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2010-04

定年。



『誘いメシの想ひ出

  貴兄は背筋も凍る上司に出会ったか?

    誘い誘われ やがて半世紀 星野 惠介



社会人第一日目、所属する予定の部所の方々が開いてくれた新入社員の歓迎の宴が終了すると、四月一日以前からアルバイトで通っていた僕だけ、その日部長と課長に昇進した二人の上司にそのまま拉致された。

新宿二丁目の、背徳の匂いがする I という店を出ると、新課長もどこかへ消えてしまい、テラさんという役者が営んでいる『火の車』という小さな居酒屋で、いきなり僕は部長とサシで向かい合っていた。明け方近く、新部長の「これからお前はどうするんだ」の問いに考えもなく、会社で寝ますとだけ告げたら、タクシー代を渡された。

社会人の第二日目は、だから新しいデスクに突っ伏した状態で始まった。

 

新課長は胃が痛くなるほど社会人のしきたりを僕に教え込んだ。外出先からタクシーで一緒に会社に戻り、支払いをしている彼に礼を言わなくてはと車外で立っていると、なぜ一足先にエレベータのボタンを押していない、と叱責された。接待の席、少し酒が回って椅子にもたれていた僕の背後から、トイレに行きしなに彼の肘打ちが秘かに飛んで来た。新米なりに二軒目へ行くのだろうか、と気をもんでいたら、なぜタクシーを呼んでいないのか、となじられた。日常業務の「ほうれんそう(報告、連絡、相談)」の重要性や、ご接待でも送別の会でも、それは主役のための宴席なのであって、仲間内で話にふけるなとか、そういうことを仕込まれたのはすべてこのS課長からだった。



毎日夜遅くまで上司にふられた仕事をこなし、ようやく自分の仕事に手が付けられる頃になると、主任クラスの先輩から「おい、メシ行くぞ」と声がかかる。この場合のメシとは、食事というよりも酒を飲む色合いが強いことが分かってくる。こうなると今夜の寝床も会社のソファだなと覚悟を決める。



花見の場所取りは新入社員の役どころという風潮はその頃すでに薄れていたけれど、櫻狂いの僕は毎年毎年、会社から近い花見スポットに宴席を設えた。

ある年、花見の予定の日は朝から雨で、件のK部長が僕に申し訳なさそうに「これじゃさすがに今晩は無理だから、せめて飲みに行くか?」を声をかけてくれた。でも僕には秘かな計画があって、騙されたと思って午後7時、いつものJR四谷駅近くの土手にいらしてください、と豪語した。

会社ご近所の仕事仲間、キャンプ仲間からアウトドアグッズをごっそり借りて、普段は花見客でごった返すのに、終日の雨でさすがに人っ子一人いない中央線沿線の桜並木に僕はタープを張り巡らせ、ガソリンバーナーの竃を作り、ランタンの灯りで櫻をライトアップして、屋根のある宴会場の一丁上がり。僕のお誘いに半信半疑、三々五々集まって来た連中も次第にこの非日常的宴席にのめり込んで大盛り上がり。気がつくとS課長は櫻の木に登っており、そんな姿が死ぬほど嬉しくて、僕の酔いは一気に加速度を増し、僕は記憶を失った。



広告屋の僕らの仕事で、僕が凄く好きだった女優さんを僕のクライアントの化粧品のCMに起用したことがある。その後、夏のとある日に彼女の(事務所からの)お誘いで、貸し切った屋形船の上で一緒に酒を飲んだ。暮れには彼女の誕生日を祝う事務所の身内の宴席に呼ばれた。調子に乗った僕は、彼女の目前で彼女のお祝いのために彼女の持ち歌を歌った。どちらもS課長が一緒だった。



今回、取材させていただいた放送局勤務の関川信明さんは、Sさんと同年生まれだった。夕刻のおでん屋小春から数件お伴させていてだいたのだが、もう一軒行くかという関川さんの問いかけに、小樽行きの終電には乗りたいと僕は告げた。その時関川さんに「君が僕の会社の部下だったら、ふざけるな、と言うところだ」と言われ、対談の取材を地でいく展開になってしまった。もう随分「組織」から離れていた僕は、関川さんとSさんを勝手に重ね合わせていた。

その晩は、札幌の事務所のソファで眠った。



入社からおよそ10年。発作的な亥(いのしし)の決断で、僕はこの広告会社を離れることになった。ベトナム料理の食事会のあと、K部長が二次会に選んだのは新宿二丁目の I だった。I はあの入社の日以来だ。

仕事で遅れて駆けつけてくれた連中も加わって、送別会はそれなりの人数にふくれあがっていた。怪しい噂なんかもあるその店は、むしろ体育会系的で健康的な盛り上がりをみせていた。厳しく叱られた上司が、一緒に仕事をして来た同僚が、「メシ」に連れて行ってくれた先輩が、みんな狂ったように踊っていた。S さんは首から外したネクタイを鉢巻のように頭に巻いていた。

その時、すうっと滑るように出口の扉に向かうK部長の姿が、狂乱の合間を縫って見えた。その後を追って店の外に出ると、K部長はそのままずんずん深夜の雑踏に向かって行く。「K部長!」僕は大声で叫んだ。一瞬、K部長の足が止まり、僕の方へ振り返った。一次会の終わりに富良野一本締めの音頭をとってくれた部長の顔は無表情で、二秒くらいできびすを返すとそのままネオンの向こうへ行ってしまった。僕は後ろ姿に頭を下げて見送った。

十五年前のことだ。』





三年前に雑誌掲載された僕の文章の採録だ。

数日前、携帯電話がなった。 

「海を越えると携帯の電波も途切れがちになるもんだねえ」 

名乗りもせずのひょうひょうと小粋な切出しは、19年前のS課長からだった。Sさんと話すのは何年ぶりだろう。しばしのよもやま話の後、この電話の用件がご自身の定年退職の報告であることが分かった。       Sさんの部下だった当時、彼と顔を合わせることを考えただけで胃が痛くなり、登社拒否したくなるような時期もあった。19年前にS課長よりも先にその会社を辞し、北海道に移住して以降、さまざまな場面で「あのころ言われたことの意味」を少しずつ理解出来るようになって来た。

足腰立たなくなるくらい否定されることはあっても、それは必ず二人きりの時に限っていて、僕の部下の前では決して僕の面子を潰すことはしなかった。そういう配慮の重みに気づいたのもずっと後からのことだ。

20年近く離れていたそのSさんが、「ほうれんそう(報告、連絡、相談)」の重要性を僕に叩き込んだSさんが、わざわざ僕の携帯電話番号を調べて、自分の定年退職を僕に報告してくれた。

おつかれさまでした。少しゆっくりしてください。あなたにはその権利が十分すぎるほどにあります。あなたは私の恩師です。


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命日。

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昨晩僕は、わがもっきりバルの遅番だった。
午前一時に閉店して、後片付け、掃除、レジを締め、車で札幌市内のスタッフを送って小樽まで帰還すると結構な時間になる。だから今日の出社は午後から。眠ってはいたけれど、家にいたおかげで朝九時に届いた花を「不在票」なく受け取ることが出来た。

店を閉めた時間が、ちょうど母の最後に駆けつけた時間だったので、命日を意識はしていたけれど、目覚めと共に届いた花には意表をつかれた。

花は東京の友人、菊浦史(ふみ)からだった。

横須賀の病院から小樽の認知症施設に移送して一年五ヶ月。
北の国では僕以外に身寄りのない母を、主に仕事関係の方々のご好意で自宅葬で見送った。通夜の晩、読経の後にふり返ると、そこに菊浦史が立っていた。目を疑った。足かけ6年に渡る僕の内モンゴル行の相棒は、あまりの驚きに叫び出しそうな僕に言った。

「かあさんのこと、内モンゴルでもいろいろ聞いていたのに何もしてあげられなかったから、せめて線香をあげに来たよ」

母の発病を知ってから二年弱、ただの一度も涙を流したことのなかった僕が、この菊浦史の登場には涙が止まらなかった。

新宿御苑でスノーボードを中心としたアウトドアショップ『Largo(ラルゴ)』を経営する菊浦さんは、その日店を早じまいして飛行機に乗り、通夜の席ギリギリに現れて焼香。翌朝6時小樽発のJRで新千歳に向かい、いつも通り午前11時には新宿御苑の店を開けたという。

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今朝の花は、一年前の通夜登場とまったく同じ衝撃と感動で僕を打ちのめした。二年続けてやられた。凄い友人を持った。

こんなに深い優しさに、残念ながら見合うことばを僕は持ちえない。
ただ、今すぐこの男に逢って酌み交わしたいと無性に思った。


両国の若松さん。

 

一昨年の春だったか、早朝に両国駅のガード下を歩いていて気になる店を見つけた。間口一間ちょっとの街のラーメン屋風なのにすでに営業しており、のれん越しにカウンターといくつかのテーブルだけのこじんまりした店内の様子が透けていた。

一番奥の左側のテーブル席に安焼酎とウーロン茶のペットボトルで盛り上がっている人たちが見えた。何となく朝から飲みたい気分だった僕はそれが気になって、一度通り過ぎたのに引き返したり、も一度中をのぞいたり。のれん越しに行ったり来たりしている挙動不審の男を、中の焼酎ウーロン茶割りの男たちが笑いながら観ているのも知らずに…

それから僕は上京のたびにそのラーメン屋に「飲みに」行くようになった。会社をリストラになった人や、健康を害して思うように働けなくなった人だとか、そうしたちょっと訳ありの年配者が平日の朝から飲んでいる。その店はナント朝四時半開店なのだ。

僕が10時ころ訪ねると、一番早い人がすでに5時間くらい飲んでたりする。朝9時に一度出勤した印刷会社の重役が、ネクタイ姿でかけつけ5杯飲んで、名物の鳥ラーメン290円なりをたいらげて仕事に戻っていったりもする。印刷屋さんは、うまい!としゃがれ声で叫び、やっぱりコレだよ、と豪快に笑う。そこは不思議で、ちょっと切ない男たちのたまり場だった。

朝四時半に店を開けてお昼には上がる若松さんは、この店の二代目店主のお姉さんの旦那。一昨年の時点で母と同じ75歳だったと記憶しているが、その数年前までタクシー運転手を50年以上続けていたという。初代が夜勤明けの労働者のために午前四時半から営業していたことに感じ入り、二代目ではなく、若松さんがその伝統をこの30数年にわたって受け継いで来た。だから若松さんのタクシー歴最後の30年は、午前四時に店に入り、昼まで中華鍋をふって、午後からタクシーに乗る。あるいはタクシーの夜勤明けに午前四時半から店を開け、昼から眠るという想像を絶する暮らしぶりだった。

営業中はずっと焼酎を飲んでいる。
昨年の6月に突然この店が閉店してしまうまでの間に僕はずいぶん通ったし、若松さんや常連さんと昼カラ(オケ)に出かけたことも2、3度以上ある。彼らのお供をしていると、太陽が高いうちに出来上がってしまう。なんて愚かで素敵な時間を浪費したことだろう。

この2年間、若松さんは場所ごとに相撲の番付表を送ってくれた。
ときどき携帯が鳴って、ごぶさただね、なんてご機嫌お伺いが来る。印刷屋のWさんは60代半ばの裕次郎が十八番のハスキーボイスで、若松さんから電話を奪い取り、「ホシノさんに逢いたいよ。あんた来ないと淋しいよ。また一緒に歌おうよ。北海道からいつくんのさ?」なんてひと回り以上、ふた回り以上も年上のじいさんたちがラブコールをくれるのだ。


ちょうど一年前に母が亡くなった朝、僕は訃報の電話連絡を親戚や友人、大切な人に混ざって、なぜか若松さんにしてしまった。平日の木曜日だったけど、そのときも隣でWさんが飲んでいて、電話を代わったWさんは、しゃがれながらも甲高いいつものトーンを少し落とし、お悔やみの言葉をくださった。


昨年6月の母の納骨の際の上京では、この店とさらに昼カラの店でも母(の遺骨)を抱いて若松さん、Wさんと飲んだくれ唄っていた。それが翌月の7月に訪ねたときにはシャッターが下りていた。二代目との壮絶な衝突で「上等だよ、明日から辞めてやら」ということになり、若松さんを失った二代目は半世紀続いた店をそのまま畳んでしまった。

そのときも、そのあとも、若松さんとは二度ほど昼酒のご相伴をしたけれど、やっぱりホームベースが失われて、ここのところはとんとご無沙汰をしていた。先代の頃から40年近くも通っていたという印刷屋さんは、朝酒の店を失ってさぞかし困っていることだろう。 


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北海道に帰る4月19日の朝、若松さんに久々に電話する。
ふたつ返事で若松さんは僕のいる浅草に駆けつけてくれた。
電話がつながってから正確に20分後。まだ午前中だ。そんな奴は友だちにもいやしない。

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再会を祝してホッピーで乾杯! 
正ちゃんの牛モツ煮込みは絶品だ。

呼びつけたみたいでスミマセン、と頭を下げると、母と同じ年齢の、頭に来たらヤクザでもぶっ飛ばしてしまう若松さんが言った。
「俺は好き嫌いがはっきりしてるから、嫌いな奴とは口もききたくないんだ。でも、俺はあんたが好きだから、逢いたいと思ってタクシー飛ばして来たさ。電話もらって嬉しかったよ。へへ」


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若松さんは年齢の割りに携帯電話を使いこなしている人だ。
突然、以前いっしょに唄いに行った富良野出身のじいちゃんに電話して、僕に電話を代わった。次はしゃがれ声の裕次郎、印刷屋のWさんにかけている。ご無沙汰の挨拶の後、「ええ!?」と大声を出した後、若松さんが神妙な顔付きになって僕に電話を代わる。聞き覚えのある声は、以前よりももっとしゃがれていた。

「おお、ホシノさんか! オレさあ、酒と煙草やり過ぎて、喉頭がんになっちゃったよ。放射線治療してるから、今日は会えないんだ。6月には治る予定だからさ、そんときゃ唄おうな。ああ、ホシノさんに会いてえなあ」


わがもっきりバルの三冷と違って、中外(ナカソト)のホッピーはきつい。正ちゃんのは特に焼酎の量が多くて、昼酒にはかなり厳しい。でも、この日に限ってはこちらの方が良かったような気がした。

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追伸
飛行機に乗り遅れました。



今朝のスカイツリー。

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花冷えの新潟から戻り、浅草界隈の朝を散歩する。
金曜土曜の東京は寒かったけれど、ようやく春の陽気だ。

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雷門から吾妻橋を渡り隅田川の向こう岸へ。
どの位置からもスカイツリーが眺められて面白い。
業平から押上に向かうとツリーの根っこだ。
今日の身長は349メートル。

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水路の水面に写るは逆さ富士ならぬ、逆さツリー。

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ぐるりまわって言問橋を渡り、隅田川沿いに名残りの櫻ちらほら。
櫻以外の春の息吹もそこここに。

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終点浅草千束までのそぞろ歩き。

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新潟吟行2



4月17日土曜
日朝9時過ぎ、上野駅新幹線乗り場には人が溢れていた。大雪の影響とかでダイヤが乱れに乱れているのだ。なんてこった。春の遅い北国から上京して来たというのに。新潟は櫻が満開を迎えているはずだと聞いていた。

しばらくして吉田類さんから電話がかかる。お互い一番早く出る列車に飛び乗って、新潟駅で落ち合うことになる。結局僕は予約した新幹線よりも一本早い、でも、一時間遅れで午前10時に出発の列車に乗った。昼すぎに新潟駅着。ひと足先に到着してお茶を飲んでいた吉田類さんと合流する。


この日の目的地である菊水酒造さんは、本来なら新潟駅からさらに在来線で小一時間、そこからタクシーで十分の距離である。でも新潟駅にはお迎えの車が来ており、てっきり御大のために酒造さんが手配したものと思った。三十分ほど走ってお昼に蕎麦屋さんに入ってから、ようやくその方々が地元在住の類さんファンの主婦とその友人であることが判明。僕はおこぼれに預かったのだった。

類そば

ゆっくり蕎麦とビールをいただいたので、菊水酒造到着は句会スタートの午後二時に限りなく近い時間になっていた。手入れの行き届いた広大な庭園風の敷地内を離れの会場に向かう。

山

木の実2

花1

荷物を置いてから、酒の貯蔵タンクのある棟と酒文化に関する膨大な資料群を所蔵した棟を拝見する。

仕込み樽

酒器2

酒器3


酒器4

展示1

それからしばし、三時頃までは句をひねる時間が与えられた。事前に兼題(その日のお題である季語)が与えられる定例会とは違って、訪れた地で受けた印象で即興的に詠むのが吟行の醍醐味である。あいにくの天候ではあったけれど、類さんも、敷地内の豊かな緑の中をそぞろ歩きしていた。

類そぞろ

木の実1

田んぼ畝

家

この日はひとり二句提出。僕は、短冊にしたためられた約五十の無記名の句を無作為に別紙に書き出すお手伝いをした。さらにその三枚の紙は、人数分プリントされて参加者全員に配られる。

枝垂れ

会場1

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蕾

そこから個々が句の選出をする。自分以外の一番よしと思われる句に天、二番目に地を投じる。はじから各々の天地を発表の後、得票の多かった句に天地を入れた人間が順繰りその理由を述べる。最後にその句の作者が名乗りを挙げ、当人の意図を披露する。その際に一句一句を詠み上げることを披講といい、吉田さんの句会では最近それが僕の役割となっている。

社長

乾杯

外の景色を愛でることのできるガラス張りの美しい部屋で、力作ぞろいの句会の終了と重なるように、酒造さんの観桜の宴の準備が始められる。

お重1

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残念ながら、満開のはずの櫻はつぼみのままだったけれど、ただ酒を造って飲ませるのが目的ではなく、酒の文化をこそ広めたいという菊水酒造社長のご挨拶通り、その夕の宴の目玉は江戸時代のレシピを再現したというお祝い料理であり、それらを盛る、時代を経てやって来た器たちだった。

宵

句会参加者に加えて酒造の社員さんや社長とご縁の深い海上自衛隊の制服も凛々しき方々も加わり、宴席は最初は遠慮がちに、やがてにぎやかな盛り上がりを見せ、最後は地元祭りの木遣り歌で朗々と締められた。

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新潟吟行1



浅草の定宿にチェックインした瞬間、電話がなった。
4月16日の夕刻。吉田類さんからだった。

17日土曜日は吉田類さんの句会の新潟吟行(俳句を詠むための旅)で、そのため前日に上京した。愛用するJALの翼には札幌ー新潟便がないから。

類さんの用件は、明朝の新幹線の時間を合わせて一緒に新潟に向かおう、というものだった。その気遣いに僕は小躍りしたけれど、あいにく投宿する直前に秋葉原の駅で指定券を購入しており、類さんの申し出よりも一本後の便だった。類さんの便がかなり混雑しているようなのは、さっきの秋葉原で想像がついていた。

いったん電話を切り調べてみると、すでに発券しているチケットはJR駅でないと変更が効かないとのこと。当然のことながら、浅草から今一度秋葉原まで出向いて予約をし直す手間よりも、類さんの申し出の方が百倍重たいので、シャワーを浴びてから、小雨の浅草を歩く。

秋葉原の緑の窓口で長い列に並んでいるとき、再び類さんから電話が鳴る。残り三席のひとつを無事確保し、しかもそれが類さんの押さえた便の同じ車両であることを告げる。吉田さんが乗り込んでこられる途中駅を確認して、それでは明日、新幹線の車内で、ということになった。

オヤジ

秋葉原まで来てしまったので、浅草に戻る途中でいいことはないかと考えた。そうだ、総武線で浅草橋に出て、久しぶりに「やまと」に顔を出してみよう。僕は前回の上京(母の一周忌、句会)以来十日以上、小林酒造の蔵まつりにお邪魔したときを除いて、酒を口にしていなかった。そんなことはめったにないので、肩慣らしに「やまと」の白いチューハイは調度いい。

白い酎ハイ

やまとはごったがえしていた。
いつものあの無愛想な店主の顔が見えないので、おや?と思っていると、見慣れたお姉さんが言った。「ごめんなさい、今日は一杯なの」「え?たったひとりも入れないの?」「うん、そこもここも(と空席を示し)全部予約が入っていて…」

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10ヶ月ぶりの白いチューハイに未練が残ったけれど、諦めて都営浅草線で浅草へ。指定席の件がなければ、もともとホテルから真っ直ぐに立ち寄るつもりだった「並木藪」ののれんをくぐる。そぼ降る雨にしっとりと濡れた老舗のたたずまいは、それだけで酒飲みの心をくすぐった。

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やまとの喧騒とは一転して、そこには蕎麦屋酒の静寂の宇宙があった。

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ぬる燗とわさび芋を注文して腰を落ち着ける。店じまいの早い老舗の蕎麦屋の、閉店までもうそう時間のない間合いだったので、かえって凝縮したいっときを味わった。締めにざるを一枚(並木藪では一般に言う「もり」「せいろ」のことを「ざる」と言う。海苔はかかっていない)。

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ホテルで借りたビニール傘をさして、浅草五丁目を目指す。

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昨年の入谷朝顔市の晩、根岸の「鍵屋」さんで知り合った飯田夫妻の営む「ニュー王将」へ。

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相席で腰掛けた鍵屋さんの小上がりで、向かいに座っていたのが飯田夫妻だった。ご主人は浴衣を着ておられた。飯田さんのニュー王将が吉田類常連の店であり、昨年還暦を迎えた類さんがお仲間から赤いちゃんちゃんこを着せられたのがニュー王将であり、同じく吉田さんや飯田さんがよく通っている正統派のバー「バーリィ浅草」を教えてもらったのもその夜のことだった。出逢った翌日の昼と夜、僕は早速「ニュー王将」にお邪魔して、その瞬間からすっかりファンになっていた。

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三月の句会で上京した折だったか、ニュー王将の飯田マスターが体調不良で入院されたことを奥様から伺った。ニュー王将のカウンターで知り合った常連さんが僕のブログに書き込んでくれた近況から、飯田マスターの退院と、四月中旬からはお店に復帰されるだろうという情報を得ていたので顔を見に来たのだった。でも、マスターはまだ静養中で、奥様がひとりカウンターにいた。「私独りだと何にもできないのよ」と奥さん。それでも、と言って訪れていた常連さんが何人か。僕はカウンターで奥さんの作ったおつまみとワインをいただいた。

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隣に独りでいらしていた常連の女性客に、奥さんが去年からの僕らの「なれそめ」を説明してくれている。ご夫妻のお嬢さんが結婚されるというので、出張で昨夏に行った内モンゴルの帰りに、北京でめでたそうなお土産を買って、成田からその足でニュー王将に届けに来たエピソード等々。

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考えてみれば、昨年11月14日の小樽に於ける吉田類講演会で、僕が「ニュー王将」に関する質問を類さんに投げかけなかったら、今のお付き合いはなかったかもしれない。飯田マスターに教えてもらって以降、一人で何度も通ったバーリィ浅草で、吉田類さんの句会の仲間たちとわいわいと二次会するようになるなんて…。

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明日は新潟吟行。




酒蔵まつり(栗山/小林酒造)へ。


4月10日(土)、11日(日)は、わがもっきりバルでも扱わせてもらっている「北の錦」小林酒造の酒蔵まつりだった。僕は店のスタッフ3名と日曜日にお邪魔して来た。

3月27日(土)に脇田征也杜氏の最後の蔵案内に参加してからまだ二週間。引退直後のまつりなので、お目にかかれるのではと思っていたけれど、関係者の曰く、身を引いた者がそこにいると、いつまでも新旧交代がなされないと考えているのでは、とのことだった。う~ん、人間引き際が…ということか。さすがだ。

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栗山の酒蔵は、僕の知りうる限り、かつてないほどの盛況のように見受けられた。久しぶりに資料館の展示を拝見。何度観ても『甑(こしき)倒し』の宴(そのシーズンの酒造りの無事終了を感謝して行う酒宴)の再現は圧巻だ。

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ひと足先に栗山に訪れていた僕は、昨晩遅番で閉店まで働いてくれていた連中とこの資料館の前で昼過ぎに落ち合った。

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まつりの中心たる酒の販売や試飲のコーナーの混雑は半端ではない。四代目の弟さんである小林精志専務は現場主義の方で、この日も忙しく飛び回っていらした。

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明治大正昭和の蔵が一番蔵から六番蔵まで。その敷地の中に四代目ご兄弟のご実家、三代目が住まわれている旧家がある。四代目はそこにいらっしゃると伺って、この先プライベートエリアのため立ち入り禁止の表示の先にある玄関へ。ちょうどお嬢様らしき少女が玄関先に出て来た所で、名前とご挨拶だけさせていただきたい旨を告げる。

四代目社長小林米孝さんが現れて、特別に中に導き入れてくださった。その威風堂々たる造りに、一同恐縮の至り。僕はかつて何度かお邪魔させてもらっているが、まさか今回スタッフと一緒に通していただけるなんて思ってもみなかった。ありがたい。

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入ってすぐのソファの部屋にひと組の先客がいらして、四代目はそちらにつき、僕らは囲炉裏のきってある次の間を越えて、奥の間に通された。わがもっきりバルにも来てくださった奥様がお膳を運んでくださる。塗りの器に酒肴とぐい飲み。造り酒屋の旧家の客間でのこの展開に三名はかなり緊張の面持ちだ。

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やがて先客がお帰りになり、社長が僕たちの元へ。酒蔵の客間で四代目のお酌で…緊張は感動に変わる!
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社長に最初にお目にかかったのは、3月で引退された脇田杜氏の取材で記念館を訪れた16、7年前になる。まだ、四代目を襲名される以前のことだ。この飾らない、変わらない人柄。

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七年前にこちらの酒蔵直送の酒を飲ませる酒亭「七番蔵」創業のお手伝いをさせていただいた。そのご縁は現在も続いている。そして昨年暮れに風の色が開いた酒場にも、四代目は惜しみないご助力をくださっている。その酒場のスタッフをもてなしてくださって、僕自身も鼻高々。顔を立てていただいて、なんと幸せなことだろう。

僕らのシアワセはぐんぐんと加速し、お宅をおいとましてまつりに戻ってからも止まることを知らず、さらにお酒をいただき、かつ、お土産の酒を仕入れ、店用に北の錦前掛けや吟醸酒粕を仕入れ、帰りの札幌行きバスでは意識を失う者、記憶を失っていた者が…

小林社長ご夫妻、小林専務、ありがとうございました。
北の錦ファンのみなさん、ごめんなさい。



四月の馬さん。

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二月、三月と馬さんとの関係が少しだけ進展したような、少女の恋のような気分で、四月五日の朝も馬さんの店『龍仙』を訪ねる。

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いつも馬さんは午前十一時四十五分頃に本店に現れるので、その頃、食べ(飲み?)終わるように、十一時少し前に入店するのだ。

何てったって今回はお土産(白い恋人/CM出演でお世話になったので、お菓子はコレと決めている)を持参しているのだ。バレンタインの朝に、好きな男子にチョコを渡すために通学路で待ち伏せしている女子はきっとこんな気分なんだろう。

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豆苗とガツのカラシ和え、それから餅米のシウマイで、青島ビールと紹興酒をちびちび。十一時半を過ぎ、十一時四十五分を過ぎ、お昼を過ぎても馬さんが現れない! お店の女性に尋ねても、馬さんの時間は分からないという。嗚呼。十二時十五分、諦めて店を出る。

名刺にメッセージをしたため、店員さんに「馬さんへお土産なので渡してください。皆さんでどうぞ」と言付けて店を出る。

僕の遅まきながらのバレンタインは空振りだった。

   馬さん。毎月北海道からやって来るホシノです。
   今回はおみやげを持って来ましたよ。
   今日は馬さんに逢えなくて残念です。
   また来月!

そして馬さんの決め台詞をこちらも締めの返礼代わりに使わせてもらったのでした。

   イノリ イツモ シアワセ



一周忌と句会。


四月四日午前十時。
精算を終えて旅館を出て、昨夕お願いしておいた法要のための献花と供物を港の花屋と果物屋で受け取って車に乗る。

午前十時二十五分、三浦霊園到着。三々五々、親族参集。
午前十一時、母の一周忌法要の読経が始まる。墓前にお参りの後、予定通りお昼頃、料理屋のバスが迎えに来て会食の席へ。

この頃から僕は気が気ではない。
吉田類さんの句会『舟』の定例会が始まる午後三時にはむろん間に合わないのだけれど、東京滞在中に時間を見つけて事務局の伊勢さんに投句することになっていたのに、それが出来ていないからだ。

法事の主催は僕なので、着席の誘導も、品書の案内も、飲み物の注文、本日のご挨拶からお酌まで、ことごとく僕自身の仕事なのである。ひとしきり宴が進み、舵を取らずとも席が自然と和んだ頃、僕は廊下に出て兼題の「花」をひねっていた。午後二時、事務局伊勢さんにメールで二句送信。

午後三時過ぎ中締め。
お返しの品を手渡し散会。バスにて京浜急行三浦海岸駅へ。
午後三時四三分発特急にて出発、途中親族と別れ、僕はそのまま浅草まで。

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午後五時十一分到着。駒形橋から、今日のスカイツリーの塩梅を眺めてから、むぎとろの句会会場「天空」に乱入する。

終盤から参加の僕を見つけた吉田類さんに背後から肩を叩かれる。
その日の披講を担当していた女性から、吉田さんの指示でバトンタッチ。まさか今日の出番はないと思っていたので、少々狼狽しながらマイクを手に俳句を詠み上げる。

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花見客でごった返す浅草の喧噪を横切りながら、ビューホテル手前の小路を入ったバーリィ浅草で二次会。珍しく吉田さんのすぐ横の席にあたり、他のお二人と一緒にけっこう吉田さんと話し込んだ形になった。

乾杯類さん0404

俺はしょうもない酔っぱらいだけど、半端な酔っぱらいではない。
真面目に遊ぶこと、禅宗で言うところの『痴聖』が境地と見つけて救われた気持ちになった。ただ酔ってクダを巻いているだけではどうしようもないけれど、そこに俳句などの文学的要素が伴って初めて自分の存在価値が出て来る。

御大は、概ねそんな話をされていたように思う。
まさに『酒場詩人のすすめ』である。

わが店に頻繁に来店してくれている北海道新聞社の岩本さんとは、舟句会の北海道支部立ち上げに関してかなり時間をかけて相談を重ねて来た。東京出発前、月末の経理作業やらわが店の諸々で髪を逆立てながら、相談の要旨を企画書めいたものにまとめることも忘れなかった。上京後のばたばたの中にあっても、そいつをいつ、どこで、吉田さんと伊勢さんの時間をもらって説明ご相談するか、頭を離れたことはなかった。

嗚呼、今宵も句会の二次会はこうして四人の時間を得られぬままに終了してしまうのだろう。次の機会はいつになるのやら。明日?


三崎館本店にて。

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四月三日夕方、昨年も宿泊した三崎港の老舗旅館に到着。昨年六月の母の四十九日、納骨の前日に、さっきまで弘明寺で共に花を愛でた友人どもが、同じ旅館の同じ部屋で母の遺骨を前に追悼の宴に興じてくれた。

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遺骨を抱いて海を渡り、電車に乗り、人に会い、酒を飲んだ数日間に疲れ果てていた僕は、その暖かい追悼の宴(まぐろづくしの食卓!)と、さらにそのまま泊まってくれたふたりの友に安心し切って、数日ぶりに深い眠りにつくことが出来た。

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今年は父方の末っ子(私の叔母)夫妻がひと晩付き合ってくれることになっていた。午後六時はまだ明るく、次第に濃くなって行く群青の空色と共に、心地よい、宵と、酔いが流れ出し、僕はゆるゆると溶けていった。



弘明寺の櫻。

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四月三日。
前述の重たい用事もこなしつつ、両親の墓のある三浦方面に南下する途上、昨年、母の納骨前日にわざわざ三崎港の旅館まで母を追悼しに足を運んでくれた友人たちと合流した。

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中学三年の六月から金沢文庫、最後の実家はその先横須賀の福祉大学前だったので、京浜急行は長年利用していた。けれど、弘明寺駅に下りるのは初めてで、当然、高名な弘明寺の櫻を列車以外から眺めるのも初めてのことだった。

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観音様にお参りしてから、にぎわう商店街で酒と酒肴を仕入れると、大岡川に突き当たった。ホッピー仙人前の櫻並木から、同じ川伝いに上流にたどり着いたことになる。

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川沿いの凄まじい人ごみから水際に下りる階段を見つけ、場所を定めて腰を下ろす。こいつらともずいぶん杯を交わし、花も愛でたけれど、年々言葉遣いは軽みを帯び、そこに込める思いは比重を増しているような気がする。ワルぶる奴ほどセンチな野郎どもなのだ。

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楽しみを切り上げるのがヘタクソな僕だけれど、親戚が待っているので、ふたたび弘明寺の駅に向かい、三崎口を目指す。

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再会。


ホッピー仙人を後にして、待ち合わせの店に急ぐ。先月初めて訪れた、横濱市立吉田中学校の野球部時代の一年先輩の古正史次さんの店『酒 膳 童 史(ふみ)』である。

三月に三十五年ぶりに再会した先輩に僕は礼状を書いた。今度上京する際には、常連の同窓生の誰かに逢いたいと。それに応えて古正先輩から電話をもらい、四月二日午後七時が指定された。野球部のさらに一年先輩だった人の妹で同級生のNさんが来ることだけは知らされていたけれど、それ以外に誰が呼ばれているかも分からなかった。

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高ぶる気持ちを抑え、意を決して扉を開くと、常連らしき見知らぬおじさんと若者が三名、カウンターだけの店をすでに陣取っていた。店主の古正さんが「おお星野、よく来たな」と笑顔で左奥の席に促した。そこには五名分の箸が用意されており、まだ誰もいなかった。こっちが遅刻と気負って来たのにちょっと拍子抜けだ。

一番奥に座り、古正さんとワインで乾杯。常連さんは店主から話の成り行きを聞いているらしく、これから起こるであろう三十五年ぶりの再会の瞬間を見届けてやろうという素振りで、ときどき僕に話しかけてくれる。

やがて扉が開いて女性が二人現れた。中学の同級生がそのまま年輪を重ねた姿がそこにあった。前述のN嬢ともうひとりがY嬢。「誰だか分かる?」とN嬢が尋ね「もちろんだよ」と僕。

でもその一方で、その二人がセットで現れたことに関しては、当時を思い起こしても僕の頭の中では関係が繋がらず不思議に思えた。そうそう、吉田中野球部では、歴代キャプテンがキャッチャーを務める習わしがあった。二人と話し始めるうち、僕とバッテリーを組んでいたエースのOと、どちらも一時期付き合っていたという共通項が見つかった。しかもYさんは、二年生の時に僕が付き合っていたバレーボール部の I さんと仲良しだった人だ。

遅れて現れたのはT嬢で、一緒に暮らしているというO君(エースのOとは別人)ともどもやはり同級生でよく覚えている。同席するはずのO君は残念ながらその晩は来られなかった。

僕が通っていた日本で一番古いガス灯のある横濱市立本町小学校に、O君は何年生の頃だったか東京から転校して来た男だ。当時誰も見たことのなかったジージャンを身にまとい、それはどう考えても自分たちの知らなかった、新しく、格好いいファッションだった。その後しばらくして、全校で、さらにしばらくして全国で、ジージャンが流行した記憶がある。 

N嬢もY嬢もT嬢も、来られなかった I 嬢も、訊くにつけ語るにつけ、女性陣はみなそれぞれに人生の辛惨をくぐり抜けて来たらしい。それでいて同級生という横の繋がりを絶やさず、またO君同様、同級生と生活をともにしている男女も少なくないようだ。

中学三年以降、この界隈から離れてしまった自分には、そうした諸々の繋がりの中で生き続けている彼や彼女たちこそ、これぞハマっ子と思われ、なんともうらやましい気がした。

おんなじ年齢の女性たちに、三十余年の歳月を越えて「ホシノ君」と呼ばれる不思議なおもはゆさは甘美ですらあり、今宵の酒の気だるい酔いとともに、もう少し浸っていたいと願わずにはいられなかった。



四月のホッピー仙人。

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祖母を見舞った後、その足で横濱に向かう。JR京浜東北線を桜木町で下車し、都橋商店街へ。

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都橋商店街は大岡川に浮かぶ要塞のようだ。対岸に回るとその要塞がぼんぼりの櫻越しに妖しい偉容を誇っている。横浜駅から京浜急行の線路に沿うようにして大岡川が流れており、上大岡駅あたりまで川岸に櫻並木が続くのだ。

午後七時の開店時刻と同時にホッピー仙人へ。でも扉が開かない。おかしいな。臨時休業の張り紙もない。諦めて名刺にメッセージをしたため、手土産の袋ごとドアノブにかけようとしていたら、管理人さんに声をかけられる。管理人さんが気を利かせて仙人の携帯を呼び出し、僕に替わってくれる。

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仙人は、後10分で到着するので待ってて欲しい、と。そのとき午後7時半。すでに別の場所で人を待たせており、挨拶だけのつもりだった僕は瞬時躊躇したものの、顔だけでも拝んで行こうと待つことしばし。

仙人とほとんど同時に常連さんが何名か店になだれ込んで来た。仙人は、明日の店主催のお花見の会場作りで遅れたのだとか。場所は「かもん山公園」。え? 僕が四つから中学三年の六月まで住んでいた花咲団地のすぐ近く、いつも学校が終わると遊びに行っていた公園じゃないか! 懐かしいなあ。ぼろぼろだったその公団住宅は目前にランドマークタワーをのぞむ場所にあり、現在高層の立派な建物に改築中である。

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仙人が寒い場所取りの厚着を脱ぐと、半袖Tシャツの背中にカイロが貼り付けてあり一堂爆笑。仙人は僕の人となりを三人のお客さんに披露しながら、バーボンウィスキーのウォッシュチーズという、一風変わった僕の手土産をすかさず取り分けてお裾分け。僕は立ち去りがたくも、一杯の白ホッピーをぐっと飲み干し、ホッピー百周年の記念ステッカーをいただいて店を後にした。

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血族。

ふさとふみ

四月四日の母の一周忌法要まで、二日三日はかなり忙しいスケジュールだった。

まず、東京府中市の施設に入所している母の上の上の姉を訪問する。母より十歳年上なので、今年八十七歳になるはずだ。昨年母の四十九日で上京したおりには、僕の口から彼女に妹の死を伝えた。つらい役目だった。

結婚式

三男四女の末っ子である母は十歳になる以前に両親を亡くし、長兄が親代わりに皆を育ててくれた。七人のうち現在存命しているのはわずか二名。この府中の姉と母との間のもう一人の姉は、昨年四十九日に足を運んでくれた人だ。けれどつい先日ご主人が脳血栓で倒れ、今も集中治療室で加療しているため、今年は妹の一周忌に参列することができない。

帰りしな、府中在住で僕の古巣の広告代理店の先輩にして、一昨年退職された女性と食事をする。こちらも母上の介護の生活を送っておられる。


さて、今も僕の本籍地である父の実家は東京都渋谷区広尾で、群馬県から十代で単身上京した祖父はこの地でお茶屋を開業した。現在の“お茶と海苔の「星野園」”の看板の文字は書家だった母によるものである。

星野園を訪れた後、広尾からほど近い、三月十八日で九十五歳になった祖母が世話になっている施設を訪問。僕の父は四男二女の長兄で、僕は初孫であり、祖母には格別に可愛がってもらった。この人にもしものことがあった時、僕は両親のときよりも悲しむに違いない。

祖母

僕が十歳にも満たない頃、この祖母に東京タワーの蝋人形館に連れて行ってもらった。帰り道、何が食べたいかと聞かれて、僕は鰻と答えた。小さい癖に鰻好きとはと感心した祖母が注文してくれたのは特上の『中割れ』だった。

ご馳走するのが大好きだった祖母は、腹を痛めた子供たちのことすら判然としなくなった今でも、見舞いに来た僕らに、今晩はどこで何を食べようかと気にかける。祖母は九十を越えてもつい数年まではカクシャクとしており、僕が四十半ばを過ぎてからもお年玉や小遣いを渡そうとした。

窓外に櫻が見える夕暮れの施設。どこかに連れて行ってくれと懇願する祖母に、今度来た時には東京タワーに行こうと僕は約束した。

母との旅 2010

母寿屋

かつて母と三度飛行機に乗った。
最初は僕が三十くらいの頃、一緒に香港に行ったとき。二度目は2007年11月、横須賀の病院から小樽の施設に母を搬送したとき。三度目は昨年六月、遺骨になった母を、神奈川県三浦海岸の父が眠る霊園に連れ帰ったとき。

両親ともにいなくなって、一人っ子の僕にはもう実家というものが存在しないので、昨年六月の帰省(上京?)の折りには、母の四十九日、納骨までの数日、ホテル暮らしをしていた。

もちろん、泊めてもらえそうな親戚や友人の当てがない訳でもないのだけれど、特別な「手荷物」を携えていたこともあり遠慮した。かといって、昼間に仕事や用足しに外出する際、ホテルの部屋に放置しておくのも気が引けて、僕は母を連れて移動した。

それと分からないように梱包していたので、そのちょっとした大荷物を持参したまま人と会ったし、宵には居酒屋で酒を飲んだ。

四十九日、納骨の前日には、僕が投宿した三浦市三崎港の老舗旅館に、母と面識交流のあった高校大学の友人が何人か集まってくれて、ようやく開梱した母を床の間に宴を持った。

そして今年。四月一日。
もう共に飛行機に乗ることもないと思っていたら、一周忌の法要には位牌が必要とのことで、ふたたび母と海を渡ることになった。


母との旅

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