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2012-02

亀と七番蔵。

亀ちらし

昨晩、7年ぶりの再演というTPSの芝居『亀、もしくは…』に足を運んだ。
初演から17年。そのつど配役を新たにする変遷を僕もたどって来た。
なぜなら、1995年の札幌マリアテアトロでの初演から長く出演していた山野久治と僕は二十数年前の東京広告屋時代に知り合い、制作会社を経由して、山野をロケーションコーディネイターとして、倉本聰さん出演のサントリー・オールドのCMシリーズ、倉本演出の北海道拓殖銀行のCMシリーズが生まれた。

僕が北海道に移り住んで来たばかりの頃、ちょうど『亀…』の作・演出・主演である斉藤歩の演出作品である『ドレッサー』(1994)に山野が主役で出演していた。札幌西武赤れんがホールで、ロケコーディネイターではない、俳優・山野久治と初めて出逢った。

そんな縁で、『ドレッサー』で金色に染めていた髪がまだその名残りをとどめていた斉藤歩を伴って、小樽の拙宅に山野が酒を飲みに来て泊まっていったりした。

もともと失業状態で北海道に渡った僕は、当時の山野のロケサービス会社で現場仕事を手伝って急場をしのいだし、その後も失業する度に山野に助けられた。札幌初演の 1995年に、函館公演を同行取材したり、富良野公演のスタッフ出演者の宿舎でもあった、かの「くまげら」に深夜乱入したり、別の失業時(1997)には、『亀』の道内巡業にスタッフキャストの運転手として雇われたこともある。だから『亀』には格別の思い入れがある。

2003年は面白い年だった。
山野とロケーションサービスと広告映像の企画制作会社『風の色』を立ち上げて三年目。夕張郡栗山の造り酒屋・小林酒造直営の酒亭『七番蔵』の創業に関わらせてもらった。
はじめてCMの制作ではなくCM出演の機会があった。

七番蔵看板

さかのぼること8年前、雑誌に小林酒造の取材記事を書いた。現在の四代目、当時の小林常務が僕の文章を気に入ってくれて意気投合。造り酒屋として、いずれ蔵の酒を直送で飲ませる店を構える時には手伝って欲しい、と。で、2003年秋にそれが実現した。

栗山に明治・大正・昭和の赤れんがや札幌軟石づくりの蔵の連なりが有名な風景を生み出している小林酒造。それぞれが一番蔵、二番蔵…と六つの蔵からなる蔵群れ だ。その小林酒造が、札幌に七番目の蔵を開きました。だから、七番蔵。社長となっていた四代目と酒亭に名前を付けるところから共同作業させてもらった。そしてその屋号は書道家である僕の母による。創業リーフレット、創業ちらし。そして、店の品書は今でも手がけさせてもらっている。

その2003年の暮れ、TPSでは何回目かの『亀』の再演中で、風の色の代表山野も出演していた。それならいっそ、ということになり、その年の風の色の忘年会は、まずは夕方に『亀』を鑑賞、そのまま『七番蔵』に移動して出演を終えたばかりの俳優たちも交えて杯を傾けるという趣向となった。

山野と僕と若者と、たった三人の風の色主催の宴は、だからロケや映像制作の関係者にとどまらず、四代目小林社長、僕のCM出演のクライアント(北海道銀行の宣伝担当が三人も!)、俳優や音響照明や衣装、美術さんら演劇界隈の人々…という多岐にわたる出席者による幸せな時間になった。

2005年に『亀』は原作の国ハンガリーへ渡った。
2009年の二度目のハンガリー公演『冬のバイエル』(斉藤歩作・演出) には僕も足を運んだ。

七番通し

そして幸せな忘年会から8年と少しの昨晩。17年目の亀と再会した足で、七番蔵へ。

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ジョン・レノンと北温泉。

tenguyu4.jpg

20年数年前、まだ都内のアパートに住む横浜人だった頃。

翌日に予定のない男同士で金曜日の酒を飲みながら、このままお互い浮いた出来事が起きなければ、イブは温泉もいいだろうという話になった。その年も確かクリスマスは週末だったのである。

同じ広告代理店のメディア担当の後輩キタゴーとむなしく盛り上がりながら、長身で色男のくせに多分予定のないであろうテラオにも電話をして クリスマス仲間を増員した。大学の同期生だったテラオは、在学当時は鴻上尚史主宰の第三舞台(同じ頃同じ大学にいたのです)で芝居をしており、化粧して六本木を歩いているようなとっぽい男だった。12月23日の晩はそうして過ごした。

前の晩からの流れでその年のイブは、かつて僕が三年間住んでおり、その後世襲でキタゴーが住むことになった西早稲田の6畳ひと間のアパートの部屋で目覚めた。

待ち合わせの駅に向かう直前、テラオから急きょ参加出来ないと連絡があった。午前中に行った医者で痛風が判明して、温泉どころではなくなったという。

完全に露天風呂モードに入っていた僕とキタゴーは、もう飲めない身体になったと嘆くテラオの深刻さを理解しようともせず、また、20年後に自分にも降りかかる災厄とも知る由もなく、医者に行くのが来週だったと思えば、 今晩だけ飲んだって態勢に影響はなかろうと引き止めた。
だって、どうせ昨日まで飲んでたんでしょ、と。
しかし日頃のテラオらしくなく、その日の決意は固かった。

東京から列車とバスを乗り継いで4、5時間。築百年を越える那須の「北温泉旅館」のクリスマスイブは、 だから、結局、また男二人だけになった。

渋い客室での夕食や、プールほども広い露天風呂に浮かれながら、否応なく晩酌のペースは早まる。
夕方から降り続いていた雨。予感はあった。

ありったけ持ってきてかけ続けていた、古今東西クリスマスゆかりの名曲ばかりの音楽テープ(カセット!)の中に、かの山下達郎の名曲はあったかどうか…。 その晩その曲の歌詞通りに、雨は夜更け過ぎに雪へと変わり、男二人の温泉のイブは最高潮に達した。

そうだ。テラオを悔しがらせてやろう。

客室のテレビでやっていたのは何の映画だったか…。
とにかく、同じ文学部演劇専攻だったテラオが、その晩観ていないはずはないクリスマス作品だった。その映画のエンドロールが終わるか終わらないかのタイミングで、テラオの自宅に電話をかけた。

「もしもし…」

テラオの声だ。その瞬間、僕ら二人は 、
「メリークリスマス!」 と叫ぶと同時に音楽スタート!
曲はジョン・レノンの「Happy Christmas~戦争は終わった」。
全一曲を無言で再生して、そのまま電話を切った。


翌朝、二日酔いの視野に入ってきたのは予想外に積もった大雪。
まだ、早朝である。 大変だ。こいつは早いとこ、露天に直行だ。
本州の人間、街場の人間は、ホワイトクリスマスにめっぽう弱い。

そのとき、僕らはわが目を疑った。
築百年のきしんだ扉を開けて、突然テラオが現れた。

ジョンの歌声が効きすぎて、テラオは未明ハンドルを握った。
明け方、まさかの大雪に行く手を阻まれ、北温泉に続く峠の道でクルマを乗り捨て、それでもヒッチハイクと徒歩でたどり着いたのだ。

肩に雪を積もらせ、白い息を吐きながらテラオが言った。

「メリークリスマス!」


ジョン・レノンとおでん。

ジョンレノン

1980年の12月8日は31年前ということになる。
その日、第二外国語のフランス語の教室では、誰もがジョン・レノンの訃報を口にしていた。 授業が終わって追悼ということになり、僕とテラオは大学の近所のおでん屋台に座っていた。

大根、ちくわぶ、コップ酒。 東京、師走のすきま風。
トランジスタラジオからジョンの歌声が流れ続けていた。

それから毎年12月8日はテラオと一杯やるのが決めごとになった。 就職後も、毎度場所は変われど、なんやかやと長く続けた。
ただし、19年前に僕が突然道産子に転身して以降の12月8日は、電話口で「シワス!(仲間内の12月の挨拶)」と叫ぶかファクシミリでの交流に留まっている。

道産子3年目晩秋。
札幌の素敵なおでん屋を雑誌取材する機会があった。
おでんからの連想ゲームで1980年12月8日の屋台のことにも触れた。 その原稿を「だから今年の12月8日はこの店に来よう」と締めた。

16年前の12月8日。僕は実践して「一平」のカウンターにいた。
少し酔いが廻ってきたころ店の電話が鳴った。店主の谷木さんが「ホシノ君に」と受話器を手渡してくれる。 え? ひとり戯れに立ち寄っただけなので誰も知らないはず…。

テラオからだった。

「あいつのことだからいるに違いない」
記事を読んだ東京のテラオが、 誌面で紹介した番号にかけてきたのだった。 電話の向こうから懐かしい声。

「やっぱりな。シワッス!」

今宵一平に行きたいけれど、財布に千円しか入ってない。
(2011年12月8日)

「大衆酒場もーり」その後。

もーり店主


昨年12月9日付けのブログに、神奈川県の横須賀中央にある「大衆酒場もーり」の廃業について記した。 http://kazenoiro.asablo.jp/blog/2011/12/09/6237672

横須賀のマンションに独り住まいしていた亡母が2007年盆に発病したおり、小樽から出向いて病院をあたり、嫌がる母に診察を受けさせ、あれよの入院の挙げ句に今度は退院を迫る病院との交渉を続け、小樽市の施設を探し…。11月末の退院と小樽への移送、その後の役所の膨大な手続きから、2008年3月末にマンション売却が整うまでの約7ヶ月、僕は小樽と横須賀を20往復した。

病院のほど近くに「もーり」という大衆酒場があった。
朝9時から午後11時まで年中無休で営業しているその店に、僕は何度通ったことだろう。なんせどんな時間帯に病院に出向いても、通り道のその店は常に営業しているのだ。

つらい宣告を受けた直後も、言葉少ななスキンヘッドの店主との静かな交流が僕をどれだけ支えてくれたことか。

朝に昼に夕に、僕はもーりののれんをくぐった。

すべてが一段落して店主に暇乞いしたとき、
「あんたのことは間違いなく忘れないから…」
と言ってくれたのが嬉しくて、昨年11月に沿線三浦海岸の両親の墓参りの帰りに久々に立ち寄ったらもーりはなくなっていた。

冒頭のブログとフェイスブックで「消息をご存知の方がいれば」と呼びかけたところ、クリスマスイブに店主にごく近しい方から連絡をいただいた。今日まで報告出来なかったのは、ブログ等にどこまで書いていいか、その方を通じご本人の了承を得るのに時間がかかったからだ。昨晩遅く一番新しいメールをいただいた。

店主は健在だった。

年中無休、午前9時から午後11時までの営業をかたくなに貫いて40年近く、気力と体力のバランスが崩れ始めていた昨春、あの天災が起きた。深く関わっていた地元の祭りも中止になって、張りつめた糸が切れたように、先代と合わせると70年続いたもーりの歴史にピリオドを打った。昨年5月9日だったという。

消息を教えてくれた人が僕の書いたことを伝えようとすると、店主はすぐに僕との経緯を話し始めたという。僕には再会したい気持ちが強かったけれど、そうした思いを最大限に感謝してくれた上で、店主と客の関係で終わりましょう、と伝えて来た。

残念さよりも、最悪の事態まで想像したけど元気でいてくれたこと、約束通り僕のことを覚えていてくれたこと、これぞ飲食業のプロという言葉への敬意が軽く勝って、それ以上のお願いはしなかった。

だから、僕の中でもーりは永遠になった。


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