2008年8月16日

18年前の終戦記念日の午前中、一人暮らしをしていた都内のアパートから、今まさに成田空港に向けて出発しようとしていたとき、横浜の母から電話が鳴った。
「お父さん危篤よ」
さかのぼること3年半前、父は直腸がんの手術をし、余命3ヶ月の宣告を受けていた。それから3年以上の歳月が流れ、父の容態に対する緊張感が薄れていたのは確かだった。
横浜の病院に駆けつけると、ほとんどの親戚が集まっていた。たいていの終戦記念日がそうだったように、その日もうだるような暑さだった。蝉時雨が不愉快なほど耳についた。すでに父の意識はなかったが、僕が到着した頃には容態がやや持ち直していた。その日のうちにどうこうということもなさそうだという判断で、夕刻には集まっていた親戚たちは東京に帰って行った。
看病に疲れていた母も家に帰し、その晩は、もっとも父を顧みない生活をしていた僕が父の病室に泊まることになった。
翌未明、父は急に苦しみ出し、僕だけにみとられてあっけなく息を引き取った。午前3時半頃だった。「朝までにベッドを空けてください」という看護婦の無機質な言葉。朝もやの中、紹介された葬儀屋とともに父を自宅に連れ帰ったのが8月16日の始まりだった。
今年の終戦記念日は終日の雨降りだった。
といっても、現在住んでいる北海道小樽のことだけれど。
小樽の住民になって、この夏で17年目に突入した。
おらが町にもふるさとの祭りを、とのことで今年10回目を迎えた近隣の盆踊りも、9回目になるささやかな花火大会も中止になった。
父が亡くなって18回目の8月16日、昨年11月末に小樽に連れてきた母のもとを尋ねた。一年前から認知症が発覚、やむなく現在は、小樽市のグループホームという認知症患者のための施設に入所している。あれよという間に要介護4。今日も一人息子の僕を僕だと理解出来ず、自分の連れ合いの命日も分かっていないようだった。
この4月に施設で転倒して大腿部頸部と肩を骨折してから、母は歩くこともままならず車椅子のお世話になり、排泄も人の手を借りなくては不可能になってしまった。やむなく彼女の施設の部屋であちらから運んできた父の仏壇に手を合わせると、母はきょとんと眺めていた。
母は11月の誕生日から「後期高齢者」の仲間入りをする。
近頃では母と同年配の方々が皆元気に見えてならない。
昨日順延になった近隣の盆踊りと花火大会は、今日の夕方から無事開催された。ささやかな花火が、毎年毎年ほんの少しずつだけ立派になって行く様子は涙ぐんでしまうほどだ。よそ者の自分も、もしかしたらこの土地をふるさとに出来るかもしれない。
もともと、花火は昨日が500発、今日が1,400発、二日間に分けて打ち上げられる予定だった。これでも開催当初からすると何倍にもなったはずだ。それだって二日分を一日に固めても2,000発に満たない。隅田川の10分の1以下に過ぎない。
僕の家から見下ろす形で花火が打ち上がる。
朝里の町の灯が「夜景」というには申し訳程度にうっすら広がり、そこにかぶさるように2,000発未満の花が開く。
それでもウチの前には人垣が出来て、崖っぷちのすすきの影と人々の影が重なってゆく。
今年のわがにわかふるさとの花火はなかなかやるじゃないか。
隅田川も、鎌倉も、慣れ親しんだ花火大会と比較なんかしない。
でもすこし誇らしい気さえしてくる。
それはただ無邪気にその美しさを眺めていた時代と違って、
その後にやってくるさびしさも、
避けがたく訪れる御しがたい現実も、
容易に手に負えるものではないそれらのものたちを、
わずかの間だけやさしく包んでくれるのを知っているからだろう。
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