男が惚れる「吉實」吉澤 操2

一年後の同じ百貨店の同じ催事で再会したとき、吉澤さんは完成したボクの蕎麦庖丁を持って来てくれた。
そしてその場で、「ほし野」と刻印してくれた。
忘れもしない名セリフと共に。
左手には名入れするための釘のような道具を持ち、右で小さな金槌のようなものを握る。このとき、右足の親指と人差し指で庖丁の柄を鋏み、庖丁がずれないように固定する。金槌でこんこんとその釘のようなものの頭を叩きながら、ハガネの表面に名前を刻んでゆく。仕上がりの美しさ、達筆さ? に舌を巻き、
「凄い! いったいどうしてそんなことが出来るんですか!」
こういう場面で、いやあ~それほどでも、と謙遜するのは凡人である。そのとき、吉澤さんはこう言った。
「そうだよね。俺だって普段文字は右手で書く訳だよ。でも、庖丁に文字を刻むときはこうやって左手を動かして文字を描く。長いこと同じ仕事を続けていると、こんなことが出来るようになる。職人て、不思議だよね」
しびれた。
昨日、4本目の吉實庖丁になる出刃にまた名前を刻んでもらった。

黙々と砥石に向かい、時々刃の立った塩梅を確かめるように眺めている吉澤さん。
「このくらいに仕上がっていますから」

と新聞紙の面に平行に庖丁を動かす。
まったく力を入れていないのに、新聞の凸の面ががすうっと切れてしまう。
「こんなもんでいいですか?」とにやり。
集中からが解放されたように最後は会心の笑顔。
強面の男のこうした瞬間に,ボクはメチャクチャ弱い。
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