだけれど、ご本人がまだ句を完成出来てないのを僕は知っている。

ジャーナリストの有田芳生さんや、小樽以来すでに何度もお逢いしている常連メンバーが次々と駆け込んで来る。

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特に合図もないまま、それぞれが用意して来た句を短冊にしたため始めている。手慣れたスタッフがそれを回収し、手際よくシャッフルして用紙に書き移す。そいつを人数分コピーして、全員の句が手元に渡ると、各自が選句に入る。自分以外の句で一番良しとするものに天、二番目を地。伊勢さんがマイクで、四時までに選ぶようにとの案内をした。ご自分のは出来たのだろうかと耳元で尋ねると、さっきの北星さんとの時間をモチーフに即興で創りました、だって。

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午後四時を過ぎて、端から順番に、自分が選んだ天地の句を述べてゆく。全員が終わると、天地が多く集まった句から、その句に一票投じた人が理由を述べてゆく。前回二月から、この際に披講する(句を読み上げる)のが僕の役割になった。参加三十人で六十句。大役だ。御大直々のご指名で、嬉しくも緊張する。

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最後に作者が名乗りを挙げ、自分の思いを表明。では次に得票が多かった句、という塩梅で続けられる。その頃にはワイングラスも乾き始め、オードブルが次々運ばれて来る。

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ワインが進むほどに、言葉が交わされるたびに、会が和やかな雰囲気に包まれ、隅田川が闇に沈み、入れ替わりに街の灯りがひとつまたふたつ。宵闇が小雨ににじむ至福のとき。

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                  頬づえの 春愁の薄紅 瞬間の恋     北星




追記

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今回はなんとなくそのまま解散ムードの強かった閉会直後、
「思いっきり遠くから来てくれた人もいるし、じゃあちょっと行きますか」と吉田御大のひと声で二次会へ。

句会の北海道支部設立のキーマンである北海道新聞社の岩本碇さんは、東京支社から三月一日付けで札幌本社勤務に決まり、残務整理と引っ越し、新天地デビューの超ハードスケジュールを縫い、風邪をおしての出席! 二次会の神谷バーで、女優の小桃さんと黒澤さん、両手に花の僥倖にもかかわらず…

だから碇氏は三次会のバーリィ浅草にはたどり着けなかった。
かくいう私も、バーリィ浅草まではたどり着いたものの、常軌を逸した日程の東京三日目にしてコックリ。ふと意識を取り戻したときには、「あ、ほら、北星さんが目を醒ました」と御大にからかわれる始末。ごめんなさい!



                          黒髪は 春愁の宴 風宿る     北星


弥生三月東京日記3



三月七日日曜、小雨模様。
午前中は日記を書く。

吉田類さん主宰の句会『舟』事務局の伊勢さんと午後一時に浅草演芸ホールの前で待ち合わせ。一本裏道のディープゾーンを案内してもらう。

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まず立ち飲み安兵衛で酎ハイを一杯。誰もがテレビの競馬中継に見入っている。
奥のカウンターには、類さんの俳句が掲げられてるそうだが、とても分け入ってチェックするような状況ではない。でもこれぞ日曜昼の浅草。るつぼだ。

「この人北海道から来てるんです」と伊勢さんが告げると、威勢のいいお姉さんが、大きな声を出して、たった一杯で立ち去る僕らを、いつまでも手を振って見送ってくれた。

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次に、正ちゃんへ。ここは何度か表のテーブルというか屋台席に座ったことがあったけど、その奥に店があるのを知らなかった。伊勢さんもそっちは初めてとかでちょっとわくわく。表のおじさんが「案内してあげて」なんて、大仰に言うのだもの。

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立て付けの悪いがらりの扉をガタピシ言わせながら開けてくれる。
小さな小さな店内は、新聞片手のおじさんたちでびっしり。二人も入れるのかなあというカウンターだけのたたずまいだけど、誰ともなく詰めてくれて、よっこいしょ。

伊勢さんは瓶ビール。僕は酎ハイ。煮込みをひとつずつ。
なんとも浅草くさい空気の真ん中で、句会の北海道支部設立の話なんかをひとくさり。伊勢さんが、あ、まだ俳句が出来てないんだった。

午後三時から駒形橋のむぎとろで句会なのだ。
そろそろ天空へ向かいましょうか。

(つづく)


弥生三月東京日記2



昨年母を亡くした時、四十九日の納骨の前日に、僕が投宿した三崎港の旅館に高校大学の仲間が集まって、母の遺骨を置いた広間で宴を持った。

このとき親子三人で参加してくれた早川家。旦那は僕の北海道移住の原点を作った、大学時代の弾き語りの相棒にして中湧別出身の男である。二十歳の冬、早川との二回目の北海道の旅で知床を訪れた朝に、流氷の向こうから歩いて来た女子二人組のシャッターを切ってあげたのがきっかけで、片割れの和ちゃんは早川の奥さんになった。

その和ちゃんの父上が僕の母に次いで昨秋に亡くなったとき、僕は葬儀に駆けつけられなかった。


三月六日土曜日。

和ちゃんの葛西の実家に線香を上げにお邪魔する。
お昼ご飯を食べていってと母上が言ってくださったのでありがたく食卓に付いたのだけれど、まあお昼から豪勢な刺身だのビールだ焼酎だと罰が当たりそうなご馳走だ。こうして僕の友人たちも亡き父上からずいぶん供応を受けた。亡くなるほんの少し前にも、病院から戻ってきた父上を見舞いに行ったつもりが、友人たちはいつも通りの大歓待をいただいたとか。そんな方の葬儀に参列した男たちの心中はいかばかりだったろう。

父上の会社を継いだ和ちゃんの弟は、ずいぶん貫禄が出ていた。錦糸町の丸井の前で午後二時半に待ち合わせをしている僕を、車で送ってくれた。

三四郎外観

高校一年からの友人タケさんは、先月も横浜で付き合ってくれた。

三四郎

一方のテラオはワセダの劇研にいた男で、当時は化粧して六本木をうろつくようなとっぽい奴だった。それが今じゃすっかり堅気になって、『酒場放浪記』をチェックしては、二人して類さんゆかりの酒場をめぐるのを楽しみしている。テラオ曰く、「老後にとっておくはずだった楽しみを前倒しで実践しちゃってるよ。早く年金でねえかなあ」。情けないこというな!

テレビ

三人で向かったのは、これも『酒場放浪記』で紹介された『三四郎』。
ここの焼酎ハイボールも要チェックだった。今回の出張のテーマでもある。
すぐ横に場外馬券売り場があり、三四郎のその日の客はみんな特殊な新聞を手にテレビに見入っていた。普段は午後10時閉店。土曜日は競馬のために開けているようなもので、午後6時閉店である。

串カツ

くりから

とはいえ、焼酎ハイボールももろもろのつまみも絶品!

品書

三四郎焼鳥

牛乳で磨きこんでいるというカウンターの天板は、さもありなんという感じに白く輝いていた。

カウンタ

タケさんとテラオはこの後さらに連れ立って月島の岸田屋に行くという。
ものすごくうらやましかったけど、僕は6時から渋谷で打ち合わせなのだ。
今回の出張の三大テーマのうちの大事なひとつ。まあ、岸田屋には行ったことがあるし仕方ないか。



地下鉄半蔵門線で一本。5時15分には渋谷到着。
待ち合わせには間があるので、酔いを醒ますためにしばしお散歩。
渋谷区広尾が本籍地の自分はこの人ごみにしり込みする道産子ハーフだ。

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午後6時。正しくハチ公前。馬頭琴演奏家のチ・ブルグッドさんと彼のバンドメンバー(キーボード、ギター、パーカッション。ベースは欠席)と合流。ワタミの座敷でちょっと失礼、 i PODにスピーカをつないで、ホッピーを飲みながら試作の楽曲を聴くという風変わりな打ち合わせとなった。

僕は楽曲のテーマと組曲のシナリオを書き下ろし、新しいライブを追究するバンドのプロデューサー的立場というか、演奏しない一員というか、そんなポジションで参加して欲しいという依頼を彼らから改めて受けた。


午後8時半前、バンドメンバーと渋谷を後にして今度は田町へ向かう。
これも先月に引き続き、ラルゴの菊浦史と待ち合わせたのだ。
本日の第四ラウンド。今月は前回にも増してハードだなあ。

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すべてはわがもっきりバルに還元するための勉強。それを知ってる菊浦史が、ぜひ星野を連れて行きたい焼き鳥屋があるので…ということで彼の地元田町だったのだ。

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暮れに泊めてもらった、白金台の豪華マンションに住むイタヤさんも加わったときには、この日何回目の乾杯だったのだろう。ここでもかなりホッピーを飲んだ。生ビールではこうはいかない。とはいえ、今日は昼からずっとなんだ。田町の二軒目でシンデレラ蕎麦を厳かにいただいて、僕は二人を残して駅に向かう。

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都営三田線の最終は午前0時5分発。とんでもない一日だった。
浅草を通り過ぎ、本所吾妻橋で下車して、ひとりおぼつかない足取りで深夜の散歩としゃれこんだ。


弥生三月東京日記1

三月五日金曜日。

定宿東横イン浅草千束に投宿してほどなく18時10分頃、傘職人の藤井先生が車で迎えに来てくれる。毎年八月の最終土曜日には、花火を鑑賞するために仲間たちが集まる、隅田川にほど近い墨田区業平の藤井先生の家に車を置いて歩く。地蔵坂商店街を抜け、京成線の踏み切りに出た。

三祐入口

曳船駅線路沿いの『三祐酒場』は、吉田類さんの『酒場放浪記』でも紹介された名店だ。
以前からここの下町ハイボールが飲みたかった。一升瓶から黄色い怪しい液体をジョッキに注ぎ、炭酸で満たす。一升瓶の液体はあらかじめ焼酎と何らかのシロップを合わせたものと思われる。梅なのかな? なんなのかな?

三祐酎ハイ

こいつがさっぱりして旨い。ウイスキーのハイボールともまた違う、東京下町の味だ。軽くて何杯でも呑めてしまいそうだ。

新宿しょんべん横丁あたりで飲ませる、常温の焼酎のもりきりに一滴垂らす、あのいかにも体に悪そうな梅シロップとは別物なのだろうか。どちらもわがもっきりバルで提供したいのだけれど、このシロップの正体がわからない。知りたい。

アジタタ

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煮こごり

明日は百貨店での実演に呼ばれているというので、藤井先生とは早々に午後九時半、東武曳船駅の改札でお別れ。昔はこんなことありえなかった。ずいぶん一緒に過激な飲み方をしたものだ。

先生

僕は電車で浅草に帰りつき、吉田センセイじゃないが、
「この辺にはまだ馴染みの店が何軒かあるので、ちょっとだけ寄ってみますか。それじゃあまた」てな感じで深夜まで一人旅を続ける。

春愁(しゅんしゅう)。

りんりんと


「春の季節の、なんとなくうれわしい気持ち」(広辞苑 第三版)


昨年三月三十一日(火)は、東京の広告代理店時代の先輩吉田さんと北海道文化放送の制作部・細谷プロデューサーの双方からお誘いを受けて、倉本聰さん主宰の富良野塾第24期生卒塾式、及び卒塾公演『走る』にお邪魔して来た。

開演前のロビーにたたずんでいたら、古巣のビデオプロモーションの金井社長(当時/現会長)が、かれこれ四半世紀前にもなる、僕の広告屋初仕事のCMに出演していた天宮良さんを連れて現れた。その晩は、くまげらでその金井さん天宮さん、コーセーのカリスマメイキャップアーティストの荒丈志さんら、懐かしい方々と杯を交わす嬉しいハプニングもあり、忘れられぬ一日になった。

僕の大学卒業論文(文学部演劇専攻)は倉本聰さんと山田太一さんのテレビドラマ論、題して「悪人のいない風景」であり、卒業後に務めたビデオプロモーションでは、担当クライアントのコーセーさん、サントリーさん共に倉本さんがらみの仕事を随分させてもらっていた。

昨年三月三十一日のことは日記にも詳細に記そうと思っていたのだけれど、日々に追われているうちに母のことがあり、「卒塾式(富良野塾)とボク1」までを書いて、2も3もないままに未完で終わってしまった。

だから25期生をもって閉塾となる、今年の富良野塾の最後の卒塾式は必ず行かなければと思っていたし、現に吉田さんからも細谷さんからもお誘いいただいた。

雑誌オトンで取材をさせてもらって以来、懇意にさせていただいている細谷プロデューサーは今年定年を迎える。最後の大仕事がこの二年間追い続けた25期生を通して見た人間倉本聰の渾身のドキュメンタリー。当然、最後の卒塾式が取材の上でも番組としてもクライマックスとなる。


母と祖母

ところでこのところ、昨年四月二三日に亡くなった母の一周忌の準備に追われていた。僕は北海道小樽市在住。父母の墓は神奈川県の三浦海岸にあり、主な親戚は東京ということで、自分の仕事も含め、日程の調整に頭を悩ませながら、最終的に四月四日(日)に決定。案内状も発送し終わった。

何かが引っかかっていた。
霊園も飛行機も宿も手配を終え、会食の場所もメドをつけた。


!? 嗚呼、そうか。
最後の卒塾式は四月四日だった。

ショックだった。



母と私

母の一周忌と卒塾式の優劣はつけられまい。でも、二〇〇七年十一月に母を横須賀の病院から小樽の施設に移送するとき、僕はずっと心の中で、老人性痴呆症の母親を題材に『りんりんと』と『前略おふくろ様』を書いた倉本聰に、自分の想いを重ね合わせていた。

http://azumashikikuni.blog16.fc2.com/blog-entry-220.html
http://azumashikikuni.blog16.fc2.com/blog-entry-222.html
http://azumashikikuni.blog16.fc2.com/blog-entry-226.html


昨年夏に富良野塾最新の芝居「帰国」をビデオプロの吉田さん、K2の長友啓典さんらと富良野に観に行った晩に、くまげらの二階で初めてお目にかかり、おとといわがもっきりバルに足を運んでくださった羅臼の阿部さんも、お前は卒塾式に行かないのか、俺は吉田さんから宿はどうしますかと聞かれたぞ、とおっしゃっていたっけ。


今日から東京だ。
毎月第一日曜日の吉田類主宰『舟』天空句会の三月例会出席に併せて、いくつかの用事をこなしに行く。

事務局の伊勢さんから二月二十日に届いたメールには、三月の兼題が記されていた。

「春愁」
冒頭の広辞苑の理解をもう少し深めようと、俳句関係のブログを閲覧していて、こんなのも見つけた。

「ものみな全てが春を 謳歌しているような時、何故か人間だけは思い沈むことがあるようです。具体的な 悩みがあるわけでもないのですが、何かしら心が晴れず、鬱々としてしまうような 心持ちになります」

そういえば、四月の第一日曜日は四日だなあ。
 

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