いとしの木ッ葉職人。

勝納川がすぐ横を流れる古~い民家。その壁にかけられた板に手書きされている『木ッ葉職人』という文字。木地挽き物職人のことを、略して木挽(こび)き職人などと言うけれど、小樽の木挽き職人、土門 収(おさむ)さんの作業場の入り口には、表札代わりにそう書いてある。
“コッパ役人”なんて言う表現を洒落ているのだろうが、木っ端と書きそうなところを“木ッ葉”としているのがさらに洒落ている。
土門さんと出逢ったのは、僕と同じく1992年に東京から小樽に移り住んで来た四軒隣りのサトーと二人きりで作った、道外民による北海道発信の雑誌『ヌプカ』の取材の折りだったから、かれこれ8年以上前になる。
取材当時、土門さんは80歳だった。
だからもう米寿も越えているはず。
数年ぶり(取材から数年は何度かお逢いした)に土門さんを訪ねてみようと思いたったのはいいが、僕は非常に緊張した。
それは、消息が気になって久しぶりに訪ねる銭湯…その時の感じに似ている。嗚呼、もう営業していなかったらどうしよう。
昨日の夕刻。
『木ッ葉職人』の板きれはそのまま。
作業場からは灯りが漏れていた。
目がしばしばするような、木の削り屑で構成されている宇宙のはじっこに,土門さんはちょこんと座ってTVを観ていた。他には誰もいない。窓ガラス越しに目が合った気がしたので、意を決して僕は、以前もそうしたように、立て付けの悪い扉を勝手に開けて奥に踏み込んだ。
大声で叫んでいたTVの音をしぼり、土門さんは立ち上がって僕の顔を見つめた。ほとんど瞬間的に僕のことを分かってくれたようだった。自分でもよくやるような、思い出せないのに、そうでないふりをして話を合わせているのではないのが伝わって来た。
『いやあ、懐かしい。久しぶりだよ、え?
あんたTVではよく見かけるけど…』
僕の出演しているCMのことを言っているのだ。もう間違いない。
なんせ、小樽の施設にいる僕の母は、75歳になったばかりだけど、ひとり息子の僕のことを分からない。そんな想いがだぶって、88歳の土門さんが僕を覚えていてくれただけで、僕は涙が出そうになった。
土門さんは現役だった。
仕事の依頼はめっきり減ったけれど、小樽職人義塾大学のメンバーの一人として、来週は市内の中学校へ指導に行くと言う。
『ヌプカ』で僕は、長年想い描いていた銭湯のページを作った。
新富町、勝納町、信香町。今は物寂しいけれど、実は小樽市内で最も古くから栄えていたエリアのひとつであり、鹿乃湯、潮の湯、小町湯という至近な三つの銭湯が作り出す三角地帯には、かつて遊郭や料亭や映画館などもあった。そこにスポットを当てた企画『小樽時間旅行 銭湯開始』で、潮の湯の常連である土門さんを知ったのだった。
土門さんには三つ年上の相棒がいた。大正6年元旦生まれの毛利雅美さん。ゼンマイ仕掛けの昔ながらの時計をきっちり直せる時計職人として、当時もバリバリと仕事をしていた毛利さんは、先日92歳を迎えた計算になる。
最初にお逢いしたとき、その毛利さんが、
「土門さんはね、昭和37年の台風19号による洪水で勝納川の上流から家もろとも流されて来て、そのままこの場所に住みついて今に至るんだよ」と真顔で言う。二人の掛け合いはいつも絶妙に楽しくレベルが高いのだ。
長年、毎週日曜日の午後6時半になると、モーリ時計店に土門さんが迎えに来て、二人して潮の湯に通うのが“決め”の仲良しだった。そんな二人の潮の湯での様子を取材させてもらったし、黄金の三角地帯(僕が勝手に名付けた)をそぞろ歩くお二人の小さな旅を誌上で再現した。取材後も何度か、お二人の“決め”にお供して、背中の流しっこにも加えていただいた。
「♪哀しみと失望と落胆を胸に秘めながら、しおらしく昔のことを思い出しながら、まだわたくし、いとしい人を求めております!♬」
潮の湯の脱衣場での三人の風呂上がり、突然即興で謳い出した、土門さんのあの名調子が忘れられない。
当時、土門さんの作業場からも、潮の湯からも30秒くらいにあるモーリ時計店の主だった毛利さんは、取材から数年の後、店を畳んで市内の息子の家に隠居してしまった。
昔話に花が咲いて一時間半、突然土門さんが立ち上がり、彼もご無沙汰している毛利さんに電話をかけた。30秒先の潮の湯に出かけて行くときでさえ、ふわりと首にスカーフを巻き付けるようなダンディだった毛利さん。さしもの毛利さんも、電話口の土門さんの言葉だけでは僕のことを思い出せなかったらしく、自分も毛利さんにご無沙汰しているし逢いたいから、と一週間後に僕の運転で毛利さんを訪ねるという素敵な展開になったのだった。
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