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2015-08

逢わねばならぬ人に逢う__風の盆 2015


下線文Ryo.jpg

二十五年前の終戦記念日に父は危篤になった。

さかのぼること三年半前に大腸ガンの手術をしたのだけれど、早期発見で良かったと安堵していたはずなのに、術後余命三ヶ月と言われた。人工肛門になり不自由な思いをしながらも、三年が経過し、一時は自宅に戻っていた。さすがに周囲の人間の緊張感も緩んできた。このまま病は消失してしまう気さえしていた。

一九九〇年の八月十五日、東京のアパートで成田を目指して靴を履いている時に電話が鳴った。横濱の母からだった。今すぐ帰ってらっしゃい。え、これから成田だよ。

おとうさん、危篤よ。

誇張ではなく、あと一分電話が遅ければ僕は成田からアジアのとある国へ飛んでいただろう。携帯電話なんてない頃だ。現地に着いたが最後、連絡がついたとしても、盆の混雑で真っ当に戻れたかどうかすら定かではない。

僕は成田ではなく、横濱の病院を目指した。

暑い終戦の日だった。
僕が父の病院に着いたのは黙祷の時間を過ぎた頃だったと思う。
父方のほとんどの親族は僕より先に病院にいた。
緑が視野いっぱいに広がる病院の窓辺に蝉しぐれが降り注いでいた。

父の意識はなく、激しい息遣いだけが辺りに響いていた。
もう会話はできる状態ではない。
何時間かして唇が少し動いたので耳を近づけた。
父は言った。「レコードが止まった」。

夕方、意識は戻らないものの危篤状態を脱したので、医師の勧めにより親族はいったん解散ということになった。集まった親族はほとんどが都内からだった。

看病に疲れていた母に変わり、その晩は僕が父の部屋に泊まることになった。
長年絶望的に父とはぐれていた僕は、都内のアパートに住みながら、術後しばらくはともかく、後半は横濱の父を見舞うこともまばらだった。

終戦の日から日が変わった午前三時過ぎ、ふたたび危篤状態に襲われ、宿直の医師と看護師の措置も功を奏さず、父はあっけなく息をするのをやめてしまった。つい数時間前まで親族は一堂に会していたのに、一番父を顧みなかった僕がたった一人で父を見送った。

平成二年八月十六日のことだ。
平成二十一年に母を送り、同じ神奈川県三浦海岸の霊園に収めた。


サントリーの全身である壽屋に入社した父は、後のサントリーの広告黄金時代の礎を築いた、開高健さん、山口瞳さん、アンクルトリスの生みの親、柳原良平さんと同僚だった。

山口さんが父に宛てた数冊のサイン本はファンなら目も潰れそうな逸品で、山口さん自作の俳句が直筆でしたためられており、しかも柳原良平さんのイラストも記され、つまり二人がかりなのだ。


盆とはつまり、失った人たちがしばし帰ってくる日なのだという。
だからその道を見失わないように、灯篭を道標(みちしるべ)にしたりする。

その人たちと再会出来るということは、なし得なかった想いを遂げるチャンスなのだろうか。
父は享年六十三歳。僕はその時三十一歳。ただの一度もふたり酌み交わしたことはなかった。
人の親となり、父の年齢に近づくにつれ、あの人の無念にばかり想いがいっててしまう。年を重ねるにつけ、父親という孤独を、父親の寂寞を思わずにはいられない。


逢わねばならぬ人とは、やはり遅ればせの杯を掲げるべきなのだろう。
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