最後の宴。
横濱の実家が消失してしまったので、母の四十九日で上京した最初の4日間はホテルをとっていた。6月9日、10日と、母をホテルの部屋に置き去りに出来なくて、僕はこっそり母を連れたまま、居酒屋の片隅に座り、取引先を訪ね、酒を飲んだ。
ただでさえ飛行機で海を渡り、電車に乗り、東京の雑踏を歩き回り、その二日間であまりの緊張とストレスでやられてしまった。
母は八人兄弟の末っ子で、両親を10歳前に亡くしていたので、長兄の家で長兄の家族と育った。そこで一緒に育ったすぐ上の姉も現在は齢八十になり、14日日曜日の法要への出席も健康上の理由で定かでないという。そのまた上の姉は八十六歳で、都下の特別養護老人ホームのお世話になっている。
だから、母がたの親戚に母を預かってもらう事ができない。
父がたの親戚にそんなことをお願いしていいものか悩んだけれど、心労に耐えかねて三日目から母を預かってもらった。渋谷区広尾のお茶屋さん。父の実家である。私の本籍地でもある。
11日の晩は仕事の関係で、日韓中蒙のアーティストによるチャリティーコンサートに顔を出した。この足かけ5年間、毎度僕の内モンゴル行につき合ってもらっている友人とともに。コンサート終了後、関係者の深夜にまで渡る打ち上げにも参加した。池袋のモンゴル料理店だった。
その後、昔はさる都内の有名大病院の総婦長でならした、件の特養ホームの叔母を訪ねた。親戚付き合いの薄い母がたの親族の中で、母も僕も最も近しくしていた母の上の上の姉、僕にとってのおばさんだ。それでも、二十年以上のご無沙汰だった。
叔母は、最後の頃の母よりもよほどはっきりしていた。
僕を見るなり「ケーちゃん!」と呼びかけた。
その叔母に10歳年下の妹の死を告げるのはつらかった。
6月13日土曜。四十九日法要、納骨の前日。
僕は三浦半島の先端、三崎港に日本旅館をとっていた。
「貴重品」を持って旅を続けて来た身にとっては、明日朝から法要が始まる霊園のある三浦海岸にほど近いゆえである。
法要は親族のものだからと遠慮しながらも、お前の両親には世話になったからと言ってくれた高校大学時代の友人六名、子供が一人、わざわざその旅館まで会いにきてくれた。

夕暮れの漁港の宿屋の広間で、母を交えた宴がはじまる。
さみしがる僕のわがままにつき合って、そのうちの二人は僕の部屋に泊まってくれた。他の連中が京浜急行の三崎口駅へと向かった後、三人でさらに海辺の町に繰り出し、盃を傾けた。僕は久々に安心してしまい、母がいるのも忘れて気持ちよく記憶を失っていた。

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